第21話:暗がりの予兆と連行
湿った石の床に、靴音が響いた。
規則正しいリズム。重いのが二つ、軽いのが一つ。
牢の奥にいた俺は、思わず顔を上げる。
来やがったな。
鉄格子の前で足音が止まる。
影が差し、低い声が落ちた。
兵A「立て。副長がお呼びだ」
グル「副長? 呼び出しか。……シフト表に書いとけよ。俺、残業代つくんだろうな?」
兵B「黙れ。囚人の分際で口を利くな」
グル「じゃあ、いまお前が俺に喋ったのは規則違反だな。ほら、どうする?」
兵B「……減らず口を」
兵A「さっさと立て」
縄で腕を縛られる。乾いた縄は皮膚を割き、骨に食い込む。
兵の手に押されて歩かされる。
廊下は湿り、壁の苔は細い糸のように伸びている。
雫が滴る音。奥で鉄扉が開閉する音。
全部、もう聞き慣れた。
聞き慣れたから安心する。だが安心が一番怖い。
グル「なあ、どこに連れて行く気だ?」
兵A「分かってるだろ。副長室だ」
グル「昇進試験か? 俺、筆記なら得意だぞ」
兵B「処分に決まってるだろう」
グル「処分? じゃあ退職金ぐらいくれ。社畜にも慰労金は必要だ」
兵A「口を閉じろ」
角を二つ、階段を五段。
扉が見える。厚い鉄。油の匂いが鼻に刺さる。
兵A「入れ」
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
湿気が薄れ、代わりに冷たい秩序の匂いが満ちる。
香、酒、蝋、革――整えられた空気。
机の向こうに男がいた。
黒髪に銀が差し、長めの前髪の下から切れ長の三白眼。
こめかみには黒い角が二本。磨かれて、装飾のように光る。
灰がかった蒼白の肌は、生気を感じさせず石像のよう。
唇の端から覗く牙が、笑うたびにわずかに光を反射した。
――副長、ヴァルド=クレイノア。
彼は羽ペンを持ち、帳面をめくっていた。
軍服は黒と銀。肩章には魔王軍の紋章が刻まれている。
動きは無駄なく、呼吸すら計算されているようだ。
ヴァルド「……来たか。裏切り者」
グル「裏切ってねぇよ。俺が裏切るとしたら、便所掃除からだ」
ヴァルド「減らず口……記録に残すべきか迷うな」
ヴァルドはペン先を舐め、さらりと線を引く。
冷たい視線がこちらに上がる。
ヴァルド「訊こう。人間はどこへ行った?」
グル「知らねぇ」
ヴァルド「鍵に触れられるのは看守であるお前だけだ」
グル「俺が扱うのは便所の鍵だ。牢は知らん」
ヴァルド「屁理屈だな」
グル「屁理屈で回るのが組織ってもんだろ」
副長が指を鳴らす。兵が前に出る。
鞭を握り、しなりを試すように軽く振る。
兵B「言え! 人間の居場所を!」
グル「答えてやる。“知らねぇ”」
兵A「この期に及んで……!」
鞭が振るわれる。空気が裂ける音。
背中に火が走り、皮膚が裂ける。血が滴り、床に黒い点を作る。
副長「口を割れば、楽にしてやる」
グル「“楽”って、酒でもくれるのか?」
ヴァルド「酒は死者の口に注ぐものだ」
グル「なら遠慮しとく」
二撃目。三撃目。
副長は表情を変えず、ただ帳面に線を引き続ける。
ヴァルド「強情だな。社畜根性か?」
グル「ああ。そう呼んでいい」
角の影が壁に伸び、牙が冷たく光る。
部屋に満ちるのは、鞭の音と羽ペンの擦れる音。
俺は血に濡れた歯を剥き、笑って返した。
グル「くだらねえ夢を笑えねぇ奴が、一番くだらねえ」
兵が一瞬、手を止めた。
ヴァルドの眉がわずかに動いた。
ヴァルド「……牢に戻せ」
兵A「副長、よろしいのですか?」
ヴァルド「今日はここまでだ」
帳面が閉じられる。
兵に抱えられ、湿った廊下に戻される。
囚人「……グル、まだ生きてんのか」
グル「ああ。お前が俺の代わりに死ぬまではな」
囚人の苦笑が闇に沈む。
藁の上に倒れ込み、俺は呟いた。
グル「……ツバサ。飛べよ」




