第12話:火を灯す、その小さな一歩
朝、鳥のさえずりで目が覚めた。
牢屋の冷たい石床ではなく、木の葉を敷き詰めた柔らかな寝床。
体はまだ重いが、昨日までの死にかけ状態とは雲泥の差だった。
「……生きてる……」
そう呟いた声が妙に実感を伴って響く。
この命は、間違いなくあの女――カナムに救われた。
小屋の隅では、カナムが焚き火に鍋をかけていた。
炎の赤が彼女の横顔を照らし、琥珀色の瞳がわずかに揺れる。
寝起きの俺を一瞥し、口元を緩めた。
「おはよう、ツバサ」
「……おはようございます」
思わず敬語が出る。
その立ち姿と存在感は、会社で出会ったどんな上司よりも強い。
だけど、不思議と嫌悪感はなかった。
「よし、食え」
差し出されたのは、木の椀に盛られた穀物粥。
昨日より少し味がしっかりしている。
体に力がみなぎるのを感じながら、俺は無言で食べ進めた。
「……うまい」
「当然だ。飯がうまくなきゃ、生きるのはつまらん」
飄々とした言葉だが、彼女なりの信念が滲んでいた。
食後、俺は姿勢を正した。
「カナムさん。俺に……魔法を、教えてください」
それは自分でも驚くほど真剣な声だった。
カナムは目を細め、やがてふっと笑った。
「よし。じゃあ今日から修行開始だ。……ただし覚悟しろよ。
魔法は“便利な道具”じゃない。生き方そのものだ」
◆
最初に教えられたのは“呼吸”だった。
「魔力は体の内側を流れる。呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ませろ」
俺は膝を組み、深く息を吸い込む。
だが頭に浮かぶのは、社畜時代の会議室や、電車の混雑や、上司の怒鳴り声ばかり。
「……集中できねぇ……」
「だろうな。お前、根性でなんとかしてきたタイプだろ」
図星を突かれ、返す言葉がない。
「努力を否定はしねぇよ。ただな――休まなきゃ魔力は枯れる。
残業で心身削ったお前には分かるはずだろ?」
その一言が、胸に突き刺さった。
まるで俺の過去を見透かされているようで。
「落ち着いて、やればできるじゃないか。」
◆
次に挑戦したのは“火”。
カナムが小枝を拾い、俺の前に置いた。
「これに意識を向けろ。頭で“燃えろ”と強く思え」
言われた通りに、両手をかざして念じる。
燃えろ。燃えろ。燃えろ燃えろ燃えろ――!
……何も起きない。
「…………」
「……おい、顔真っ赤だぞ」
「うるせぇ……!」
必死で続けたが、結果は同じだった。
肩で息をし、汗が額から落ちる。
「……こんなに頑張ってんのに、何も……!」
思わず声を荒げた瞬間、頭にフラッシュバックが走った。
深夜2時のオフィス。
山積みの書類。
“頑張れば認められる”と信じ続けて、それでも報われなかった日々。
「……ちくしょう……」
拳を握ると、わずかに掌が熱を帯びた。
次の瞬間――枝の先端に小さな火花が、
パチリと弾けた。
「……!」
俺は目を見開いた。
たった一瞬、けれど確かに火が灯った。
カナムは腕を組み、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ふん。初日にしては悪くない」
「……今の、火だよな?」
「ああ。お前の魔力だ」
心臓が跳ねる。
初めて自分の手で掴んだ“異世界の力”。
まだ微かな火種に過ぎないが、俺には眩しかった。
「……これで、パンを焼けるかもしれない」
自然と笑みがこぼれる。
パン。それはただの食い物じゃない。
グルと交わした夢であり、俺の“生きたい理由”だ。
カナムはしばらく俺を見つめ、そして呟いた。
「パン、ね。……悪くない」
彼女の声には、どこか遠い響きがあった。
まるで自分もかつて、同じ夢を抱いたことがあるかのように。
◆
夜。小屋の灯りが静かに揺れている。
俺は疲労で横になりながら、掌を見つめていた。
あの一瞬の火花が、瞼に焼きついて離れない。
「……必ず、もっと強くなる。必ず……」
グルを迎えに行くために。
あの牢屋で交わした約束を果たすために。
そう胸に刻みながら、俺は静かに目を閉じた。
――森の中の修行は、まだ始まったばかりだ。