ゴーアウト
早春は卒業以来ずっと避け続けていた同窓会に出る決心をした。
高校を卒業してもう十年が経った。
その間、三、四年に一度くらいのペースで同窓会の案内が届いていたが、一度も参加しようと思った事は無かった。
何か気乗りしなかったのだ。
特に辛い高校生活を送った訳ではないから、頑なに参加しなかった今までの方が少し変だった。
学生時代は本当に普通の何でもない生徒の一人。特に勉強やスポーツが出来るわけでも、容姿が秀でている訳でもなく、可もなく不可もなく。
性格も平均的な日本人らしく程よく明るく、程よく控えめだったので、特筆すべき点が見つからない。
そんな彼女が同窓会に参加しなかったのも、今回参加する気になったのも、全ては青木幹大のせいだ。
「私は行けないから」
高校時代からの親友の希実にはそう言われてしまった。
希実はこれまでの同窓会には八割方参加していたが、今回は仕事の都合でどうしても参加できないらしい。
正直、凄い痛手だ。
同窓会に参加してない=同級生達との付き合いが一切無いに等しいからだ。一人で同窓会に参加するのは心許無い。
「それでも行くんでしょ?」
「うん、今回は絶対に行く」
青木幹大が今回の同窓会に参加するらしいという情報も希実から齎されたものだった。
ずっと関西に住んでいたが、最近こっちに転勤になったらしい。
聞いた瞬間に、何の迷いもなく同窓会への参加を決意した。
「慣れない事するんだから気をつけなよ」
呆れ気味の希実の声が電話越しでも良く分かった。
「どうしても見てみたいだけ」
十年前、片想いしていた彼を一目だけ。それだけだ。
希実とは高一の時に同じクラスになったのを機に仲良くなった。
彼女は私と違って目立つ子だった。
身長は私と同じくらいだったがスタイルは全然違った。小顔で細かったし、ちゃんとメリハリのある体型で肌は陶器のように白く透き通っていた。
何よりも顔が綺麗だった。上品に整った彼女の顔はとにかく目立った。
私はそんな子の隣に居られる自分を誇らしかったし、同時に少しコンプレックスにも思っていた。
希実はそんな私の気持ちなんて意に介さず、いつでも対等に接して来た。
二年になってクラスが別れても私達の仲は変わらなかった。
希実と別になったそのクラスで私は青木幹大と出会った。彼はバスケ部の副キャプテンで、部活でもクラスでもムードメーカー的存在だった。希実はお調子者と斬り捨てていたが、私には特別な存在だった。
彼は誰にでも分け隔てなくラフに接していた。男女も目立つ子も目立たない子も、勉強が出来る子もそうじゃない子も、何事にも区別なく誰にでも等しく。勿論、私にも。
たまに、何気なく、私に向けられる笑顔と言葉に私の心は虜になった。
彼にしてみたら、何の意味もない皆と同等に接しているだけに過ぎないそれが、私には特別だった。分かっている。私は理解している。私にとってのその特別は、彼にとっては特別じゃない。
「早春は青木君が好きなの?」
全然違う話をしていて彼の名前すら出していないのに、話の流れを完全に無視して希実が急に聞いてきた。
「え?何言ってるの?違うよ!」
余りにも唐突過ぎて上手く誤魔化せなかったが、慌てて否定した。
「好きだよね?」
希実は全然私の言葉なんて無視して聞き返す。
「どっちでもいいけど。あいつ女子校の子と付き合ってるって噂聞いたよ」
「そうなの?どんな子?」
思わず食い気味に聞き返してしまって、慌てて取り繕った。
「別にどうでもいいけどね。ふうん、そうなんだ」
別に彼女が居ても居なくても、関係ない。彼にとって私は特別じゃないんだから。私が勝手に好きなだけ。
今となっては希実に嘘をつく必要はなかったと思うのだが、あの時の私は報われることの無い幹大への気持ちを誰にも知られたく無かったのだ。誰にも知られなければ、無かったことに出来るから。
会場は立食形式で、同学年の全クラス合同だった。早春が着いたときにはもう同窓会は始まっていたので人でゴッタ返している。
見知った顔を探しながら店の奥へと進んだ。
「あれ?もしかして」
声に振り返ると見覚えのある顔があったが、名前が出て来ない。十年間呼んでなかったのだから仕方ない。
「あー、何だっけ?ごめん、名前が出て来ないわ」
相手も困った顔で必死で思い出そうとしている様子だった。
「でも同じクラスだったよね?分かる?」
「うん、分かるけど。ごめん、私も名前が思い出せない」
こんな特徴のない私の事を、十年ぶりなのに気付いてくれただけでも凄い事だ。感謝したいくらいだ。
「遠藤だよ。遠藤早春」
「あー!そうだ!遠藤さん!」
そう言って嬉しそうに笑った。
「私村野だったけど、今は田中まきこ。政治家みたいな名前になっちゃった」
左手の指輪を見せながら、たぶん初めて会う人には必ず言ってるのだろう。言い慣れてる感じで名乗った。
私も可笑しくも無いのに彼女に合わせて笑った。
「遠藤さんて、希実ちゃんといつも一緒に居たよね?今日は一緒じゃないの?」
「今日は仕事で来られないの」
彼女は現在と過去の事を交互に織り交ぜながら、止まることなく話し続けた。私はとりあえず一人で過ごさずに済みそうでホっとした。
そこへ次から次へと友人達が現れ合流し、コロコロと変わる話題に合わせて相槌を打ち続けた。
何となく会場全体を見回したが、幹大はまだ来ていないようだった。
チラチラと入り口付近を気にしながら過ごしていたら、見覚えのある顔が目に入ってきた。
幹大だった。
少し線が太くなったかもしれないが高校時代とそう変わりなく、寧ろ男っぷりが上がったように見える。
まだ遠目に見つけただけなのに、早春の鼓動は一気に早くなった。
幹大はすぐに知り合いを見つけたらしく。笑顔で誰かと話し始めた。
それからはもう他人の話はほとんど頭に入って来なかった。聞いてるふりをしてはいたが、視線の端でずっと幹大の行動をチェックしていた。
流石だ。誰にでも優しかった幹大の元へは、次から次へと人が入れ替わり立ち替わりやって来る。彼も卒業以来初めての参加らしいから余計なんだろう。人が途切れない。
少しずつ距離は近付いて来ていたが、それでもまだ遠くにいた。
一目見に来ただけだったが、実際に近くに居ると話し掛けたい衝動に駆られた。
でも話し掛けるタイミングも掴めないし、何よりも私の事を憶えているか分からない。
こんな何の特徴もない私のことなんて、卒業して十年も経つのに憶えている筈がない。
そんな私が話し掛ける勇気なんてない。
さっきの田中まきこのように「誰だっけ?」なんて不思議そうな視線を向けられたら、そう想像しただけで尻込みするに十分だ。
その時だった。
トイレから戻る途中の田中まきこが幹大を見つけて話し掛けのだ。
少し様子を見守ったが、まきこはそのまま幹大と話し続けている。
今しかない!
そう覚悟を決めて幹大の方へ歩き出した。
ほんの数メートルと言う所まで来た時
「皆さん、盛り上がっている所申し訳ありませんが、残り三十分ほどでこちらの会場はお開きになります!」
幹事の人なのかマイクで話し始めた。
一瞬皆の動きが止まり、早春も立ち止まりマイクを持つ人の方を振り返った。
アナウンスが終わって再び歩き出そうと振り返った瞬間、人と腕がぶつかってバッグを落としてしまった。
こんな時に限ってバッグの蓋が開いてしまい、中身が飛び散った。本当についていない。
慌てて拾っていると、口紅を拾ってくれた人がいた。
「ありがとうございます」
「これ、落としたよ」
見上げたら幹大がいた。
その日は日直で先生から配るように言われたプリントを教卓の辺りで少し落としてバラ撒いてしまった。慌てて拾い集めていると声がして振り向いた。
見ると手にリップクリームを持った幹大だった。
プリントを拾うのに必死でポケットからリップを落としたのに気づかなかったらしい。
「ありがとう」
受け取ろうと手を出した。
「リップ変えたんだね」
そう言って幹大は返してくれた。
「えっ?」
驚いてる間に幹大は友達の方に行ってしまった。
確かにそれは買ったばかりの新しいリップだった。今回はそれまで使っていたのとは違う種類に変えたのだ。
でも幹大はそれを何故知っているのだろう?
早春は鼓動が大きくなっている事に気付いた。
この日から幹大のことが以前にも増して気になって仕方ない。気付けば目で追ってしまう。
そして見れば見るほど幹大はみんなに平等に優しくて、どんどん惹かれてしまうのだ。
いつも幹大はたくさんの人に囲まれて、エネルギッシュで陽の空気を纏って輝いて見えた。
彼を知れば知るほど、好きになればなるほど、なんの取り柄もない自分にはそぐわないと思えた。
彼が私に惹かれる要素なんて、何一つ持ち合わせていない。
そう思うのに、リップの一件が私に甘い期待を抱かせる。
「本当は青木君のこと好きなんだ」
自分の中の幹大への想いを持て余した挙句、意を決して希実に告白した。
「うん、それで?」
希実は、それがどうしたと言わんばかりの平たい対応だった。
「それだけ?」
不満そうに言うと
「だって知ってたもん」
「何で分かった?」
「誰でも分かるくらい、分かりやすかったから」
ニヤニヤ笑う希実は本当に楽しそうだ。
「何で急に話す気になった?」
私は幹大を好きになった経緯を話した。
一通り話を聞き終わると希実はサラッと言った。
「告白すればいいじゃん」
「え?希実が女子校の彼女が居るって言ったんでしょ?」
「うん、私はそう聞いたけど」
「そんなの、告白するわけないじゃん!」
希実は一体何を言っているんだ!
「なんで?」
「何でって、振られるの嫌だもん」
希実は不思議そうに私を見つめた。
「もしかして、告白しなければ振られないと思ってる?」
今度は私が希実を不思議そうに見つめる番だった。
「告白してもしなくても、結果はもう出てるんだよ。結果を自分が知らないだけ」
確かに幹大の気持ちは、私が告白しようがしまいが結果が変わることはない。
「そうかもしれないけど、振られて傷付くのが嫌なの」
希実はふぅと息を吐いた。
「告白しなければ両思いになる事は無いんだから、振られたのと一緒じゃない?」
「希実は振る方の立場だから分かんないんだよ!」
希実はその容姿から毎月誰かに告白されていた。そして必ず断るのだった。
「本気でそう思ってる?」
希実の瞳の奥が陰る。
「私だっていつも振られてるよ」
希実は中学生の頃から初恋の幼馴染に告白しては振られてを何度も繰り返しているのだった。
つい最近も振られたばかりだった。
「恐くないの?」
「告白するのが?それとも振られるのが?」
「どっちも」
「恐いよ。振られたらめっちゃ辛いしね。でも絶対に逃したくないんだ、チャンスがあるなら。そっちの方がずっと恐いんだ」
私にはそんなメンタルの強さは無い。
「でも私は無理だな」
「もし本当は両思いだったら?告白しなかったらチャンスを逃した事になるけど、後悔しない?」
「だってそんな事…」
「あるかもって思ったから私に打ち明けたんじゃない?」
希実の指摘は鋭い。
その通りだ。リップクリームの事がどうしても引っ掛かる。
私は告白して振られて傷付くリスクと、告白して両思いになれるかなり低い可能性を天秤にかけた。
悩むまでも無く、私の答えは決まっていた。
傷付くのは絶対に嫌だった。
そもそも告白するだけの勇気もない。
結局そのまま私は何もせずに卒業式を迎え、高校生活を終えた。
口紅を持っていたのは幹大だった。
「あっ」
驚きで思わず声が漏れ出てしまった。
一瞬で周りの空気の湿度が上がってみっちりと纏わりつく感じがした。何故だろう。幹大を思い出す時、必ずこのしっとりとした空気感だった。
伸ばした手が震えそうだった。でももう高校生の私じゃない。平静を装って受け取った時だった。
「遠藤さん、大丈夫?」
田中まきこだった。
「青木くん、同じクラスだった遠藤早春さん、分かる?」
「もちろん!変わらないから直ぐわかったよ。久しぶり!俺のこと憶えてる?」
まさか!幹大が私を憶えていたなんて。それだけで自分の主たる成分を鷲掴みにされた気がする。
「憶えてるよ、青木くんも変わらないね」
十年も経ったのに、彼の前では高校生の何も出来ずにただ想いを寄せてるだけの自分に逆戻りだ。声も膝も緊張で震えそうだ。
それから三人で話したが、直ぐに一次会が終わって会場を追い出された。
「二次会に行く人はついて来て!」
二次会はクラス毎に別れるようだ。
幹大は二次会に行くようだったので私も行くことにした。
人の後ろについて少し距離を取りながら歩いて行った。
「二人で他で飲み直さない?」
幹大が他の人に気付かれないように小声で聞いてきた。
びっくりして見返すと、いたずらっぽい笑顔で見てくる。
幹大を見つめたまま黙って頷いた。
「先に帰る振りして、〇〇のコンビニで待ってて。俺もみんなを上手く巻いてから行くから」
大学一年の夏だった。
何度めかの合コンで出会った他大学の一つ年上の友輔から、こっそりそう言われた。
そんな風に男の人に誘われたのは初めてだった。
私なんかに声を掛ける人が居るんだと少し嬉しかった。
コンビニで待っていると、小走りで息が少し上がった友輔が入ってきた。
「ごめん、これでも急いで来たんだ!」
額に汗が滲んでいて言葉に嘘が無さそうだった。
友輔はお酒やつまみなどをカゴに入れながら、自分の独り暮らしの部屋で飲み直そうと言った。
そんな誘いに乗るなんて私らしくないが、その日はすんなり付いて行った。友輔は地味で浮ついた感じが無くて、私にとても釣り合っていると思えた。
幹大は関西の大学へ進学したために、偶然会うことも噂を聞くことさえも無くなっていた。
そもそも何もせずに卒業した時点で彼のことは完全に諦めたのだから、私は次の恋に進もうと思っていた。
その夜友輔と私は二人に相応しく、何の特別な要素もなく、よくある流れで関係を持った。
「先越されちゃったかー!」
希実はそう言いながらも嬉しそうだった。
友輔の部屋から帰りながら希実に報告したら、速攻会いに来たのだ。
「私の方が先に彼氏できるはずだったのにな」希実の片想いは高校卒業とほぼ同時に終止符が打たれた。
「智瑛に彼女ができた」
号泣しながら希実が電話を掛けてきたのは大学の入学式まで後数日という時だった。希実とは違う大学に進学したが、春休みもちょこちょこ会ったりしていた。
あまりにも激しい泣き方に電話ではよく聞き取れないくらいだったので、すぐ会いに行った。彼女の大きな瞳からは滞ることなく涙が流れ落ちて行った。
不謹慎だが、美人は泣いても綺麗なんだと感心しながら聞いた。
「誰から聞いたの?間違いってことはない?」
希実は大きく頭を横に振って
「ほっンにん…から…ンきった…」
しゃくり上げながらそう言った。
「本人から聞いたの?」
希実の話を要約すると本人から話があると呼び出され、希実はとうとう告白されるのではと期待しながら会いに行ったそうだ。
ところが彼からは「彼女が出来たからもう諦めてくれ」と告げられたらしい。
それまで何度となく振られてきた希実だったが、彼が恋愛に興味が無くて断られてきたのが唯一の救いになっていたのだ。
私には安っぽい慰めの言葉しか思い浮かばなかったから、何も言えなかった。中学の時からの数年間の想いを一瞬にして無にされたと思ったら、慰めることなんて出来る気がしなかった。それから3日間毎日会いに行って、ただ側で見ていた。
「もういいや。智瑛のこと好きじゃなかった」
急にそう言って手当たり次第にお菓子を食べ始めた。
「泣き過ぎてハラペコだよ」
「なになに?」
唐突過ぎてついて行けない。
「智瑛にさ、俺のこと好きじゃないだろって言われたんだ」
「なにそれ?」
「振られ過ぎて、途中からは智瑛を手に入れることが目的になっちゃって、好きっていうのとは違って来ちゃってたって感じかな?手に入らないって言われたら余計欲しくなるみたいな?智瑛にそう言われて、最初は納得出来なかったけど。少し落ち着いて考えたら、そうだなって納得」
「そうなの?」
「なんか時間無駄にしたなー」
「もう大丈夫なの?」
「そんな簡単には行かないけどさ、でも大丈夫になるよ少しずつね。彼氏もつくるぞ!」
そう言って笑う希実は透けて見えるくらい透明で頼りなくて実体がないみたいだった。
それから友輔とは一年ほど付き合った。
胸がサワサワするようなときめきも無かったが、喧嘩もなく平穏な関係だった。
その日は美容室で背中まで伸びた髪を肩までバッサリと切った。
早春にとっては珍しい事だった。
そもそも髪型を変えたりしない。いつもの美容室でいつものようにカットするのが常だった。
「こんなに短くするの何年ぶり?」
担当の美容師さんも心なしかテンションが上がっているように見える。
「私も覚えてない。中学生とかかな?」
「この後、何処か行くの?」
「うん、彼氏に会う予定なの」
「えー!彼氏ビックリするよ、きっと。じゃあ可愛いって言ってもらえるように完璧にセットするね!」
髪型を変えたかった訳ではない。ただ、友輔が反応してくれそうな事が他に思い浮かばなかったのだ。
友輔は褒めてくれるだろうか。
友輔は容姿や持ち物などを褒めてくれた事が一度も無かった。
こちらから「これどう?」と聞いても
真顔で「いいんじゃない?」とか、「良いと思うよ」と言うくらいだった。
美容室を出て、友輔との待ち合わせ場所に向かう間、期待で足取りも軽かった。
友輔が三年になってからインターンやゼミで忙しく、合う回数が減っていた。付き合いも一年を過ぎてマンネリも相まって不満が溜まっていた。今日もニ週間ぶりのデートだ。
ドラマや映画のような美男美女が繰り広げるキラキラしたラブストーリーを期待しているわけじゃない。そのくらいの分は弁えている。
もうすぐ二十歳になる大学生が、ほんの一瞬浮かれるくらいの言葉を期待したっていいじゃないか。
その為に切りたくもない髪まで切ったのだから。
「え?それで別れちゃったの?」
希実は大きな声で振り向いた。こんなに動揺してるのは珍しい。
希実とは何かと都合を合わせて定期的に会っていた。
「それから一回も会ってないの?連絡も?」
「うん、別れたんだもん」
「今まで喧嘩もしたことも無いのに、それっきり?」
「希実だって会うなり気付いて褒めてくれたでしょ。それが普通の反応なんだよ!」
待ち合わせ場所に着くなり友輔は
「何やってんだよ!遅いよ!」
そう言って背を向けると歩き出した。
「行くぞ!」
「え!待ってよ!」
慌てて友輔の腕を引っ張った。
「どこ行くの?ちょっと止まって!」
「遅れて来るからだろ?とにかく行こう!」
「遅れて悪かったけど、言う事あるでしょ?」
「ごめん、とにかく歩いて。話なら着いてから聞くから」
友輔が再び歩き出した。
「無理」
「え?」
振り向いた友輔に
「もう無理!さよなら!」
ぶつける様に言葉を投げつけて踵を返して帰ってきた。
友輔は追って来なかった。
その後も連絡もして来なかった。
このまま終わりにしていいのか、迷わなかったわけじゃない。
自分から連絡して拒絶されたらと思うと何も出来なかった。
元々、燃え上がるような恋でも無かったから、自分からすがってまで関係を続けたいという熱意も湧いてこなかった。
「別れるにしても話し合った方がいいんじゃない?」
「そんな気が無いから連絡して来ないんだよ」
「えー!せっかく私にも彼氏できたのに!一緒に遊び行こうって約束したじゃん」
希実には彼氏ができたばっかりで、いつもどちらかにしか彼氏が居ない状態だ。
「そんな理由で復縁しないし!」
あの日は私もいつもと違ったけれど、友輔も見たことのない友輔だった。
それも復縁しようと思えない要因だった。あの日の友輔と彼から連絡して来ないことを鑑みると、続けていけるとは思えなかった。
「誰かに見られてたかな?」
走り出したタクシーの窓から乗り込んだ辺りを気にして振り返った。
「気にすることないよ」
幹大は全然気に留めてないようだ。
私が幹大の誘いに頷くと。直ぐに幹大はタクシーを拾って二人で乗り込んだ。
閉鎖された空間に二人で居ると思うと、鼓動が相手に聞こえてしまいそうなくらい緊張してきた。
そんな早春とは対象的に幹大は変わらず平然としている。
着いた先は有名なホテルだった。
「俺大学からずっと関西だったから、こっちのお店とか全然分からなくて。ここのバーは出張の時に来たことあるんだ」
正直気乗りはしなかったが、チェーン店の居酒屋に連れて来られるよりはマシかと思い直した。
本当なら行きつけのこじんまりしたバーとかが良かったが、越してきたばかりの彼に行きつけなんてあるわけが無かった。
エレベーターに乗り込み、最上階で扉が開いた瞬間にデジャヴのような感覚になった。
不思議に思いながらも、緊張が続いていたせいで追求することはしなかった。
バーのカウンターに二人で横並び坐って注文をした。
緊張から逃れるためにも早くアルコールを入れたかった。
「乾杯!」
場にそぐわない声の大きさだった。
「ちょっと!もう少し小さい声で!」
その日は同僚の亮人の結婚を祝う飲み会だった。
二次会の後、亮人に誘われて二人でこっそりと飲みに来たのがホテルのバーだった。人目を避けたら逆に怪しい場所になってしまった。
亮人とは同期入社で社員研修から配属先までずっと一緒だった。
入社半年くらいから付き合い出して、3年ほど続いた。
会社の人間には気付かれないようにしていた。お陰で別れた時も、亮人の結婚が決まった時も会社で気不味くならずに済んだ。
「俺、早春に言っておきたい事があったんだ」
亮人は少し酔っ払っている。
「その呼び方、もうやめてくれる?何かの拍子にボロが出たら嫌だから」
「ああ!ごめん」
亮人はハッとしたような顔をして、少し酔いも覚めたようだ。
「今更言いたい事って何?付き合ってた時の文句とかなら勘弁してよ」
「違う違う!いや?違わないかな」
やっぱり酔っているのか、声に出して自問自答している。
「けっこう酔ってるでしょ?大丈夫?」
「みんなに飲まされたからな。少し酔ってるかもな。お陰で早春に、いや遠藤さんに言おうって決心できた」
「決心しなきゃ言えないような事?」
何だか嫌な雲行きだ。
「俺は、は‥遠藤さんに幸せになって欲しいんだ」
亮人の顔は真顔だ。
「あなたに心配してもらわなくても私不幸じゃないよ」
「そうじゃなくて!俺達、結婚する時までは会社の人達に付き合ってるて気付かれないようにしようって決めてたじゃん」
それは付き合い始める時に二人で決めたルールだ。
まだ二人とも仕事に慣れてなくて、半人前にもなれてないのに私生活で浮かれてると思われたく無かったし、何かと仕事にマイナスに働きそうだったからお互いに納得してそうしていた。
だが付き合い出して三年目、仕事にも慣れて結婚も意識するようになった頃、二人の気持ちは褪めてしまった。
長い間、二人の関係をひた隠しにする事に精魂を使い果たしてしまって、愛情が綻んでいる事に気付けなかった。
仕事でも私生活でも二人は上手くやっていたから、破綻してるなんて気付かなかった。
そう、とっても上手くやっていたのだ。お互いの役割りを上手にこなしていた。
「俺達、必死で隠してるうちに気持ちが離れちゃって」
「お互いが決めたルールだったし、色々と気付くのが遅かったしね。誰のせいでもないよ」
「俺もそう思ってた。今の彼女と付き合うまではね」
話の流れが読めずに怪訝な顔をしていたかもしれない。亮人は私を宥めるように
「俺は早春に幸せになって欲しい。だから言うんだ」
「遠藤さんでお願いします」
「あ!ごめん。それで、そう!今の彼女と付き合ってさ、これだ!って思ったんだよね」
「何が?」
「人を好きになる時の感じ?恋愛してる時の感じってこうだったよなって思い出したんだ!」
「それは、良かったね」
「惚気てるんじゃないよ!俺達が付き合った時は無かったなって気付いたんだよ。最初からね」
「最初から?」
「俺にはあったよ!でも早春からは感じたこと無かったな」
カウンターに頬杖をついて、昔を思い出すような遠い目をしている。
「仕事に慣れなかったり、会社の人達にバレないように気を遣ったり。毎日精一杯で、早春の気持ちに気付いてなかったんだなって。今の彼女と付き合ってから気付いたんだ」
亮人はこっちを見た。
「俺のこと好きじゃなかったでしょ?」
「そんな事ないよ」
「好きで好きでしょうがないって感じじゃなかったでしょ?」
「それは‥」
「責めてる訳じゃないよ。でも、早春は俺以外と付き合ってもそうなんじゃないかと思って」
何か都合の悪い所を突かれた気がした。
友輔の時もそうだったが、私はどちらも夢中になって好きになった訳じゃない。
その時たまたま、そこに付き合うには丁度良い男が居ただけだ。
「俺は結婚して幸せになる。でも、早春はこのままじゃ幸せになれないと思ったら、何か不公平だなと思って」
不公平か。亮人らしい。
「私はそういう考え方する所が好きだったよ」
亮人は公平とか平等とか、そういうのを気遣う人だった。
交際中も私に手料理をねだったり、女性なんだからというような強要をされた事がない。
そういう所は、幹大に似ている気がした。
そこまで考えてハッとした。何か正解に辿り着いてしまった気がした。
私は亮人の中の幹大に似た要素に惹かれて交際したものの結局、亮人本人を好きにはなれなかったような気がする。
友輔に関しては私に釣り合うくらいだから、幹大には似ても似つかなかった。寧ろ正反対と言ってもいい。
友輔とは上手くいっていたのに、私はずっと不満だった。それは幹大のような些細な変化に気付いてくれなかったり、誉めてくれない事が原因で、それは友輔の問題ではなく私の問題だったのだ。
別れたあの日も、幹大とは違う行動だったというだけで激怒してしまった。
この10年、自分でも気付いて無かったが、ずっと幹大の影を求めて男性と交際してきた気がする。
誰と付き合っても幹大を求めていたのだ。
亮人の言うように、本当にこのままでは私は幸せにはならないだろう。
「その色すごく似合うね」
幹大が私のワンピースを見て微笑んでいる。
今日のために念入りに選んだ一着だ。やっぱり幹大は私の欲しい言葉を当たり前のように差し出してくれる。
「ありがとう」
お酒のお陰で緊張もかなり和らいだ。
それでも二人きりでお酒を飲んでいるなんて想定外だ。
「青木君は昔から人の細かいところまで見てたよね?」
「そうかな?」
「ほら、昔リップクリーム拾ってくれた時も」
「リップクリーム?」
幹大は憶えていないようだ。やっぱり私の独りよがりだったのだろうか?好きな子のリップクリームを拾ったら忘れないだろう。ここで確信をつく質問をするべきだろうか?
不自然な沈黙になってしまった。
「俺さ、遠藤さんのこと好きだったんだよ」
「えっ!」
真っ直ぐな視線に一瞬息をのんだ。
「だから今日会えて嬉しかったし、ここに誘ったんだ」
「でも、あの頃女子校の彼女がいたんじゃ?」
一瞬怯んだようにみえたが
「一年の頃に少し付き合ってた子が居たよ。そのことかな?もしかして俺疑われてる?」
ちょっと不安そうな瞳を見て胸が締めつけられる。
「そうじゃなくて。私もずっと好きだったから、びっくりして信じられなくて」
自分でも驚くほどスムーズに言葉が出てくる。男性に好きだと口にするのは初めてな気がする。それなのに、当たり前のようにスルスルと言葉が零れ落ちてくる。
「え?遠藤さんも俺のこと好きだったの?本当に?俺の方が信じられないよ!」
幹大が嬉しそうで、それを見ている私は嬉し過ぎて現実味が薄れていく。
今、舞い上がるとこういうことを体現している。
早春は夢見心地で幸せな余韻に浸っていた。
幹大とすっかり盛り上がって、そのままホテルの一室で過ごした。
幹大は早朝から会議があるからと帰ってしまったが、早春は後味を確かめるようにゆっくりしている。
ふとスマホを見ると田中まきこからメッセージが来ていた。もう夜も遅いし明日返事すればいいやと思った。
「あ、連絡先!」
舞い上がり過ぎて幹大の連絡先を聞き忘れていたのだ。
「どうしよう!」
田中まきこが知ってるかもしれない!ダメでも希実に頼めば誰かしら知ってる人に辿りつけるだろう。
翌朝、早速田中まきこに電話した。
「昨日、連絡来てるのに気付かなくてごめんね」
「二次会行ったら居ないからさ、青木くんも居ないし、もしかしたら二人で何処か行っちゃったんじゃないかと思って心配になっちゃって」
「え?」
「まさか!青木くんとなんてないよね?大丈夫よね?」
「何?青木くんが何なの?」
「昨日さ、青木くんに昔好きだったって言われて」
「え?」
「私、高ニの時に告白して振られてんのに、それすら忘れちゃってたんだろうね!何言ってんのって言ったら、焦って冗談だって言って誤魔化してたけど」
「そ、そうなんだ」
「二次会で聞いたんだけど、青木くん高校の時から付き合ってた女子校の子と結婚して、奥さんが妊娠したから奥さんの実家に同居するのにこっちに引っ越しして来たらしいの」
「結婚して?妊娠!」
「そうなの!それでピンときたの私!奥さんが妊娠中って浮気する人多いでしょ?青木くん、昨日浮気相手を探しに来てたんだよ、絶対」
「そんなこと…ある?」
「あるある!私は振られてたから騙されなかったけど。あいつ昔から調子いいっていうか、お姉ちゃんに囲まれてたせいか、女の扱い上手かったよね!女が喜ぶツボを知ってるっていうの?」
田中まきこはその後も色んな同級生の近況を話し続けていたが、私の耳にはもう何も届いてなかった。
希実からの電話で我に返った。
「同窓会どうだった?」
一気に現実が押し寄せてきた。
なんて馬鹿なことしたんだろう。安っぽい嘘にも気付けないほど舞い上がって、挙句このザマだ。
「あいつに会えたの?」
「うん、少し挨拶したくらい」
恥ずかし過ぎて何も言えない。
「それだけ?」
「結婚したんだって」
「あ、そういう事か!そりゃ駄目だわ」
本当に駄目だ。
あの時、傷ついてもいいから告白しておけば、田中まきこみたいに嘘に気付けたのに。
十代の失恋と三十歳手前で騙されるのと、どっちが辛いかなんて比べようもないが、たぶん十代の失恋なら後悔しなかった。
十年もこじらせてこんな決着のつき方は悔しくて惨めで、何もかもが後悔だらけだ。
私はいったい何をしてたんだろう。
青木幹大の一件から一年が過ぎた。
あの出来事は私の大きな転機になった。
本当に落ち込んだし後悔と反省しかなかった。
もう目先の何かに囚われることなく、次に好きな人ができたら迷わず告白して振られようと決意した。
そもそも人を見る目が無さ過ぎるのが問題なのだが、あれから人に好意を持つこともなかったので痛い目には遭っていない。
変化と言えば、仕事で飛び回っていた希実の結婚がようやく決まったことくらいだ。
その日は木枯らしが吹く寒い日だった。
定時で退社して会社のビルを出て直ぐに
「早春!」
と呼び止められた。風の音で一瞬聞き逃しそうになったのだが、その声に聞き覚えがある気がして振り返った。
そこに居たのは少し大人になった友輔だった。スーツ姿のせいか貫禄が出た感じだが、一瞬で誰と分かるくらい変わってなかった。
「びっくりした!変わってないね」
「ごめん、待ってたんだ、出てくるの」
「え?」
「とうしても話したいことがあって」
友輔に連れられて行ったお店はまあまあ高級なイタリアンだった。
「予約してたの?私に会えなかったらどうするつもりだったの?」
「その辺はお店に説明して予約したから大丈夫」
どんな説明をしたんだろうか?
料理をオーダーしてから友輔が話し始めた。
「昔のツテを使って早春の会社を教えてもらったんだ。どうしても話したかったから。電話したら拒絶されるかもと思って出来なくて。勝手に調べたりしてごめん」
こうやってじっくり向き合って見ると、やっぱり目尻なんかは年月の経過を感じる。まあ、お互い様だろうが。
「今更、無視したりしないけど話ってなに?」
友輔と別れてもう十年だ。
「実はあの日のこと、ちゃんと話したくて。結局ずっとあの日のことを引きずって、誰とも付き合えなかったんだ、あれから」
「あれから?一度も?」
それは何よりもびっくりだ。
「うん。あの日、俺はこの店を予約してたんだ」
「ここ?こんな高級なお店を?」
ずっと驚かされっぱなしだ。少なくとも大学生が普通に来るようなお店ではない。
「だから早春が遅れて来たことに焦っちゃって。今考えたらお店に少し遅れるって連絡すればいいだけなんだけど。何しろあの頃はこんなお店に来た事もない大学生だったから、もう早く時間通りに着かなくちゃって必死で」
「ああ、だからあんなに急いでたんだ!まあ、その気持ちは分かるけど、結構恐い言い方だったよね」
十年振りの納得。
「ごめん、本当に悪かった」
「でも何で内緒でこんな高級なお店?お金はどうしたの?」
「インターンの給料が出て、その前からバイトで少しずつ貯めてたのも合わせて」
「何かの記念日だったっけ?」
「ううん。あの頃、俺がインターンとかゼミとかで忙しくてあんまり会えてなかったよね?だから、これ!」
友輔が小さな包みを差し出した。綺麗にラッピングはされているのだが、リボンの端やら箱の色やら何となく古ぼけている。
手に取って開けてみると指輪だった。華奢なデサインで今の私には似合いそうにない。
「あの時インターンの会社から内々の内定もらって、卒業まで一年以上あったし、直ぐには無理だけど将来的に結婚したいって考えてたから、今は会えない事も多いけど我慢して待ってて欲しいって言いたくて。プレプロポーズみたいな、何ていうか」
もう次々と驚かされて、支離滅裂な夢をみているよう気分になった。
「その計画が何一つ実行出来なくて、早春が怒ったのも初めてだったから、どうしていいか分からなくなっちゃって。忙しいし時間はどんどん過ぎちゃって余計に連絡しづらくなっちゃって」
「あの時追いかけて来なかったのって、もしかしてこのお店に来たから?」
「うん、キャンセルしに来たら変な雰囲気になった」
想像したら笑ってしまった。
「普通キャンセルは電話だろうね」
あの時、私がもう少し我慢してここまでついて来てたら最高の日になっていただろうに。「短気は損気」ってこの事だ。
「もう戻れないって思ってさ、諦めたんだ。なのにもう十年経つし三十歳なのに、全然誰も好きになれないし。どうしてもこの事をちゃんと乗り越えないと次に行けないって思って。それでこんな事したんだ。驚かせてごめん」
十年か、なんか聞き覚えのある響きだ。そして痛すぎる思い出したくない思い出。
でも人はやっぱり十年でケジメをつけたくなるものなのかもしれない。
「私も謝るね。あの日、友輔に会う前に背中まであった髪をバッサリ切ったの。友輔に褒めて欲しくて。なのに会うなり遅い、早くって言われて、すごく頭にきちゃって」
「え?あの時髪短かった?」
「本当に気づいてなかったの?あんなに切ったのに?」
「ごめん、たぶんそれどころじゃなかったから」
「そういうところ!」
本当に気が利かない人だ。
「そこが友輔らしいけどね」
10年振りなのに友輔とはブランクを感じない。寧ろ馴染むというか落ち着くというか、そうそうこの感じと思ってしまう。
「遠慮しなくていいから、思いっきり振ってよ。振られに来たんだから」
「振らなくちゃいけないの?」
「それって…どういう意味?」
「そういうところ!」
あの日からの十年を無かった事には出来ないが、気持ちだけは巻き戻してこの店からやり直せる気がする。
だから不釣り合いな指輪の手にグラスを持って
「乾杯!」