ついに魔族領、さらに告白
聖女の結界による障害は、一切なかった。
「ここまであっさり国境を越えられるとは……」
「魔力が安定してるからでしょうけど、本当にチナミさんの料理は不思議っすね」
チナミにはよく分からないが、全員魔力の安定を実感しているらしい。
魔力が安定すると、出力の際も操作が困難ではなくなる。そのおかげで普段以上の力を発揮することができ、結界越えも往路より容易かったという。
……ここにきて、謎の能力が発覚。
これがエナのいう『異世界転移特典』の『チート能力』というものだろうか。
それとも、チナミも聖女だった?
聖女の条件を思い出せば、もう笑うしかない。誰も触れないありがたさよ。
あっさりゾディアス断崖を越えると、魔族達は次々に着陸していく。
断崖はあくまで断崖であって、壁ではない。
階段の段差のように、魔属領の土地の方がぐっと標高が高くなっている。
降り立った場所からはアヴァダール王国の国境に広がる森も、その向こうにあったグルーシャ村まで見下ろすことができた。
そして、人族の国より高い位置にあるのに、魔族領はさらに頭上に広がっている。
目の前には森があり、緩やかな斜面の向こうには見たこともないほど大きな木が立っていた。最初は山かと思ったけれど、間違いなく木だ。
信じられないことに、この木の上に街が形成されていた。様々な色の小さい屋根が、遠くからでも確認できる。
そしてその中央には、木と一体化になっているような――あれは、城だろうか。
アヴァダール王国とはまた違う、幻想的な光景。
直前まで王太子達に追い詰められていたことも含め、全てが夢のように思えてくる。
同時に、本当に元の世界には帰れないのだと不意に実感した。
父や愛犬『おだし』には、もう会えない。
チナミはこの世界で生きていくのだ。
ふと、大きな手に手をとられた。
振り返ると、チナミの前にルドウィンが跪いている。彼の表情は真摯なものだった。
どうやら現実逃避できるのはここまでのようだ。
「先ほど君が説明を受けた通り、魔族というのは独占欲が強い」
「……はい」
「食事を与え合うことは、とりわけ求愛行動と判断される。男でも女でも、平民でも王族でも、生涯を共にすると決めた相手に料理を振る舞う。それが俺達の愛情表現なんだ」
「そうだったんですね……」
道中の出来事が走馬灯のように甦る。
知らなかったとはいえ料理を振る舞ったり、反対にルドウィンの料理を食べたり。
不用意というなかれ。
常識が違いすぎるせいで、こんな巧妙な罠に普通は気付けない。
――というか……嫌とかじゃないんだけど……。
チナミはちらりと周囲に視線を走らせる。
予想通り、メルやハルツ達をはじめ、全員がこちらを見物している。
こうなるのが恥ずかしかったのだ。
今までルドウィンがあえて言わずにいたことを、図らずも第三者から聞いてしまった。
彼の潔い性格上、この流れで、あとからゆっくり事情を説明とはならないだろう。
けれどそうすると、自動的に衆人環視での舞台となってしまうわけで。
羞恥と混乱で、とてもではないが集中できない。
「あ、あの! 魔族の特性についてはよく分かりましたので! ほら、そろそろ移動をはじめないと、いつまでもこうしていては日が暮れて……」
「――チナミ」
まるで、大切な宝物のような響き。
ルドウィンがあまりに優しく呼ぶから、チナミの動揺は自然と落ち着いていた。
深い青色の瞳が、チナミを一心に見つめる。
直向きな強さと熱さに射貫かれ、こちらも彼しか見えなくなっていく。
ただ、チナミとルドウィンだけの世界。
彼が発する言葉はやけに鮮明だった。
「――チナミ、君を愛している」
たくさんの思いが込められているからか、簡潔な言葉なのに重く響く。
ルドウィンの眼差しも痛いくらいに愛情を告げていて、チナミの鼓動が早まる。予想はできていたのに、凄まじい攻撃力だ。
「ずっと好きだった。はじめのきっかけは確かに料理がおいしかったからだが、君の店に通っている内に、どんどん惹かれていった。優しい笑顔も、穏やかな相槌も、よく通る声も、常連客を見つめる幸せそうな眼差しも……いつしか、全部俺だけに向けられたものであればと、思うようになっていた」
ルドウィンは一度瞑目すると、ふと穏やかな笑みを浮かべた。
「それに旅の間も、君を知っていくたびに思いが募っていった。俺達のために戦おうとする君の強さに、ますます惹かれた」
チナミは、相槌さえ打てなかった。
ただ口を真っ直ぐに引き結んで、動揺を隠すのに精いっぱい。
確かに、魔族への偏見を放っておけなかった。
けれどただそれだけ。
元々、ルドウィン達への誤解が許せないという、とても自分本位な考えでの行動だったし、得意の料理で挑んでも、何一つ変えることができなかった。
無力だったと、そう思っていたのに。
ちょっとでも動いたら泣いてしまいそうで、チナミは懸命に平静を装った。完全に不意打ちだ。
「あぁ……何ごとも予定通りにいかないものだな。もっと君と親しくなって、もっといいところを知ってもらってから、伝えるつもりだったんだが」
ルドウィンは照れくさそうに笑ったあと、表情を凜と引き締めた。
「君にとって、共に旅するのはただの成り行きだったかもしれない。だが俺には、毎日が愛おしく、特別で、かけがえがなかった。これからも、そんなふうに過ごしていきたい」
彼の節くれだった手に力が入った。
加減ができなくなっているのか、少し痛いくらいに手を握られる。
だがそれすら、ルドウィンの必死さの現れのように感じて、心臓が壊れてしまいそうだった。
もどかしい。苦しい。
ルドウィンに向かう思い全部、胸を開いて見せられたらいいのに。
そうしたら、どんなふうに喜んでもらえるか。
「君といられるなら、魔族領じゃなくてもどこでもいい。チナミ……どうかこの先も、ずっと俺の隣にいてくれないか?」
……震えているのは、一体どちらの手だろう。
もしかしたら両方かもしれない。
緊張のせいか、あるいは感動か。
チナミは、じっと返事を待つルドウィンに、声が上擦らないよう気を付けながら返した。




