快適! 逃亡生活
最近のチナミは悩んでいる。
森の中での隠匿生活が、こんなに優雅でいいものか……と。
グルーシャ村が魔族領との境界とはいえ、ゾディアス断崖に行くには、徒歩で丸一日かかるという。
チナミ達は現在、断崖との間に広がる広大な森に潜伏している。
魔族領に入れば人族は追いかけてこない。
このまま魔族領に行くこともできるが、それでは真相が明らかにならないままアヴァダール王国と決別することになってしまう。
そこで、どうせチナミを逃がしはしないだろうというルドウィンの予測を元に、追手が来るまでの短い期間、急遽森暮らしをすることとなったのだ。
グルーシャ村には戻れないので、これはあくまで苦肉の策。
……それなのに、何だこの快適さは。
「絶対に間違ってる……いや、野営の時から分かってはいたけど」
チナミは難しい顔で口を開いた。
ゆったりとソファでくつろぎ、手にはティーカップ、ローテーブルには焼き菓子がふんだんに並べられた、穏やかな午後のひと時を過ごしながら。
森の中だというのにラグまで敷かれて、裸足になっている。けれど冷えないようにという配慮から、手触りのいいひざ掛けが用意されていた。もはや木漏れ日まで一種の装置と化している。
至れり尽くせりすぎないか、これは。
周囲の木々を可哀想なほど遠慮なくなぎ倒し、くつろぎ空間を無理やり作り出した張本人に、チナミは怪訝な視線を向ける。
「私は真実を知りたいだけで、有閑貴族になりたいわけじゃないんですけど?」
まるで使用人のように環境を整えていたルドウィンが、爽やかな笑みを返した。ちなみに彼は今も食事の準備を進めている。
「チナミの料理は俺のものだと言ったら、あっさり否定された。まだまだ努力が足りなかったと判断し、こうして俺が料理をしている」
「すみません。説明が一つも理解できないです」
理解できないのに、屈託のない笑みを見ていたらどうでもよくなってしまう。快適すぎる空間のせいもあるかもしれないが。
――爽やかで格好よくてたくましくて優しくてさらに料理上手で思いやりがあるとか、もうこれ誰も勝てないんじゃ……。
地球でも見たことがないほど完全無欠ではないか。なぜ嬉々としてチナミに手料理を振る舞っているのかが、今世紀最大の謎だ。
魔力を駆使し手際よく調理を終えたルドウィンが、チナミとメルの前に皿を置く。
「メインは照り焼きチキンのパスタだ。これは、この間のピザを見て思いついた」
チナミは、日本発祥の照り焼き味を国の宝だと思っているから、こちらの世界でも頻繁に作っては全人類に布教している。
あらゆる主食に合うからという理由もあるが、圧倒的に布教がメインだ。
ルドウィンもしっかり照り焼き味を崇めるようになったか……と感慨にふける前に、照り焼きピザを作った日のことを思い出す。
頭の中に、グルーシャ村の人々の顔が浮かんだ。
表情が陰ったことに気付いたルドウィンが、隣に座りながらチナミを励ます。
「そう落ち込むな。グルーシャ村でのことなら、チナミは何も悪くないだろう?」
村人達の説得に失敗した。
ルドウィンは、それを未だに引きずっていると思っているのだろう。
けれどチナミはあっさり首を振った。
「落ち込んでいるんじゃなく、反省してるんです。分かってもらいたいなんて受け身でいるんじゃなく、もっとおいしい料理を作って、問答無用で分からせてしまえばよかったなって」
完全に実力不足だったのだ。
雷に打たれるほどの衝撃を与えられれば、結果は変わっていたかもしれない。おいしく食べてもらえたけれど、そこまでの感動はなかったということ。
カフェイン中毒の心配をすることはなさそうで、それだけが救いだろうか。
チナミの返答に、ルドウィンはぽかんとした。
「落ち込んでいるんじゃなく、悔しかったと?」
「いけませんか?」
落ち込んでいるかもしれないと気にかけ、大好物を作ってくれる人がいる。
それだけで幸せだし、十分励まされている。
目を丸くしていたルドウィンが、突然高らかに笑い出す。そうして笑いながら、チナミの髪の毛を乱暴に掻き混ぜた。
「ちょっ、やめてくださいよ!」
乱れた髪を直しながら抗議の視線を向けると、ルドウィンの顔がやけに近い距離にあった。
落ち着かない胸を水面下で宥めるチナミに、彼は柔らかく目を細める。
「……いいや。君は、誰よりも素晴らしい」
その声音も眼差しも、甘さすら感じられ、一気に体温が上昇した。
――だから、論点が、変わってるから!
悔しいかどうかという話をしているのであって、チナミ自身の好感度については訊いていない。
彼のこういうところが油断ならないのだ。
「っ、いいから食べますよ。メルちゃんも、ラグの触り心地がいいのは分かったから、そろそろちゃんと座ろうね」
「いいこだから、おとなのじかん、じゃましない」
「メルちゃん、誤解だよ!」
くすぐったくなるような空気を誤魔化そうとしたチナミだったが、メルに返り討ちにされる。思わぬ伏兵だ。
結局、照り焼きチキンのパスタを食べはじめるまで、できたての証である湯気が消えてしまうくらいには時間がかかった。
◇ ◆ ◇
二日間は潜伏生活を続けてみたけれど、状況には何の変化もない。
チナミは早くも不安になっていた。
「やっぱり、追手なんていないんじゃ……」
怪しい謀略というのも、こちらが一方的に疑っているのみ。
シルファの様子がおかしかったのは事実だが、謀略とは一切関係ないかもしれないし、あれが彼なりの思いの伝え方かもしれないし。
そういえば、料理店に足繁く通ってくれている頃も、彼は神について熱心に語っていた。
もしかしたらあの神トークも口説き文句だったのだろうかと、今になって遠い目になる。
ダリクスの忠告がある以上、警戒を解きはしないが、森に籠もりきりでいても仕方がないのではと思ってしまう。チナミの不安が原因で、ルドウィン達を振り回している。
楽しそうに毎日探検に出かけているが、メルにも申し訳なかった。
手持ち無沙汰だからか本格的なパン作りに挑戦していたルドウィンが、不意に真剣な顔付きになって首を振った。
「いいや。必ず相手方が動く。商人のガキに、いけ好かない首席文官、気味の悪い神官長。この三人に会ったのは、おそらく偶然じゃないからな」
アーケアに、ダリクス、シルファ。
彼が上げたのは全員、熱心に口説いてきた(一部判定が難しい言動もあり)面々だった。
「まだ、最も厄介な男が残っているだろう?」
「あぁ……」
続く言葉に、チナミは反射でげんなりした。
彼が誰のことを言っているのか、簡単に思い当たってしまう。
けれど、すぐに我に返る。
王族が本当に追ってくるかはともかく、ルドウィンは今とても重要なことを言っていた。
「え。それってつまり、あの人達も今回のことに関係してるってことですか?」
チナミが巻き込まれかけている怪しげな陰謀と、料理店に通い詰めることに何の関係があるのか。
「あちらの目的がチナミだと分かった以上、そう考えるのが自然なんだ」
ルドウィンは近くにメルがいないことを確認してから、躊躇いがちに口を開いた。




