遭難者一人目
「……いやいや! 辛い思い出はなかったことにして、とにかく今は、何はなくとも韓国海苔! これさえあればチョレギサラダとしての面目が立つ!」
鶏がら出汁がない隙間を埋めるように、チナミはサラダの上に大量の韓国海苔を振りかける。
大量すぎて真っ黒になってしまったが、気にしてはいけない。
「顆粒だしとか、旨みの強いあのお塩とか、便利アイテム……誰か速やかに開発してほしい……」
コンソメスープやブイヨンスープ、しいたけ出汁やかつお出汁。
当然苦労の末に作っていたけれど、料理店を閉店するにあたり、傷みそうな食材は全て片付けた。あのビュッフェ形式で料理を提供した時に、既に使いきっている。
あとからマジックバッグをもらって結構後悔したが、そんなことは別にいい。
持ち運びや保存に便利な粉末であれば、どれほど各家庭が助かるか。
嘆いていても、白米が炊ける匂いにつられてお腹が鳴った。
鉄鍋を開けると、ほわりと湯気が立つ。
その堪らない匂いをいっぱいに吸い込んでから掻き混ぜ、火の通りを確認する。
芯の残りが多少あるけれど、しばらく蒸らせば問題なさそうだ。
満足のいく仕上がりに自然と頬が緩む。
その時、遠くで繁みの揺れる音がした。
明らかに生きものが発したもの。
動物だろうか。
緊張しながらチナミが振り返ると、そこには旅装の男性がいた。
なぜか顔色が悪く、足取りもよろよろとしている。大きな荷物を背負っているが、今にも潰されてしまいそうな風情だ。
「ご、ごはんを……」
「はい?」
「す、すみません、何でもいいので、食べものを分けてくれませんか……?」
どうやら遭難者らしい。
まだ肉を焼いていないので、白飯とサラダしか準備できていない。
チナミは慌ててマジックバッグの中を探り、おかか入りのおにぎりと干し肉を取り出した。空腹時にサラダはさすがに切ないだろう。
男は瞬時におにぎりを平らげ、干し肉も口内に勢いよく放り込んだ。
「あぁ、今、醤油味の何かが入っていた気が……」
味わう余裕もないほど空腹だったようだ。
もう一つ差し出すと、今度は丁寧に礼を言って受け取った。
「おいしいです。あー、完璧な白米との一体感。体に染み渡る優しい味だ」
「乾燥させた魚を、甘辛く味付けしたものです。お口に合ったならよかった」
「魚ですか。貴重な食材を分けていただき、本当にありがとうございます」
海苔はともかく、おかかはかつお出汁を取った出がらしで作ったものだ。丁重に礼を言われ、チナミの良心はずきずき痛んだ。
空腹が落ち着いた男は、フラウと名乗った。
ゾンビのような状態から甦ると、チナミより若そうだ。おそらく二十代前半だろう。
彼は行商人をしており、森の近くにある故郷へ向かう途中だったらしい。
「いやぁ。二日も森を彷徨っていたので、本当に助かりました。油断して食料もほとんど持ってなかったし、生きた心地がしませんでしたよ」
「この近くの村……ということは、ソルタ村?」
「そうです、よくご存じで。この湖がソルタ村に向かう目印なんです」
「私もちょうど、その村に行く予定だったので」
チナミは内心、こぶしを握っていた。
小さな村というのは、よそ者への警戒心が強いもの。出身者の存在は心強かった。
鳥のもも肉を炙りながら同行のお願いをすると、フラウは快く頷いた。
「その、わがままを言わせてもらえば……」
「おかわりですね。焼き鳥丼を作っていますので、もう少しお待ちください」
空腹時、鳥の皮目の焼ける匂いに逆らえる者などいるのだろうか。そこに醬油ベースの甘辛いたれを絡めたら、さらに。
鉄串に刺したままでは食べづらいので、鶏肉も長ねぎも外して熱々ご飯の上へ。たれ付きご飯もまたおいしいので何ら問題ない。
手を合わせ、できたての内に食べる。
「いただきます」
まずは健康を考えてサラダから……と言いたいところだが、ここはもう焼き鳥を食べるしかない。がぶりと思いきりかぶりつく。
「あっつつ……」
はふはふと忙しく口を動かしながら、火傷しないよう慎重に咀嚼。
塩胡椒で下味を調えた鶏もも肉の、弾力と歯応え。噛むほど肉汁が溢れ出し、甘辛いたれと絶妙に絡まり合う。
そこに、急いで白米を運ぶ。
最後に駄目押しで、ご飯にもたれをかけておいてよかった。震えるほどおいしい。
「し、幸せ……これは、半熟卵が必要だったかもしれません……親子丼にリメイクする予定だったから、完全に油断してました……」
「ちょっ、この状況で追い打ちかけないでくださいよ! 想像したら食べたくなる!」
悶絶するフラウと笑い合い、チナミはチョレギサラダも勧めた。
下味をつけただけの鶏肉を細く割いて添えているので、一緒に食べればちゃんとかたちになっている。これはもう完全にチョレギサラダ。
「この海苔というのも確か、海産物を乾燥させた食べものですよね! あーもう、店でもはじめればいいのに! そしたら僕、絶対に通いますよ!」
フラウが、悪気なくチナミの傷を抉る。
やっていた。
常連客がおいしそうに食べるのを、見ているだけで楽しかった。
――それなのに……。
何てことのない日常だった。
家庭料理しかできないチナミがはじめた、庶民向けの小さな料理店。
少しずつ店が評判になるにつれ、客層も幅広くなっていった。
そこに王城の重要人物――首席文官が訪れたのが、はじまり。
話題が話題を呼んで、城勤めの文官が団体で押しかけたかと思えば、次は騎士の団体。
アヴァダール教の神官長、貴族に王族まで……。
しかも常連となったアヴァダール王国の重要人物達は、非常に美しかった。
リアコ勢ならぬ、熱狂的支持者が多くいた。
そこからだ。
料理をして、少しずつ苦しくなっていったのは。