難しい事情
ソルタ村は貧しかったけれど、それでも村民の気性が穏やかで平和だった。
けれどレバンテは違う。
余裕のない暮らしのせいで、誰もが荒んだ雰囲気をしている。それが、こうして諍いというかたちで表面化したのだろう。
「貧民風情が、この街に足を運ぶんじゃねぇ!」
身なりがいい方の男性が、痩せた男性を無造作に蹴りつけた。
よろけて倒れたところをなおも執拗に攻撃しようとしたので、慌てて飛び出しかける。
けれど、チナミの出る幕はなかった。
素早く両者の間に割って入ったルドウィンが、蹲る男を背に庇う。
「事情は知らないが、そこまでにしておけ。ただの暴力は見過ごせん」
男性を毅然と諭す姿は、さすが元騎士団長。凛々しい表情と相まって見惚れてしまった。
「余所者が口を……」
仲裁にさえ怒りをぶつけようとした男が、途中で言葉を呑み込む。
ルドウィンの迫力――もあるだろうが、旅装であっても分かる上質な衣服に怯んだのかもしれない。
彼は平民とはいえ元騎士団長、この国の中心部で活躍していた華やかさは隠しきれていない。
暴力を振るっていた男は、すごすごと建物内に引き上げていった。
「大丈夫か?」
ルドウィンが、蹲っていた男に手を差し伸べる。
痛そうに顔をしかめながらも、男は何とか自力で起き上がった。体力がなくなっているところを蹴られたのだから、ダメージが大きくて当然だ。
チナミもマジックバッグを探り、慌てて駆け寄った。旅に出る際、応急処置用の軟膏や包帯はエナにこれでもかと持たされている。
「あの、手当てを……」
「すまん、ありがたい……」
チナミが声をかけると、男は弱々しく頷いた。
他の住民は、彼に近付く素振りもない。まるで存在などしないかのように、見て見ぬふりだ。
訝しみつつも、慣れない包帯を巻いていく。その間に、男はライルと名乗った。
訥々と語った事情は、レバンテ街特有の、非常に根深いものだった。
ライルがすがっていた男は、この街唯一の解体屋。猟師が仕留めた動物や鳥を捌き、肉屋に卸すのが生業だという。
その解体屋が、比較的富裕な庶民向けの精肉店を中心に肉を卸しているから、貧しい者は困っている。長期にわたって肉が手に入らないため、貧民街に住む者は緩やかに衰弱しているそうだった。
「元々、街の規模のわりに解体屋が少ない。領主から資格さえもらえば誰でもできる仕事だから、あえてやろうって者はいなかった。資格をとるにはかなりの金がいるしな」
そもそも解体屋が少ないのも理由があった。
魔族の国が近いから、街を護る塀の外には、腕に覚えのある者しか出ない。街の住民は魔族を恐れ、怯えているのだ。
「先ほどの人が、解体屋なんですね。精肉は、必ず一箇所に集まる……その仕組みを利用して、あなた達に肉を売らないということですか……?」
「向こうも、恨みがあってのことではないんだ。今までは普通に取引ができていた。最近はさらに供給が少なくなっているから、解体屋も富裕層を優先するしかないんだろうさ……」
領主から解体屋の資格を与えてもらおうにも、ライル達にはその資金もない。命がけで狩りをしても、獲物を勝手に解体することは許されず、違反が露見すれば厳罰に処される。
精肉が供給されない人々にとっては八方塞がり、まさに死活問題だった。
「この街に、畜産農家はいないんでしょうか? 豚や牛などを食用で飼っている方」
「この街にそういう仕事をする奴はいないよ。魔族が襲ってきたら全滅するって分かってるのに、家畜を育てる酔狂なもんがどこにいる」
大量に獲物を仕留めても危険だから、猟師が動物を狩る数も最小限。これもまた、魔族の国が近い街では珍しくないらしい。
チナミは話を吟味してから、慎重に口を開いた。
「その決まりごとは……この街に住む人にしか、適用されないんですよね?」
ライルはもう喋る気力もなくなってしまったようで、弱々しく頷く。
チナミが視線を送ると、ルドウィンは目を合わせて小さく笑った。こちらの意図が明確に伝わっているのが分かる。
感謝代わりに微笑みを返し、チナミは提案した。
「では、私達の食料をお分けします。それでしたら問題ないですよね?」
俯いていたライルが、ゆるゆると顔を上げる。
その瞳にはかすかな希望が宿っていた。
「とてもありがたいが……いいのか?」
「はい。ルドウィン様が狩ってくださった猪肉が、まだ手つかずであるんです。よろしければライルさんだけではなく、お知り合いの方々もご一緒に」
「助かる! 俺には女房と可愛い子どもが三人いるのに……それに、他の奴らもみんな、最近の不猟でほとんど芋しか食べてないんだ!」
また芋。
芋はおいしい上に栄養のない土地でもたくましく成長する、偉大なる存在ではあるけれど。
「ほとんど芋のみということは、消化器官が弱っているかもしれませんね。小さい子もいるようですし、よろしければ私が胃腸に優しいものをお作りしましょうか?」
猪肉をそのまま焼いて食べるだけ、では断食明けにステーキを食べるようなもの。急性の胃腸トラブルが起きかねない。
――まぁ、断食なんてしたことはないけどね。
会社がブラックすぎて、自動的に飲みものだけで一日を乗り切ったことならあるけれど、それは計算に入れるべきではないだろう。
チナミの提案に、ライルが初めて笑みを見せた。
何度も感謝を告げながら涙ぐむ彼に、こちらの方が恐縮してしまう。
調理の手伝いも申し出てくれたが、活力の足りない者を顎で使えるほどチナミは悪人じゃない。
ルドウィンを助手ということにして、今回も巻き込まれてもらう。
「何だかいつもすみません」
「いいんだ。チナミがそれだけ心を許しているということだから、むしろ嬉しく感じる。ぜひもっと俺を頼ってくれ」
「お気持ちだけで十分です」
甘えすぎると本格的に魔族領へ連れて行かれそうなので、今後は注意した方がよさそうだ。
貧民街に一つだけあるという孤児院に向かいながら、チナミは気を引き締める。
その孤児院が、ライルに教えてもらった料理ができそうな場所だ。ちなみに彼には、炊き出しがあることを街の人達に触れ回ってもらっている。
貧民街は、先ほどまでいた街のメインストリートに比べると物騒な雰囲気だった。
街路に石畳はなく土が剥き出しだし、補修が行われないまま壁が崩れた家屋もある。道端に座り込む者も多かった。
チナミ一人だったら、きっと恐ろしくて尻込みしていただろう。
炊き出しだけ用意して、貧民街に足を踏み入れなかったかもしれない。
距離を取りながら善行だけ施そうなんていかにも偽善者らしいが、自己嫌悪に陥りながらも、結局は保身を選んでいた。
けれど、今は隣にルドウィンがいる。
彼の存在が、よそ者を受け入れない貧民街の人々を牽制している。同時に、チナミに多大なる安心感を与えていた。
――これだけ気を許しておきながら、何を今さら気を引き締めて……。
旅をはじめる前にあった張り詰めた気持ちが、今はすっかり緩んでいる。
それが答えなのだろう。