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転校生

春の気候から雨の匂いが混ざる月になると、あっという間に梅雨の時期になった。じめじめとした日々が続き、真徳高校に通っている生徒たちの気分もいささか下がっているように思える6月。膝にこしらえた傷もすでに綺麗に治り始めている頃のことだった。

(しまった。やられた…)

ホームルームが始まる前にトイレに立った私は、少しの間だからと一時限目の準備をしたまま席を離れてしまった。そして、戻って来た時には、机の上に用意しておいた教科書や筆記用具が一切なくなっていたのだ。

(ったく、本当に抜け目ない)

クスクスと笑っている藤堂たちを横目に、消えた教科書を探し始める。ふと、数人のクラスメートたちが不自然に窓の外に視線をやっているのを見て、嫌な予感がしながらも窓枠に近づいた。

「やってくれたね…」

3階下の地面の上に、投げ出された教科書や筆記用具がみじめに散らばっていた。外はしとしとと雨が降っているというのに。

私は小さく舌打ちし、教室を出た瞬間、担任とぶつかった。

「あ、おい。ホームルーム始まるぞ」

そう言った瞬間に、チャイムが鳴った。

「下に物を落としてしまって」

私は弁明しようとするが、先生は首を振った。

「ホームルームのあとにしなさい。大事な話があるんだ」

教科書やノートがぐしゃぐしゃに濡れる前に救出したかったが、諦めるしかない。

私は渋々自分の席についた。その時、私が取りに行けなかったことに満足している表情の藤堂と目が合った。眉尻を下げ、「残念ね」と口を動かしている。

(このクソガキ…)

私は彼女から視線を外し、教卓で出席を取っている先生の方を向いた。無害のように見える先生たちも、時々悪役なのではないかと思えることがある。あからさまに教室内で何か異変があるのに、突き止めようともしない。気づいた振りさえもしない。生徒たちの顔をよく見ているのであれば、気づくはずなのに。

「よし、全員いるな。今日は、転校生を紹介する」

クラス内がざわついた。

「先生!男ですか、女ですか?」

一番前の席に座っている、郡山の取り巻きの一人が聞いた。

「男だ」

クラスの女子が沸いた。

「カッコいいですか?」

「身長は?」

先生は半ば呆れながらも、にやりと言った。

「先生はカッコいいと思う。身長はこの学校で一番高いんじゃないか?アメリカから来た、帰国子女だ」

キャーと叫びながら女子たちは色めきだっている。

(若いな…)

私はぼんやりと窓の外を見た。少しずつ雨足が強まってきている。

(さっさと教科書を取りに行きたいのに…)

「あれ。さっき、そこにいたのにな…」

中々教室に入って来ない転校生を訝しげに思った先生は、廊下にまで出て行った。

「ねえ、どんな人なんでしょう?」

「どんなにかっこよくても、あのお三方には勝てないわよ」

「楽しみね!」

生徒たちは勝手なことを話しながら盛り上がっている。

「どこ行ってた?」

先生が誰かをつれて戻って来た。

「トイレ行ってました」

「このタイミングで!?」

女子の興奮と熱気で包まれていた教室は、転校生が足を踏み入れた瞬間、一気にしんと静まり返った。目も覚めるような金髪をハーフアップにし、鋭い目には紫色のカラコン。耳には、もはや数えるのも面倒なくらいの、刺々しいピアスが光っている。そして、両手には、ちょうど拳に当たるところに白いテーピングがしてあった。前の学校で暴力沙汰と起こしたと言われれば、納得してしまいそうな風貌だ。

数名のクラスメートが息を呑んだ。しかし、私もその一人だった。

「改めて紹介しよう。今日から一緒のクラスになった榊克巳さかきかつみくんだ」

不機嫌そうな表情の榊と目が合いそうになり、私は思いっきり机に突っ伏した。

(え、もう戻って来ないんじゃ…?)

関わることはもうないだろうと、妹の他に素で接して来た人物の一人。

どうにか気づかれないようにと、髪の毛で顔を隠そうと奮闘している私の気持ちをよそに、先生が言った。

「榊くんは、さっきも言ったようにずっとアメリカにいたから、勝手が分からないこともある。クラスのみんなで助けてあげるように。席は、そうだな。あ、白石の隣が空いているな」

「白石?」

榊が反応する声が聞こえた。

「ああ。白石は、試験の成績も学年で上位だから、勉強もみてもらうといい。いいな、白石?」

クラスに馴染めなさそうな問題児を押し付けられた私を見て、藤堂も郡山も嬉しそうに笑っている。

「…はい」

いつもより高めの声で返事をし、榊に気づかれないようにする。しかし、すでに詰んだことに私は気づいていた。

「よろしく」

隣に乱暴に腰を下ろした榊が言った。私は顔を髪で隠しながら、頷いた。

それと同時に、救世主のホームルーム終了のチャイムが鳴った。私は勢いよく立ち上がり、階段を駆け下りた。すぐさま、雨に濡れて瀕死状態の教科書の元へ駆け寄った。

「な、なぜ榊が転校してくるの?」

泥で汚れ、雨水がしみ込んだ教科書をバサバサ振りながら、私は呟いた。

「原作には、転校生なんて一切描いていなかったのに」

(もしかして、ストーリーが変わった…?)

興奮で体が熱くなってくるのが分かった。

「歪みが起きたから?」

何かと心配性の妹にこのニュースを今すぐ伝えたかったが、ぐっと我慢する。これが良いニュースなのかどうか、まずは見極める必要がある。

(榊が悪役だと思えないけど…。なぜ今になって?)

「あー分からない!」

「何が分からないの?」

突然声をかけられて、私は振り返った。

「一人で百面相してるのは見ていて楽しいけど、ちょっと心配」

相変わらず前髪で目元まで見えない五十嵐が言った。

(余計なお世話よ)

そう言いたかったが、五十嵐には用務員室のカギを借りた恩がある。邪見に扱うことは出来ない。

「いいえ、こっちの話」

私は教科書や筆記用具を抱え直し、その場を去ろうとすると五十嵐が言った。

「それで、読めるの?」

腕で隠していたつもりだったが、五十嵐は見ていたようだ。

「その教科書、開くのも大変なんじゃない?」

気にしないで、と答えようとした時、どこから出て来たのか蓮見が五十嵐の首に飛びついた。

「ここにいたのかよ!体育だぞ!」

突然の重みに五十嵐は「うっ」と唸る。

「重い」

ここで蓮見は私がいるのに気づき、手を挙げた。

「あれ。白石ちゃんじゃん。おはよ…って、それどうしたの!」

(声がでかい…)

細い白石透の腕では、濡れて色が変わっている教科書を隠しきれない。めざとくそれを見つけた蓮見は、私から汚れた教科書を取り上げると、それと私とを交互に見つめた。

「どうしたの、これ?」

「落としたのよ」

蓮見から教科書を取り返そうとした時、その教科書が今度は天城の手に渡った。

「何これ」

「落としたんだって」

はあと大きなため息を吐いて、天城は言った

「嘘が下手」

私はぎくっとしたが、天城はそれ以上追及しなかった。

「教科書貸してあげようか?」

五十嵐が言った。

「体育さぼるし、教室に届けようか?」

「い、いいえ。大丈夫」

私は慌てて言った。五十嵐が来たらクラスの女子が騒がしくなるでは済まない。変ないざこざにも巻き込まれそうだ。

「じゃあ、取りに来る?」

「え、ええ。そうするわ」

確かに五十嵐の言う通り、濡れて重くなった教科書は破らないようにめくるのが大変だろう。それに、今日からは隣に榊がいる。転校初日から色々詮索されるのも避けたかった。

「体育、ちゃんと来いよー!」

教室へ向かおうとする五十嵐の背中に蓮見が声をかけた。その声には反応せずに五十嵐は、のんびりと足を進めた。


体育に参加する気のない五十嵐は、私の濡れた教科書とノートを持ったまま保健室へと消えた。保健室にあるストーブの前で乾かしておいてくれるらしい。

私は使った形跡のない五十嵐の教科書を見ながら、考えていた。

(また、五十嵐に借りが出来てしまった)

何か困ったことがあるたびに、登場する三人を避けられずにいる。

漫画では、婚約者であった天城以外は、ほとんど描かれることがなかった。つまり、彼らの性格や動きが全く読めないのが避けられない理由の一つでもあった。

(今のところ悪い方向には行ってないから、放っておいて大丈夫かな)

そう今は、他に考えなければならない事が出て来てしまった。

先ほどから、隣の榊がじっとこちらを見つめて来る。その視線が気になって、全然授業に集中出来ない。まだ教科書を貰っていないという彼と共に一緒に見なくてはならないのが、大変で仕方ない。右手で顔を隠しながら、教科書をめくり、ノートに書き込む際には髪の毛をだらりと垂れ下げて顔を隠す。

「お前さ…」

榊がぼそりと言った。

「何かしら?」

普段より声を高くして、私は聞いた。

「その髪、暑苦しくない?」

(え、今?)

予想だにしていなかった質問が飛び出し、私は思わず榊の方を見そうになった。

「慣れているから平気よ」

私は心を落ち着けてから答えた。

「ふうん」

答えに満足している様子はなかったが、黙った榊に私は一瞬安心した。しかし、それも本当に一瞬だった。

「バスケする時みたいには、結ばないんだ?」

この時ばかりは、榊の方を向いてしまった。目が合った榊がにやりと笑った。

「やっぱりな」

「白石」

何か言おうと口を開きかけた時、担任が私の名前を呼んだ。

「お前ならこの問題解けるか?」

教室を見渡すと、郡山が気まずそうな顔をしていた。授業中に注意された結果、先生にあてられたが、答えられなかったのだろう。

私は静かに立ち上がり、黒板に式と解を書いた。

「よし、正解だ」

満足そうに先生は言った。

郡山が口の中で何か呟いていたが、その声は誰にも届かなかった。私は満足げに郡山を一瞥すると、席に座った。

「あれ、猫かぶってる?たいぶしおらしいけど」

小声で榊が言うのを、私は手で制した。

「あとで話しましょ」



午後になると雨は止んだが、未だに黒い雲が空を覆っていた。

「ここなら、人は来ないわね…」

私は辺りをきょろきょろと見渡し、人気がないのを確認した。食堂の建物の後ろ、漫画では白石透が一人でランチをしていた場所の一つだ。建物の陰になっており、通り過ぎる人には見つかりにくい。ベンチとゴミ箱だけが置いてあり、居心地が良いとは言えないが仕方ない。

「ここで食うの?」

食堂のご飯が美味しいと聞いていた榊は、どこか不服そうに言った。

「今日だけ、我慢して」

そう言って、さっき買ったサンドイッチを榊に渡す。

「明日からは、私に話かけないで」

「なんで?」

私の隣に並び、ベンチに座りながら榊が聞いた。

その質問を無視して、私はサンドイッチを頬張った。

「それにしても久しぶりだね。アメリカに帰るって言ってなかったっけ?」

一切れを食べ終わり、私は言った。

「帰ったよ。こっちに戻って来るつもりもなかった」

(確かに、そんなこと言ってたな…)

遠い記憶になりつつあるが、帰国前に一度だけ、二人でバスケの試合をしたことがあった。その時に、会うのは最後だと話していた。

「それで、何があって帰国を?」

「ああ。親父とちょっと揉めた」

思わず私の頬が緩んだ。

(反抗期か。可愛いな)

「大丈夫なの?」

「今の俺じゃ、親父に逆らう力は持ってない。そのせいで、アイツも巻き込んでしまったし…」

(アイツ…?)

苦しそうに話す榊に、それ以上詮索は出来ず、私はまたサンドイッチを頬張った。

「今も幸田さんのところ?」

話題を変えようと私は切り出した。榊は前を向いたまま、頷いた。

「しばらく世話になる予定」

「そう」

二人の間に気まずい沈黙が流れた。

予鈴の音が構内全体に響き渡り、私は立ち上がった。

「じゃ、先に行くわ」

榊が顔を上げた。

「また榊に会えて嬉しいけど、学校では今後一切、私に関わらないで」

「なんで?」

榊が純粋に質問をしているのが分かった。

「きっと痛い目に遭うから」

「は?」

訳が分からないと顔をしかめている榊に、私は背を向けた。

「じゃ」

私は早足でその場を離れた。

榊がどの程度の金持ちなのかは分からないが、西園寺の手にかかれば彼もきっとどこか遠くの山奥に飛ばされてしまうだろう。

折角のバスケ仲間を失いたくない、と私は榊を守る決心を固めた。

しかし、そんな気持ちは当の本人には全く通用しなかった。



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