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供養

日曜の朝、いつも通りの時間に起きると、妹がまだ寝ているのを確認してから、ジョギングをしに公園へと向かった。朝の透き通った空気は、顔を刺すように冷たいが、日が昇るのが少しずつ早くなって来た。草花もだんだんと芽を出し、春の訪れを感じているようだった。

どこからから、ワンッと大きく吠える声がして、私は思わず振り返った。

「あらら」

見覚えのある犬の足下で、今日もまたリードが悲しそうに引きずられている。

白いポメラニアンは私のところまで来るとスピードを落とし、私の靴を嗅ぎ始めた。

「また、一人で来ちゃったの」

ゴンと書かれた首輪があることを確認し、私は犬を撫でた。

ゴンははあはあと息を弾ませて、私の顔をじっと見ている。

「また、おばあさんに心配かけちゃダメでしょ」

私は立ち上がり、引きずられて汚くなったリードを掴んだ。

「さ、行くよ!」

まだ走り足りないのか、ゴンは飛び上がった。

その時、後ろからふっと誰かが私を追い越して行った。そして、立ち止まって振り向くと、私のことをじっと見つめた。

「…やっぱり」

(見間違いじゃなかった)

目の前に立つ作業着服を来た、女性の姿。そう、昔の自分の姿がそこにあった。

ゴンは足元をうろうろと歩き、何事かと鼻を鳴らしている。

「どうして…?」

しかし今回もまた杉崎凛子は、悲しそうに笑顔を浮かべるだけだ。

突然くるりと背を向け、走り始めた。

「ま、待って…!」

私は後を追いかける。しかし、どんなに早く走っても昔の自分に追いつけない。そうこうしている内に、その姿を見失ってしまった。

「ど、どこに…?」

辺りをきょろきょろと見渡すが、もう見つからないと心では分かっていた。

ワンッと足元でゴンが鳴き、私は我に返った。

「ああ、ごめんね」

それから少しの期待を込めて、辺りを探しながら、公園の入り口付近まで戻ろうと足を進めた。少し向こうに着物を着た老女が見えた瞬間、ゴンが走り出し私もそれに倣った。

「あら、まあ!」

私を見ると、老女は目を丸くして驚いた。

「あの時のお嬢様」

「お久しぶりです」

リードを渡しながら私は頭を下げた。

「今回もお世話になってしまって」

申し訳なさそうに老女が腰を折って謝罪する。

「ごめんなさいね。私の歩きが遅いのか、こうやって手をすり抜けてしまうの」

「いえ。また会えて良かったです」

「この後、お時間あるかしら?この前のお礼も兼ねて、お茶にお誘いしたのだけど」

「えっと…」

断ろうとしたが、悲しそうな顔の老女と目が合うと、二度も断ってしまうのが忍びなくなり、私は頷いてしまった。

「では、お言葉に甘えて…」


老女の名前は、友代ともよさんと言うらしい。近所に住んでいるものの、中々時間が見つけられず公園への散歩は月に数回程度なのだそうだ。白石家がある方面とは逆の方向へと、友代は足を進めた。公園から歩くこと約5分、私たちは大きな平屋のお屋敷の前で、立ち止まった。

「こちらよ」

木製の表札には「原」と書かれていた。

横開きのドアを開けると、お手伝いさんが数人出て来た。

「友代さま!お怪我はありませんか?」

「大丈夫よ。さ、お嬢さんもあがって」

私は「お邪魔します」と呟き、お手伝いさんの一人にゴンのリードを渡すと、和の雰囲気に包まれた屋敷の中へと足を踏み入れた。

白石家のリビングとほぼ同じサイズの大きな和室に通され、久しぶりの畳の感触に思わず顔がほころんだ。遠い昔の実家の家を思い出す。

「緑茶でよろしいかしら?」

友代が聞き、私は頷いた。

「ありがとうございます」

テーブルの上に既に用意されているお茶のセットから、茶葉の缶を開け、丁寧にお茶を注いでくれている友代の手元を見つめた。部屋の中にふわりと緑茶の匂いが漂う。

「和菓子をお持ちしました」

着物姿のお手伝いさんが一人、襖を開けて入って来た。お盆の上には、二つの花型のお皿の上に、黄緑色の粉がかかった楕円形のお餅が乗っていた。

鶯餅うぐいすもちでございます」

「あら、いいわね」

茶器を私の方に渡しながら、友代は嬉しそうに笑った。

「季節の茶菓子よ。どうぞ」

そう促されて、私はその餅菓子を一口頬張った。

「あ、美味しい…」

甘すぎない黄な粉と、ふんわりとした餅の口当たりが何とも上品な茶菓子だった。

「こんな優しい鶯餅を食べたのは、初めてかもしれません」

私がそういうと友代は満足そうに頷いた。

「そうでしょ。代々続く和菓子屋さんからいつも買っているのよ」

甘味の残る口で、友代の淹れてくれた緑茶を飲んでみる。渋みのあとから、茶菓子とは違う甘い味が追いかけてきた。

私はほうと息を吐いた。

(なんだか落ち着くな)

初めて訪れた場所なのに、この居心地の良さはきっと、この和風な建物が昔の家を思い出させるからだろうか。それから、さき程公園で見かけた、昔の自分の姿を思い出した。

「何か悩みごと?」

私の表情が変わったせいか、友代が聞いた。

「…いえ。ただ、昔を思い出すなと」

「あら。引っ越して来たの?」

思わず口を滑らせてしまい、私は慌てた。

「い、いえ。あの…」

「私もよ」

友代が言った。

「娘がね、好きな人と結婚するって言って家を出て行ったの。それから、しばらくの間この家で住んでいたそうなの。子供が生まれてからは、海外へ行ってしまって。娘が病気で亡くなったって聞いて、私はこの家に引っ越して来たの。あの時なんでもっと支えてあげられなかったんだろう、って今でも後悔しているわ。それから、娘の娘、私の孫ね、彼女も病にかかかり弱った体で日本に帰ってきたの。その孫の願望が、母が育った場所で過ごしたいだったの。それ以来私はずっと彼女と二人暮らしをしているわ」

友代はどこか遠くを見るような面持ちで言った。

(そうか、だからこんなに家が寂しいんだ…)

実家と似ているが、どこか違う。その雰囲気はきっと、大きな家にたった二人、友代と孫で住んでいることと関係しているのだろうか。

「あら、私ったら忘れていたわ」

友代はそう言いながら、横にある襖まで歩いて行き、静かに扉を開けた。その向こうも似たような和室になっていたが、一つ異なる点があった。天井まで付きそうな立派な木製の仏壇がどっしりと佇んでいた。

「娘も鶯餅が好きだったの」

古くなった茶菓子を下げ、代わりに鶯餅を供えるつもりのようだ。私に友代が手を付けていない皿を持ってくるように身振りで伝える。

「私も挨拶してもいいですか?」

友代に茶菓子を渡し、聞いた。

「あらいいの?優しい子ね」

私は仏壇の前に座り、手を合わせた。

心の中でこの家にお邪魔していることを伝えると、ゆっくりと瞳を開けた。

写真立ての中の女性は、まだ若く、肩まで伸ばした黒髪に軽くパーマをかけていた。

(どこかで…)

見覚えのある凛とした顔立ちに私は一瞬考えたが、すぐに思いつく人がいた。

(もしかして。ここは、この家は…)

「あの、友代さん」

私は後ろに控えていた友代に声を掛けた。

「もしかして、そのお孫さんって真徳高校に通っています?」

「え?そうね。ただ毎日通うことは難しいけれど。あら、まさかお知り合い?」

「その方のお名前は…?」

「響子よ。西園寺響子」

全身がどくんと波打った。

(ここにいてはヤバい)

年始に彼女が自分を見失って怒る様を見たのは記憶に新しい。ここにいることが知られたら、何をされるか分からない。漫画に出て来ること以上の事件はなるべく避けたい。

「申し訳ございません、友代さん。急用を思い出してしまったので、これで失礼します」

私は膝をついたまま一礼をし、立ち上がった。

「あら、残念」

友代は何も疑問に思うことなく、私を玄関まで送ってくれた。

そして私を見送る手前で、こう言った。

「響子は、入院生活が長いの。学年が越えられないこともあったわ。だから、もし良ければ仲良くしてほしいの」

悲しい光を瞳の奥にちらつかせる友代に、私は頷くことが出来なかった。

(西園寺が世界で一番憎んでいる人が、私なんです…)

最後にもう一度お辞儀をし、お礼を言うと、急いで帰路についた。



幸いなことに、西園寺響子とは一度も顔を合わせることなく、3月がやって来た。友代は私が西園寺の家に来たことを伝えていないのか、いつも通りの学校生活を送っていた。しかし、一つだけ解決していない出来事があった。公園で、また昔の自分を見かけてから、毎日のように私の前に姿を現す、杉崎凛子。道を歩いていても、学校内でも、どこにいても見かけるが、追いかけると霧のようにふっと消えてしまう。そして、決まっていつも悲しそうに笑っていた。

杉崎凛子を見かけるようになって数週間が経った頃、私は妹に相談することにした。

「昔の自分を見る…?」

ホットケーキを食べる手を止めて、まどかが聞いた。

「うん。結構前から」

バターを塗りながら私は答えた。

「だけど、追いかけると消えてしまうし、いつも何も言わないの」

「何度も現れるということは、何か伝えたいことがあるんじゃない?」

まどかがフォークを置いて言った。

完全に摩訶不思議なことを話しているが、真実として受け止めてくれる妹に感謝する。

「昔のお姉さまのことで、何か思い当たることは?」

「なんだろう…」

私は顎に手を当てる。

最初に現れたのが、バレンタインデー。それから毎日のように…

「あ」

思わず声が漏れた。

「何か思い出した?」

「忘れてた。私、杉崎凛子の誕生日」

「え!」

「2月28日は、私の誕生日だったわ」

妹が呆れたようにため息を吐いた。

「そんな大事なことを…」

「それを思い出させる為に一週間前から姿を現し始めた…?」

「きっと、そうよ。お祝いしてあげなきゃ」

それから、まどかは真剣な視線を私に向けた。

「一緒に供養もしてあげましょ」


準備を終えた夕方ごろ、私と妹は喪服に着替えた。クローゼットにあった唯一の黒い服、(それでもかなり短い丈のワンピースだったが)、を着て外に出た。

広い庭に置いてある大きな木製のテーブルに、電気のロウソクを並べた。そして、私が生前に好きだったお酒…は買えなかったので、代わりのノンアルのジュース缶を並べた。そして、ストレスが溜まった時によく食べていたチョコのカップケーキの上に小さなロウソクを灯した。

「友代さんのように立派な仏壇は用意出来ないし、生前の写真もないけど」

隣にいた妹が私の手を握った。

「杉崎凛子、貴女を送り出します。ゆっくり眠って下さい」

それから私は持っていたカップケーキのロウソクを消した。

「誕生日おめでとう」

心はすっきりしたはずなのに、目頭が熱くなり、涙で目がチクチクした。

何度も恨んで悔いた人生だったのに、いざ手放すとなると悲しくてたまらなかった。

隣で妹が握る手に力を込めた。私が一人でないことを証明するかのように。

それから妹もロウソクをふっと消した。

「さようなら、そしてありがとう。杉崎凛子さん」

二人でしばらくの間、星の瞬く夜空を見上げていた。

そしてその日の夜は、妹と手を繋いで眠った。


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