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ダム崩壊

吹き付ける風が、秋の乾いた風から肌を刺すような冷たい空気に変わるこの季節。そろそろ本格的に冬が訪れようとしていた。

凍るような風が吹き、天城は黒いコートの襟をしめた。

寒い季節は苦手だ。体は動かないし、着る服もだんだんと重くなってくる。まだ11月の上旬だと言うのに、すでにコートの下には裏起毛のパーカーを着ていた。

ふと楽しげな声がして、その方向を向くと、もう寒いというのに薄着でボール遊びをしている小学生たちが目に入った。

(…元気)

寒いせいか頭が上手く働かない。ぼーっとしながら、歩みを進めると、その中に小学生よりは頭一個分大きい人物が混ざっているのが見えた。

頭の上で一つ結びにした栗毛の髪が、風が吹くたびに四方に広がる。

見慣れたその女子もまた薄着で、小学生たちと和気あいあいとバスケを楽しんでいた。

「お姉ちゃん、もう一回勝負しよー!」

小学生軍団がそう叫んでいるのが聞こえた。

小学生たちとさほど身長も変わらないのに、何度もシュートを入れ、時にはスリーポイントも決める様子に、天城は目が釘付けになっていた。

―もう昔の純粋な白石透はいないの。

数週間前にそう言われた言葉が脳内に蘇った。

確かに、記憶に残る白石透と見た目こそ同じだが、完全に似て非なるものだった。

(今のあいつを見ると変な感じがする)

その場に立ちつくしたまま天城は、自分でも言い表せない感情が心の中で渦巻いているのを感じ取っていた。

婚約者の顔を見るたびに、自然と沸いて来る嫌悪感。「嫌い」という言葉が口をついて出るほどに、嫌で遠ざけたかった存在だった。

(それは今でも変わらない、か)

楽しそうに笑いながら、小学生にボールをパスしている無邪気な白石透。心の奥から何かどす黒い感情が沸き上がってくるが、この正体が分からなかった。

突然、ポケットのスマホが震え、我に返った。

しばらく立っていたせいか、手が冷えていた。

「もしもし」

『あ、海斗?』

電話の向こうで蓮見が言った。

『体育祭の時、貸したヘアゴムあるじゃん?あれ、どこにある?母ちゃんのを勝手に借りたのがバレちゃってさ。めっちゃ怒られた』

「…失くした」

天城は、またシュートを繰り出した白石透を見ながら呟いた。

『え、マジかよ!ま、いいか。似たようなのを買えば』

電話の向こうで蓮見が呑気に笑っている。

『ってか、体育祭と言えば。お前、最後のリレー惜しかったな!確かに、白石ちゃんの追い上げ劇には、ぶっ飛んだけど、お前を追い越すとは誰も想像もしてなかったよ!お前、本気出してなかったとか?』

しばらくの沈黙の後、ぼそりと天城は言った。

「…喜ぶかと思った」

『え?』

「いや、こっちの話」

『あ、そう。ま、いいや。これからこっち来るか?今五十嵐が来たから、これから二人でゲームするんだけど』

「今日はパスする」

そう言い、天城は電話を切った。

そして白石透にも背を向けて、歩きだした。


すっかり日も傾き始めた頃、小学生のお母さんたちが子供たちの名前を呼び、バスケはお開きとなった。

「お姉ちゃん、バイバイ!」と次々に小学生たちが手を振って帰宅していく様子を、ほほ笑ましく見送る。

バスケ少年たちと数時間遊んでも体力が持つようになって来た自分の体に感激する。

「さて、私も帰るか」

途中で脱ぎ捨てたパーカーを着ようと振り返ると、そこにまだ一人少年が残っていた。

携帯を握り締めながら、ベンチに座っている。

「あれ、たくや君。お迎えは?」

以前、私にボールがぶつかったことを謝り、バスケに入れてくれた少年だ。

「遅れているみたい。今日はお父ちゃんが来る予定だったのに」

「お仕事なの?」

隣に座り、パーカーを羽織る。

拓也はこくんと頷いた。

「そっか」

私は辺りを見渡した。

日没が早いこの季節は、夕方の5時を過ぎるとあっという間に真っ暗になってしまう。

高級住宅街に囲まれた大きな公園とはいえ、ここにいるのは何となく危険な気がした。

「お父さんがどこで働いているか知ってる?この近く?」

「うん。そこのジムなんだ」

(事務…?この近くの会社かな)

確かにいくつかオフィスビルがあるのは知っている。

「お父さんが遅いなら、こっちから迎えに行っちゃおうか?」

私がそう言うと、拓也は私を見上げて嬉しそうに頷いた。

「うん!」


「本当にここ…?」

拓也の手を握りながら、私は見覚えのあるビルを見上げた。

「うん!ここのジムで働いてる!」

私の手を引っ張って先導する拓也の後ろについて行く。

いつぞや、お世話になったボクシングジムだった。

「お父さ~ん!」

ガラス扉を大きく開け放ち、拓也は大声で叫んだ。

ジムのど真ん中には、リング場があり、奥の方にはサンドバッグがいくつもぶら下がっている。営業外の時間なのか、人の数はあまり多くはないが、未だにトレーニングしている人たちがまだ数名ほど残っていた。

掃除をしていた大きな体の男性が、こちらを向いた。

「卓也!」

飛びつく拓也を軽々持ち上げ、驚いたように言った。

「一人でここまで来たのか?」

「ううん!お姉ちゃんと一緒に!」

拓也が後ろを向くので、その視線を追う父親。そこで入り口に立っている私とばっちり目が合った。

「おや。あなたは…」

男性の瞳が大きく見開かれた。

「いつぞやは、お世話になりました」

親子に近づき、私はお辞儀をした。

「あの時のお人形ちゃん」

彼の記憶にも新しいのだろう。

ドレス姿で突然押しかけて、サンドバッグを一つ貸して欲しいと言い、一心不乱にパンチを打ち込む、なんとも場違いな女子のことを。

「うちの息子とは、どこで?」

トレーニングしている人たちの邪魔にならないように、端に寄りながら男性は聞いた。

「バスケのお姉ちゃんだよ」

拓也は楽しそうに言った。

「最初はすごく下手だった、あのお姉ちゃん」

「ああ、例の。拓也がよく家で話してくれました」

「そうなんですね…」

思わず赤面してしまう。

スリーポイントが中々入らず小学生が辟易していたあの事を語り継いでいるのだろうか。

「でも、もう下手じゃないでしょ?」

拓也の目線になって私が聞くと、彼は大きく頷いた。

「今はカッコいいよ」

名誉挽回のつもりが、小学生の真っ直ぐな褒め言葉に逆に恥ずかしくなってしまった。

「最近はどうですか?」父親が優しく聞いた。

ふっと伊坂の事が脳裏によぎった。

突然いなくなってしまった一番近しい友人。背後に誰がいようとも、それはきっと私のせいなのかもしれない。

黙ってしまった私を気遣ってか、男性は言った。

「少し、打っていきます?」


拓也を事務所に連れて行きますと、その場を離れた男性に代わり、別の男がミット打ちの相手となった。高校生くらいだろうか。まだ顔は幼いが、派手な金髪頭にピアスをいくつもしており、鋭い目が印象的だ。

(不良かな)

そんなことを考えていると、金髪が言った。

「ったく。幸田さんも、人がいいよな。こんなひょろっちい奴の相手をするなんて」

(ひょっろちい…)

私の中で何かがプチンと切れた。

グローブをつけた拳を構える。

「時間のむ…」

何か言いかけていたが、そのままジャブを繰り出した。

無我夢中でジャブやストレートを相手のミットに叩き込む。

「お、おい。ちょっと待…」

問答無用で、キックをも繰り出す。

白石透の細い足では、そこまで威力はないものの、相手の鼻をあかせたのは事実だ。体格差が倍以上あるため、私の攻撃を受けるには、低くかがむ必要がある。その体勢が、エネルギーを消耗させているのだろう。金髪男子の息も少しずつ切れ始めた。

数分の間、ジャブやキックをミットで受け止めるという攻防が繰り広げられた。

十分に発散できたところで、私は動きを止めた。

「ひょろっちい奴で、ごめんなさいね」

肩で息をしながらも、私はふんと鼻を鳴らした。

漫画の登場人物に馬鹿にされるのは百歩譲っていいとする。そういう設定なのだからと、自分に言い聞かせることは出来る。しかし、本編にも出てこないサブキャラに、出会って早々見下されるのは腹の虫が収まらない。

「お前、可愛くねえな!」

少しばかし私の勢いに気圧されたのが悔しいのか、金髪の男が叫んだ。

私も負け時と言い返す。

「私は可愛いに決まってるでしょ!」

(可愛いはるーちゃんの特権なのよ!るーちゃんの見た目なら、何もしても可愛い!)

心の中でそう叫ぶ。

傍から見たら、相当なナルシストがだがそんなことはお構いなしに私は腕を組んだ。

「あなたに、見た目のことを言われたくない」

「その性格を直さないと、一生男出来ねえぞ!」

私の体がわなわなと震えた。

初対面の、しかも10歳ほども離れているガキに、そんなことを言われる日が来るとは思わなかった。

「あんたに言われる筋合いはない!」

食ってかかりそうな私と金髪男子との間を、事務室から戻って来た男性が止めに入った。

「うんうん。そこまでにしようか」

そしてまた私に、ペットボトルの水を渡してくれた。

「また、相当一人で溜め込んでいるようだね」

頭をぽんぽんと撫でながら優しい口調で幸田は言った。

「辛いならいつでも来ていいんだよ」

その瞬間、心の底に隠していた思いがどんどんと溢れ、決壊した。

涙が止まらなかった。

この世界に迷い込んで、初めて私は心の底から大泣きした。

トレーニング中の選手たちが、何事かとこちらの様子を見ている。それを気遣ってか、拓也が昼寝している事務室に連れて行ってくれた。

「あの時もただならぬ感じだったけど」

何度目か分からないティッシュを差し出しながら幸田は言った。

「こんな小さい体に色々背負っているんだね」

何も知らないはずなのに、全てを見透かされているようだと思った。

知らない世界で、白石透として生きて行く。ただひたすら、るーちゃんの為を思って行動してきた。それが正解かも分からず、ただ闇雲に。そしてがむしゃらに。

そのおかげで、学年3位の成績は取れたし、体育祭でも皆の度肝を抜いた。

「でも、もう伊坂さんもいないし、天城には舐められるし」

ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、幼い子供のように私はひたすら泣いた。

「学校も嫌いだし、母親もモンスターだし。ただ、妹は可愛い…」

私の言っていることが意味不明にもかかわらず、男性はうんうんと頷いて聞いてくれる。

それだけで、心が軽くなった気がした。

「落ち着いたみたいだね」

数十分後、ティッシュの箱をテーブルに戻し、幸田が言った。

「…はい」

私はゆっくり頷いた。

気持ちが落ち着き、冷静になって来ると、だんだんと羞恥心が襲って来た。

「す、すみません…」

突然、顔が上げられなくなる。

(何やってんだ。26歳にもなって大泣きとか)

「また、お見苦しいところを」

「気持ちをため込むのは良くないよ。僕も見て来たから。君に似た子を」

「え?」

幸田はドアの方に向いて声を掛けた。

「入って来なよ。かっくん」

かっくんと呼ばれた先ほどの金髪男子が、ばつの悪そうな顔をして入って来た。

「ほら、何か言いたいことがあるんでしょ?」

男子は、静かに私の前に座った。

紫色のカラコンに、いくつもついた刺々しいピアス。そして目が覚めるようなド派手な金髪。反抗心の塊のような姿を見ると、こんなまだ幼い子供の挑発にムキになった自分が恥ずかしくなってきた。

「私こそ、すみませんでした」

先に私が頭を下げた。

それに驚いたのか、金髪男子は焦ったように目を見開いた。しかしそれも一瞬だった。

「こんな子供に、ムキになってしまった私が悪いです」

「こ、子供って。お前も、お前だってまだ…」

金髪男の声が震えた。

「私が大人げなかったです」

「コウちゃん!俺、やっぱりコイツ嫌い!!」

男の大きな声が部屋に響いた。


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