ハンムラビ法典
「はあ・・・」
転生一日目にして、すでに周りは敵だらけ。
私は頭を抱えた。
寝起きに食らった母親の恨み全開の平手打ちに、心の底では憎しみが渦巻いているのに親しげに寄ってくる、藤堂茜。そして、激しい嫌悪を隠しきれていない婚約者の天城。
透の辛さが身にしみて分かったが、これがこれから3年間続くと思うと泣きたくなる。
(一人で良く頑張ったよ、るーちゃん)
私は華奢な体を抱えるように撫でた。
結局一人で頑張れることは出来ず、全てに耐えられずこの世界から消えることを選んでしまった白石透。ただの物語の中の話だとは言え、考えるだけで胸が痛む。
(…それにしても、さっきのは何だったんだろう?)
1限目の始業のチャイムが鳴り、教科書を開きながら私は悶々と考えていた。
頭がぴりっとした瞬間、これから起こる出来事が頭の中に流れ込んできた。まるで、このまま話を変えずに、進ませるかのように。
(ストーリーは変えられないってこと?)
そう思ってから、いやいやと私は首を振った。
(本家のルートのままは絶対に嫌だ。るーちゃんが報われない)
私は持っていたペンを強く握った。
(るーちゃんが幸せになるルートを探すのが、私の使命なんだ。そうなると、まずやるべきことは・・・)
目の前のノートに考えをまとめていく。
全ての話を細かく覚えている訳ではないため、今後どういう風にストーリーが展開していくのかは、穴だらけだ。ただ、最後に裏切る人たちだけは色濃く記憶に残っている。
(まずは身近な人から攻めていくか)
今からでも修正出来そうな人物を頭に思い描く。
(母と婚約者はもう手遅れだ。今から行動しても、事態を悪化させるだけだろう。この二人は、極力関わらないようにするしかない)
それから今朝のことを思い出した。
(藤堂茜に関しても、あの態度からしたらもう時間の問題だろう。それならば残るは一人…)
私はノートに書かれた「妹」と言う文字を見つめた。
(妹さえ味方に出来れば、最悪な状態は免れるかもしれない)
目標が出来た瞬間、さっきまで冷えていた心がスッと軽くなった気がした。
ふっと軽く息を吐き、前を向く。
数学の教師が黒板に書き連ねていく数字の羅列を見つめた。
(…授業か。何年振りだろう)
笑い声がして窓の外に目を向けると、数人の生徒が談笑しながら歩いているのが見えた。
(青春だな~)
穏やかな風が教室内に入って来ると、柔らかい栗毛の髪を弄んだ。
(高校生、かぁ。私も高校の時、青春したっけな~)
懐かしい思い出を反芻するように、私は目を閉じた。
ーおい、巨人女!そこどけ、通れないだろ。
廊下で友達と話しているだけで、そんな罵声を浴びせられたっけな・・・。
ーよお、マイケル・ジョーダン。バスケしようぜ!
休み時間のたびにバスケに誘われたけど、マイケルって今考えると悪口だよな。
ー大丈夫っすよ、先生。ハルクは重いもの自分で持てますから!
ハルクって。年頃の女子に向かって、ハルクって。
「・・・ふ」
口から空気が漏れた。
(いい思い出がないじゃないか、畜生!!あれが、青春なのか!)
思わず机に突っ伏して、拳で軽く机を叩いた。
「…白石。おい、白石透」
自分が呼ばれていると気がつくのに、しばらく時間がかかった。
「・・・え?」
「俺の授業中に寝るとは、余裕だな。この問題解いてみろ」
先生はカツカツとチョークで問題を指している。
「因数分解だ」
(おおう、聞いたことがある・・・!高校の時にやった気がする!やった気がするが、全く覚えていない!)
顔は平静を装いながらも、心の中で大パニックを起こしていると、先生は大きなため息をついた。
「白石、あとで職員室に来なさい」
「・・・はい」
クラスのどこからかクスクスと笑う声がする。
声の主を探そうと見渡すと、一人の女子生徒と目が合った。長い髪を後ろで束ね、光を浴びて輝く高級ブランドのピアスをしている。彼女は口角を上げ、小馬鹿にしたように笑っている。
(どこかで見たことあるんだけどな・・・。誰だっけ?)
「他に分かる奴いるか?」
その女子生徒が手を上げ、颯爽と黒板に回答を書き連ねていく。
「正解だ。よく分かったな」
先生は嬉しそうに黒板に大きく丸を書いた。
「こんな問題も出来ない人がクラスにいるんですか?」
彼女が全員に聞こえるように言うと、近くの女子たちもつられてクスクスと笑った。
「得意不得意は、人それぞれだからな」
先生はその場の空気が読めないようだ。
「しかし、白石。お前はもう少し頑張れ」
名指しで注意され、私はうなだれた。
(ごめん、るーちゃん。高校の授業を甘くみてたよ…)
一生懸命とは言わないまでも、高校生時代、授業は真面目に受けていたし、テスト勉強もしていた。平均点以下は取ったことがないのに・・・。
(なのに、全然覚えていない・・・!)
3限目の化学の授業が終了した頃には、既にエネルギーは枯渇していた。
しかし、元々勉強が出来ないという設定のため為、それ知らない数学の新任教師以外は、授業中に白石透を指すことは避けているようだった。頭の良い生徒を当てては、正答に喜んでいた。
「あら、体調でも悪いの?」
休憩時間。机に突っ伏して反省中の私のところに、あのブランドピアスの女子がやってきた。
私は顔をあげ、彼女の顔をじっと見つめた。
まだ幼い雰囲気は残っているものの、薄化粧をした瞳は吊り上がり、強気な性格が見える。
その瞳が意地悪そうにすっと薄められた。
「またお得意の保健室かしら?」
(・・・この子。本気で名前が思い出せん)
「私は元気ですわ」
にっこりと笑顔を見せる。
「どうぞ、お構いなく」
「そう」
そう言って女子は背中を向けたが、離れる手前で小さく呟いた声が聞こえた。
「早く消えればいいのに・・・」
(あ、思い出した。郡山園子)
名前を思い出せてすっきりしたはずなのに、彼女の吐き捨てるような言葉に、喉元まで熱い塊がこみ上げて来た。
「授業始めるぞ」
先生が到着し、世界史の授業が始まった。
「今日はバビロニアをやる。ハンムラビ法典を知っているやつはいるか?」
私はスッと手を上げた。
「白石?え、白石か?」
先生は驚いたのか、教卓の座席表と私を何度も見比べた。
クラスの大半が私を見ている。郡山は前方の席から、馬鹿にしたような視線を投げてくる。
心臓がドキドキとしているのが自分でも分かった。
「ハンムラビ法典は・・・」
私は、郡山の方をまっすぐ見つめた。
(るーちゃんは無抵抗だったかもしれないけど、私は違う)
「目には目を、歯には歯を」
それから笑顔で言った。
「復讐法ですわ」
良かったー!
知っている箇所が出て良かったー!ハンムラビありがとう!
私は食堂に向かう道で、胸をなで下ろした。
(郡山には更に敵視されたと思うけど。ま、いっか)
目から火が出るんじゃないかと思う位、憎悪に燃えた瞳が揺らいでいた郡山。それで問題ない。本人に向かって言ったのだから。
「本当、倒さないといけない子が多すぎで困るわ~」
私はそう一人で呟きながら、食堂のドアをくぐった。