アンカー
私は本日二度目の保健室に訪れていた。
「まあ、まあ、まあ」
先生は丁寧に私の手のひらに包帯を巻いてくれている。
「今度は綱引き?」
私は頷いた。
「貴女はお肌弱いんだから」
綱引きの縄を力強く持っただけで、手のひらの皮が剥けてしまった。ひどく痛む訳ではないが、赤く火照ってしまい、どうしても目立ってしまう。
(るーちゃんは細部に渡るまで繊細すぎる…)
「はい、出来た」
先生がそう言い、私は手を握ったり開いたりした。
(これなら、バトンも持てるな)
「…もしかして、まだ出る気?」
何かを察した先生が、私をじっと見つめた。
「ええ。まだリレーが」
ふうとため息を吐くと、先生は私の肩に手をかけた。
「無理は禁物よ。いきなり別人になんてなれないのだから」
(なっちゃいましたけどね、私は)
「ありがとうございました」
私はお礼を言い、立ちあがった。
「最後はリレーか。きっと保健室に来ることになるわね。待機しているわ」
初等部の頃を覚えているのか、先生は半ば呆れた様子で言った。
しかし、私は先生の期待を思い切り裏切ることになる。
体育祭、最後の種目であるクラス対抗リレーは、一番の盛り上がりを見せた。全校生徒がグラウンドに集まり、笛を吹いたり、応援用バットを叩いたりしながら、自分のクラスを全力で応援している。今のところA組が優勝候補であり、次にC組、そしてB組、D組と意外と点数的にも接戦を繰り広げている。
目玉なのは、アンカーを走る天城と、初等部生の頃からビリを外さない白石がいることだろう。運動音痴で、足が遅いことを良く知っている郡山が私をアンカーにしたということは、勝ちを狙いにいくより、全校生徒の前で恥をかかせたい気持ちが勝っているのだろう。そして、藤堂茜やその他の生徒までもそれを期待している。
(るーちゃんの体で短距離行けるかな)
準備運動をしながら私は悶々と考える。
正直言うと、長距離のランニングには慣れているものの、短距離の練習はしたことがなかった。早く走る方法は覚えている。ただ一つ問題なのは、白石透の体がそれについていけるかどうか、だ。
(心臓的にも問題ないから、大丈夫だとは思うけど)
一人そんなことを考えていたので、声を掛けられているのに気がつかなかった。
「おい」
肩を掴まれ、私は我に返った。
「あ、ごめんな…」
ここまで言いかけてやめた。
眉間にしわを寄せた天城が立っていた。その視線がちらりと私の腕や手の包帯に移る。
「ぼーっとしていると怪我する」
「え、ええ。忠告ありがとう」
いきなりそんな事を言われ、どう反応したらよいか戸惑っていると、金色の輪っかの飾りが付いた髪ゴムを渡された。
「結べ。見ていて暑苦しい」
確かに白石透特有のふわふわとした栗毛が、今や、湿気と汗によってさらに膨らんでいる。
(髪が気になるの?今?なぜ?)
疑問符が脳内に溢れ返るが、大人しくそれを受け取り、適当にポニーテールを結んだ。
確かにこちらの方が走りやすい気もする。
「アンカーか」
ちらりと私のタスキを見て、天城がそう呟いた。
「ええ。勝手に決められていましたので」
いつもと同じ無表情に冷たい口調なのに、なぜこんなにも話かけてくるのか。
今の天城には、違和感しか覚えない。
(さっき、お互いに嫌い宣言しなかったっけ?)
そう思いながらも、同じクラスの4人目がコーナーを曲がったのを目で追った。相変わらずA組が先頭を走っており、次にD組、そしてC組とB組が同等くらいだ。
会場は盛り上がっており、天城の出番が近づいて来ると女子の声援も甲高く響く。
「凄い声援ね」
そのコメントには一切反応せず、天城は私を一瞥するとトラックに出た。A組が先頭で、少し差はあるがD組が追い上げようとしている。その後ろに僅差でB組。そして最後に遅れを取っているのが、自分のクラスのC組だった。
天城にバトンが渡り、割れんばかりの拍手喝采で会場がさらに沸いた。
「白石さん!」
最後に到着したクラスメートがフラフラになりながら、私にバトンを渡した。
そこから、私の中の何かが弾けた。まるで、突然水を得た魚のように、生き生きと踊るように全身が血を駆け巡る。頬が風を切っていくのが分かる。足に羽が付いたかのように軽い。
(足が軽いというより、体が軽いんだ…)
脳のどこかで冷静に考えている私がいる。
いつの間にか目の前にいたB組を追い越し、その先のD組も夢中になって追い越していた。
天城の背中が近づいて来る。
ちらりと天城がこちらを見た気がした。
ゴールまであと少し。あと少しで、抜ける…!
アナウンスの声がグラウンドに響いた。
「ゴ、ゴール!なんと、なんと、なんと!!最後にどんでん返し!優勝はC組だー!」
会場が一瞬静まり返り、それから耳の奥にワーンと響くような歓声が渦巻いた。
はあはあと全身で呼吸をする。
喉が焼け付くように熱い。しかし、それよりも胸の何か熱いものがあふれ出しそうだった。
「て、天城ー!」
私は叫びながら、天城の胸倉を掴もうとしたが、応援団や女子生徒たちに取り囲まれ、その波に飲み込まれた天城に近づくことも出来なかった。
「ふざけるな!」
私の叫び声は周りの歓声に飲み込まれて、誰の耳にも届かなかった。
閉会式の時間には、天候はどんどん怪しくなり小雨まで振り出していたが、生徒たちの興奮は冷めていないようだった。初等部時代には、かけっこがあると毎回泣きながらゴールをするという別の意味で有名だった白石透が、リレーで3人抜きをしたのだ。
通りすがりの人に、嘲笑と共に何度も背中を叩かれ、私はそろそろ堪忍袋の緒が切れそうだった。
(…ただでさえ、怒りが収まらないと言うのに!)
閉会式が終わり、どこもかしこも着替えを済ませて帰る生徒で溢れかえっている。
私はリレーが終わった辺りから、伊坂の姿が見えないことがずっと気にかかっていた。
リレーで優勝したと知ったら、絶対笑顔で駆けてくるだろうと思っていたが、どこにも見当たらない。
帰る人の波に逆らいながら、空いている教室を探してみるが、見つからなかった。
全ての教室を探し終え、外に出ると突風が吹きつけた。
空は暗く、遠くの方からゴロゴロと雷の音が聞こえてくる。嵐が近づいているから早めの帰宅を、と何度も同じアナウンスが流れていた。既にほとんどの生徒は帰宅したのか、いつの間にか人一人いなくなっていた。
体育館の方へ向かおうとすると、背負っていたリュックと掴まれた。
「どこへ行く」
振り向くと、ジャージから着替えた制服姿の天城が立っていた。
「嵐が来てる」
(天城!)
ここで会ったが100年目と、先ほどの怒りがまた沸々と沸いてきた。
「さっき手を抜いたでしょ」
「何の話」
「リレーの話よ!」
リュックを掴んでいる手をばっと振りほどき、私は天城を睨みつけた。
自分でも分かっている。見上げているこの体勢では威力がさほどないことに。
(これが178センチの時は迫力があったのに…!)
「最後にスピード緩めて、私に優勝を譲ったでしょ」
天城は無表情のまま私を見つめている。
「こっちは本気で勝負していたというのに、本当、馬鹿にしてくれるのね」
「俺は…」
しかし、私と彼の声が重なった。
「あ!伊坂さん…」
そこまで言いかけて、私は口をつぐんだ。
伊坂は一人ではなかった。
天城を校舎の陰に引っ張り、そこから体育館の裏から出て来た、明らかに怪しい様子の二人を見つめた。
伊坂が話している相手は、黒いパーカーのフードを深くかぶっているため、顔が見えない。
相当深刻そうな話をしているのか、伊坂の顔が不安そうに歪んでいる。しかし、ひきりなしに頭を上下に動かし、相づちを打っているのが見えた。
「友達か?」
頭上から天城の声が降って来た。
「一人はね」
声をかけにくい雰囲気のこの状況に迷っている間、二人は一緒にさっと姿を消した。
(…伊坂さんに他に友人がいた?)
彼女に自分が知らない友人がいてもおかしくない。しかし、学校にいる最中は、私と四六時中一緒にいたし、あの様子はただならぬ感じだった。
(あとで連絡してみよう)
この何か嫌な予感がした時に、すぐさま声を掛ければよかったと、私は後悔することになる。
バリバリと雷の音が響き、大粒の雨が降り出した。
「そろそろ危険だな。行くぞ」
天城が腕を引っ張って私を立たせると、そのまま門へと走った。
帰宅してすぐ伊坂に連絡を取ろうとしたが、地域一帯が停電となり、電気の復旧に時間がかかった。
そして復旧した頃には、私は深い眠りについていた。
体育祭から一週間が経ち、停電の復旧作業も終わった頃、学校が再開となった。
「既読がつかない…」
窓際の席に着き、私はスマホを見つめていた。
停電後、スマホが使えるようになってからすぐに伊坂に連絡したが、1週間経った今でも既読すらつかない。
学校へ来れば会えると思い、早めに登校したが、伊坂はまだ姿を見せない。
(バイトが忙しいのかな)
ブランド品を買うために、夜までバイトしている伊坂は、時々時間ぎりぎりに登校することもあったが、遅刻することはおろか欠席することは一度もなかった。
―体育祭の後話したいことがある。
そう不安げに言っていた伊坂の表情が忘れられない。
心配で喉元まで大きな塊が込み上げて来る。
始業のベルが鳴り、担任の田中が入って来ても、伊坂はやって来なかった。
「皆、席に着け。ホームルーム始めるぞ」
教卓に手をつき、先生は教室全体を見渡した。
「突然だが、伊坂が転校することになった」
「え?」
驚いたのは私一人ではないようだった。
「転学の手続きは少し前からしていたが、本人がどうしても体育祭に参加したいと希望していた為、このタイミングとなった。理由は、父親の転勤によるものだ」
「学年トップがいなくなったのね」
私の方をちらりと見ながら、郡山が顔を歪めて笑った。
「誰かさんも、トップ3から落ちるかしら」
かっと頭に血が上ったが、奥歯を食いしばって耐える。
冷静さを取り戻した頭が少しずつ回転を始める。
(伊坂さんが話したかったことって、このこと?)
しかし、何かがおかしい。
私は再度スマホを確認した。
既読がつかないメッセージ。突然の転勤。
(父親の転勤だったら、言ってくれたはず)
隠し事があまりなく、何でも裏表なく話してくれる伊坂が、ただの父親の転勤だって言えない訳がない。
それに、と私は考えた。
(伊坂家は、真徳高校に入れたことを誇りに思っていた。弟も入れたいと言ってくらいだから。だからこそ父親の転勤だけで、諦めるとは思えない)
「もしかして…」
体育館から出て来た伊坂とフードを被った人物。
(あの人が伊坂さんの突然の転校と何か関係が…?)
伊坂と連絡が取れない今、調べる方法はただ一つしか残っていなかった。
金曜日の夜。
妹が帰宅するとすぐに自室に引っ張って来た。
夜遅く帰宅して疲れているとは思ったが、相談する相手は妹しかいなかった。
「見つけたわ」
まどかのパソコンを見つめながら言った。
学校の監視カメラに侵入してもらい、体育祭当日の伊坂の行動を追いかけてもらった。特に午後2時以降、ちょうどリレーが始まる時間だ。
「これ、伊坂さんでしょ」
私はまどかの横に座り、妹が指したところを見た。
「やっぱり、この時も誰かと一緒にいる」
しかし死角に入っているせいか、伊坂の姿は見えても相手は見えない。
「誰かと話しているみたいだけど」
まどかがキーボードを操作し、時間を早送りする。
誰にも見つからないようにするためか、二人は何度か場所を移動して話しているようだった。
「一体、誰?」
黒いフードを深くかぶっているせいで、顔が全く見えないどころか、男女の性別すら見分けがつかない。
「真徳高校の関係者であることは間違いないわね」
まどかが、何度かシーンを切り替え慎重に観察しながら言った。
「顔が映らない角度をよく知っているもの」
「学校の監視カメラの位置を熟知している人物ってこと?」
妹は頷いた。それから私の方を見た。
「でも、カメラが入ったのは最近のことよ。お姉さまが居残りをさせられた前辺り」
「ということは、再試験時に私を監視させるように言った人物?その時にカメラの位置を確認したという事?」
まどかの丸い瞳を見つめた。
「お姉さまにもう一度試験を受けさせるように学校に掛け合った人物の可能性もあるわ」
「その人がなぜ、伊坂さんに接触を…」
私は画面から目を離し、未だ既読が付かないスマホを見つめた。
「調べてみたけど」
妹は別のウィンドウを開き、何やら沢山文字の書かれている画面を開いた。
「伊坂さんのその後を追ってみたの」
「え?」
私は顔を上げた。
妹が何か怖いことを言っている。
「追うって…」
「伊坂さんって、益田駅近くに住んでいたわよね。その周辺の伊坂という苗字で、家族構成を父母姉弟に絞って、どこへ引っ越したのか、その後を追えるかなと思っていたのだけど」
妹は諦めた様子で肩をすくめた。
「無理だった。まだまだ私じゃ能力不足だったわ」
「いやいや、怖いわ!そこまでしなくても…」
私の突っ込みなど、まどかの耳には入っていない。
「伊坂さんのスマホの電源が入っているなら、何とかなるのだけど」
しかし私の方を見て、ため息を吐いた。
「メッセージに反応がないのなら、電源を切っている可能性は高いわね」
まるでスパイ映画のようなことを言っている妹に、どのように返したらいいか分からない。とりあえず、危険なことはしないで、としか言えなかった。
「こうなると、お姉さまの記憶頼りになるのだけど。覚えていないのよね」
私は頷いた。
「残念だけど、伊坂さんが高1の時にいたかは全く思い出せない。元々描かれていなかったということもあり得るし」
「それか、原作に登場していたけど、何か歪みが生じて退場させられた可能性もあるわね」
(確かに…)
妹の言葉を頭の中で反芻する。
今、私がやっていることは本家のストーリーのまま進めないこと。そうなると、それぞれの登場人物の動きが代わり、途中で退場することも出てくるはず。
もしそうなら、自分のせいなのか…。
そんなことを考えていると、まどかがパソコンを閉じ私の方を向いた。
「お姉さまは大丈夫?唯一の味方がいなくなったのよ」
ずしんと一気に心臓が重くなった気がした。
ずっと一緒にいてくれた伊坂が、いなくなってしまった穴はかなり大きい。
「平気じゃないけど、大丈夫。心強い妹という味方が、ここにいるから」
隣で座っているまだ小さいまどかを抱きしめた。
「頼ってくれて嬉しかったわ」
腕の中で、妹が言った。
孤独な学校生活が始まると思うと、気が滅入る。伊坂の存在は、思った以上に私にとって心の支えとなっていた。
「何か分かったらすぐ報告するわ」
そう言ってくれる妹の言葉に、今はかなり救われた。




