タコパ
「お邪魔しまーす」
ある日の午後、遠慮がちに伊坂が玄関口で言った。
「誰もいないわ」
私は伊坂を手招きする。
今日からしばらくの間、伊坂はこの家で寝泊まりをしながら勉強を教えるという合宿を行う予定だ。両手に持った大きな荷物を置き、辺りをキョロキョロと見渡している伊坂に、私はキッチンから声をかけた。
「何か飲む?水と、ハーブティーとオレンジジュースがあるわ」
「オレンジジュースでお願いします」
私は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、氷と共にグラスに注ぐ。
「大きい家だね~。本当に誰もいないの?」
「家政婦さんが来るくらいね。今は夏休みを取っているから、しばらくは私たちしかいないわ」
ダイニングテーブルに付き、伊坂の様子を見る。
金持ちの世界に大きな憧れを頂いている伊坂は、どこか羨ましそうに飾ってある絵画や置物を眺めている。
「あ、そうだ!」
一通り見終わり満足したのか、伊坂がテーブルについた。
「ねえ、明日のパーティーって、本当に私も行っていいの?」
「ええ。もう伝えてあるわ」
母親に水を浴びせられた一件のあと、わざわざ蓮見に電話し、行く旨を伝えたのだ。その際に、友人も一人連れて行っていいか、聞いていた。
「嬉しい!プールサイドのパーティーってどういうものなのか、気になってたの。ただ、着ていく服がなくて・・・」
自分の格好を見ながら、どこか気まずそうにしている。
伊坂のファッションは至ってシンプルなものだ。
シンプルとお手頃価格で有名なブランドの肩を出した白のトップスに、デニム生地の短パンを履いている。生前の私も同じようなシンプルな服装だったので、全く気にならないが、金持ちのパーティーに参加するとなると不安になる気持ちも分からないでもない。
「私の服で良ければ貸すわ」
そう言い、自室にあるクローゼットへ伊坂を案内した。
「うわぁ・・・」
クローゼットに入った瞬間、伊坂は感嘆の声をもらした。
四方に囲まれたクローゼットには、トップス、スカート、ワンピースとラックに服が揃えられている。色や長さ別に分けられている並べ方は、几帳面な家政婦、芦屋の趣味なのだろう。高級ブランドのバッグもまた、売り物のように洋服ラックの上の棚にずらりと美しく並んでいる。
「どれ選んでもいいの?」
おもちゃ売り場に来た子供のように目を輝かせている伊坂が、興奮を隠しきれない様子で聞いた。
「お好きなものをどうぞ」
「え~どうしよう!どれも可愛い!」
きっと選ぶのに時間がかかるだろうと踏んだ私は、その場からそっと離れた。
そして約1時間後。宝探しから帰還した伊坂と共に、本来の目的である勉強がスタートした。
「まずは、課題からやろう」
伊坂が言った。
「課題も成績になる上に、その中から問題が出されることもある。そこを終わらせてから、つまずいたところを徹底的に復習するのは、どう?」
「先生に従います」
シャーペンを握りしめ、私は言った。
そしてそこからまどかが夏期講習から帰宅する夕方の7時まで、黙々と時間が過ぎた。
伊坂の集中力も凄まじく、私がつまずくまでは一切会話をしなかった。
その真剣な空気感までもが、なぜか心地よかった。
「終わった・・・」
一人では終わらせるのは無理だと思った数学の課題も、伊坂が隣にいればあっと言う間に出来た気がする。実質5時間はかかっていたが。
「明日は、現代文と古典をやろう。時間があれば、地理も終わらせたいね」
自作のスケジュール表を眺めながら伊坂が言った。
伊坂の計画通り進めば、夏休みの前半には全ての課題が終わり、そして後半は来期に向けての準備と前期の総復習が出来る。
私にとっては、願ってもいない計画なのだが。
「ごめんね」
突然の謝罪に伊坂は、驚いたように顔を上げた。
「どうしたの?」
「伊坂さんの貴重な夏休みをほぼ私の勉強に費やしてしまうのが、心苦しいなと思って」
伊坂は首をぶんぶんと振った。
「私の方こそ!だって、パーティーに行けるのも白石さんのおかげだもん。高いドレスやアクセサリーだって貰ってるし、服も貸してくれるし。私の方こそ、こんな夏休みの期間だけで済ませて、ごめんなさいだよ」
本心から言ってくれているのが伝わってくる。
「そう言ってもらえて嬉しいわ」
私は笑顔で言った。
そして、この伊坂の合宿のおかげで私はめきめきと学力を伸ばすことになるが、この時の私はまだそんな未来を知らない。
ドアがコンコンとノックされ、遠慮がちに妹が顔を出した。
「ご飯にしません?」
「ええ、そうしましょう」
私が立ち上がると、伊坂もそれに倣った。
「たこ焼き・・・?」
伊坂が呆気にとられた様子で聞いた。
きっとお金持ちのディナーだから、相当のものが出てくると予想していたに違いない。
「ええ。まどかのリクエストなの。ごめんなさい、もし他に…」
「言ってくれれば!たこ焼き器持っていたのに!」
意外と乗り気だった伊坂は、腕をまくった。
「焼くのは私に任せて!」
「お願いするわ」
私もたこ焼きを焼くのは大得意だったが、白石透はたこ焼きを焼くキャラではない。ここは伊坂の腕を信じることにした。
まどかは興味津々で、目の前で丸い玉がコロンコロンと出来上がるのを凝視していた。
「どうぞ」
出来上がったものを3つほどお皿に乗せ、最後にかつおぶしとマヨネーズやソースをまぶし、伊坂が妹の前に差し出した。
「い、いただきますわ・・・」
憧れのたこ焼きを前にして、妹は声を震わせている。
「熱いから気をつけて」
私がそう言ったのと同時に、まどかは一個まるごと口に入れた。
「・・・あっつ!」
誰もが経験するたこ焼きの洗礼を受けはしたが、妹は満足そうだ。水で口内を冷やし、飲み込むと妹は一言「これがたこ焼きなのね」と恍惚の表情で呟いた。
「どんどん焼くからね」
伊坂が嬉しそうに言った。
全員が満足するほど味わったところでたこ焼きパーティーは終了し、平松が気を利かせて買って来たフルーツタルトを食べていると、伊坂がまどかの顔をじっと見つめながら言った。
「白石家は、妹ちゃんも格別に可愛いね」
「どうしたの?急に」と私。
「私、白石さん級の可愛い子に会ったことがないから。妹ちゃんもそっくりで、二人ともお人形さんみたいだなって」
私は心の中で大いに同意していた。
(るーちゃんの顔は本当に国宝級の可愛さなのよ!)
「それから、静かで上品なところとか、似ているよね」
伊坂が発したその言葉を聞いて、私とまどかは思わず顔を見合わせた。
婚約者の名前を叫びながら暴れ狂う姉に、姉のベッドにダイブしてジタバタする妹。これはお世辞にもお上品とは言えないが、本性を隠して生きているという部分については・・・。
「確かに似てるわね。私たちは」
「そうですわね、お姉さま」
お互いににやりと笑う。
そんな様子に全く気がつかない伊坂は「私ももっとご令嬢みたいになりたい」と、呟いていた。
「あら、もうこんな時間ね」
時計の針が10時を指し、私は言った。
「そろそろお開きにしましょうか。明日も朝から夏期講習よね」
「はい。お姉さまたちも、プールパーティー楽しんでください」
猫を被ったおしとやかなまどかはお辞儀し、その場を離れた。
「出来た妹ちゃんだね。うちの弟とは全く違う」
「伊坂さん、弟がいるの?」
食事の後片付けをしながら、私は聞き返した。
「うん。今小4だから、まどかちゃんと同い年くらいかな。ずっと遊んでて勉強なんか全く出来ないよ。この前もママに怒られてた」
まどかと伊坂の弟、どちらが幸せかを考えるのは止めにした。
「親としては、弟にも真徳高校に入って欲しいみたい。私のことがよく近所の話題に上るんだって。入試で上位に入れば、奨学金も貰えるからパパの負担も減るしね。まあ、期待は出来ないけど」
伊坂は話し続けている。
「パパはサラリーマンなんだけど、ずっと平社員でお給料も高くないんだって。だから、私もあまりお小遣い上げて欲しいとは言えなくて、バイトしてるんだ」
(ああ、それで・・・)
食洗機に食器を並べながら私は思った。
「生活が苦しい訳じゃないけど、やっぱり欲しいものが買えないのは嫌だから」
「なんのバイトをしてるの?」
「駅前の豆カフェって所で働いてるよ。もし良かったら、今度遊びに来て」
「ええ、行かせてもらうわ」




