ファミリーディナー
夕方6時過ぎ。
初登場の父親を目の前に、私は萎縮していた。丈の短いワンピースや、慣れないヒールを履いていること、そして髪の毛に編み込まれたパールが、動く度に視界に入るせいか、ずっと落ち着かない。そんな私とは対照的に、可愛く着飾った妹は、隣で微塵も動じていない。
「では、乾杯しようか」
黒々とした髪をオールバックにし、スプレーで固めた細身の父親は、一目で高級だと分かるスーツをピシッと着こなしている。隙を全く見せないエリートな社長だと想像出来た。
赤ワインの入ったグラスを掲げる父に倣い、母親が見たこともない笑顔を作った。
「そうね」
「皆、お疲れ様」
カチンと軽い音がして、4つのグラスが触れた。
私はすでにカラカラになっている喉をオレンジジュースで潤した。
家族の乾杯を合図としたのか、次々と豪勢な料理が運ばれた。聞いたことのない横文字の料理名が紹介され、次々と自分の前に出される。初めての料理を味わおうにも、父親の視線が深く突き刺さるので、中々飲み込めない。
「相変わらず、食が細いな」
緊張で食事が進まないとは思っていない父は、母の方を向いた。
「透の体調はどうなんだ?」
娘の食事管理を怠っていると思われたくないのか、母は私を見ながら言った。
「最近は問題ないわよね?そうよね、透さん?」
口元には笑顔が広がっているが目は一切笑っていない。
一瞬、期待を裏切ろうかと考えたが、後々面倒なので私は頷いた。
「ええ、問題ないですわ。お父様」
そう言われ、父親の瞳が少し和らいだ。
(…あれ?)
常に不在の父親だったため、漫画にはあまり登場しなかったが、放ったらかしの親ということで、勝手に悪役だと決めつけていた。
でも今の視線は。
(実は娘を愛してるとか?)
「今年の旅行は行けそうだな」
ワインを一口飲み、父親が言った。
(・・・旅行?)
「去年、透は参加出来なかったからな」
一瞬母親の顔がこわばったが、すぐに笑顔を作る。
「今年は、どこへ?」
「パリなんてどうだ?パリに拠点を置いて、近くの国も回れる」
(パリ!お花の都パリ!行きたい!!)
素敵ね、という母親の言葉を遮って、隣でずっと黙っていたまどかが口を開いた。
「私は夏期講習があります・・・」
内心ワクワクしている海外旅行未経験の私とは違い、まどかはあまり乗り気ではないようだ。
「夏期講習か。そんなに大事なのか?」
教育を母親に一任している父は、夏期講習の重要度をはかりかねている。
「別に3週間程度休んだところで、問題ないだろう」
妹を英才教育で育て上げたい母親は言葉を詰まらせた。
「でも、長く休んでしまうと、他の子に遅れを取ってしまいますわ。せっかく今、小学生模試で全国一位を取っていますのに」
「そうか。まどかはもう受験の時期か」
父親は顎をさすった。
(受験までは、もう少し先じゃない・・・?)
横をちらりと見やると、まどかは何も言うなと微かに首を横に振った。
「お父さま、お母さま。残念ですが、今回は私抜きで・・・」
「そうねえ。まどかさんが、そう言うなら」
少し残念そうな母親の言い方に、苛立ちが募った。
「仕方ないな。今回は、透と3人で行こう」
「はい」
まどかが答えた。
幼い妹を一人残して行くのも、3週間も癖のある両親と一緒なのも、心に引っかかるが、なんせ人生初のパリだ。行けるものなら、行ってみたい。
「沢山お土産を買って来るわね」
どこか罪悪感を持ちながらも、私はまどかに言った。
「おお、そうだ。欲しいものがあれば、何でも言いなさい。マカロンでもブランド品でも何でも買ってきてやる。シャンゼリゼ通りにあるブランド店も行くつもりだ」
「マカロン、お願いします」
妹が少し笑顔になって私に言った。
母親の方をちらりと見ると、冷たい視線が返ってきた。
(分かりやすいな。私は連れて行きたくないって顔に書いてある)
デザートのババロアとアイスクリームが運ばれてくる前に、父親は仕事から電話がかかって来たため、先に失礼すると個室を出て行った。
部屋の中がしんと静まり返った。先ほどまで給仕していたウェイターも、デザートまで出し終わり、役目を果たしたためもういない。デザートを食べるスプーンの音だけが響いていた。
(家族の会話ってこんなにないもの・・・?)
自分も早くに家を出た身ではあるが、中学までは食卓を家族で囲って会話はしていた。口数の少ない父親は一人黙って食事していたが。
(そもそも、まどかの成績しか興味ないもんな。しかもその情報も本人じゃないところから仕入れてくる。だから、話すこともないというところか)
―ピピピ!
静寂を破るように母親の携帯が鳴った。
「もしもし?」
表示された名前を見てから一瞬戸惑った様子の母親だったが、すぐに出た。
「ええ。どうかしまして?まあ、そうですの。・・・え?」
始めは問題がないように見えた。しかし、どんどん顔が険しくなっていく様子が目に見えて分かった。鬼の形相になっていく母親の顔を、私もまどかも凝視していた。
「ごめんなさいね。何かの間違いですわ。ええ。こちらから、また連絡させますわね。ごきげんよう」
電話を切ると、ゆっくりと母親は呼吸した。レストランで癇癪を起こさないように自分を抑えているようだ。理性はまだ保とうと努力がこちらまで伝わってくる。
(・・・ああ、また何か来る)
思わず私は喉を鳴らした。
「透さん」
「はい」
テーブルの下で拳を作り、防御の態勢を作る。
「何か私に伝え忘れていることは?」
まどかも何事かとこちらを見つめている。
「・・・特には」
考えても特に何も思い当たらない。
(母親がドバイから帰宅して以来、ずっと大人しくしていたはずだ。まどかと二人きりになってもいないし、料理もしていない。もちろん勝手に買い物もしてないし)
母親が何の答えを求めているのか、全く見当が付かず首を傾げたその時、
パシャッ
隣でまどかがハッと息を呑んだ。
「母親を馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
もはや理性が飛んだ母親は叫んだ、
無駄に時間をかけてセットした、パールの付いた髪から水がしたたり落ちた。
「貴女は、どこまで無能なの?どこまで私の手を煩わせたら気が済むの?本当に救いようのない子ね!」
激怒している人を目の前にすると、逆に冷静になるのは何故だろう。
「何の話でしょうか?」
濡れた顔を拭きもせず、私は怒りで顔を真っ赤にしている母の顔を見た。
「来週の土曜日、蓮見さんのパーティーに誘われたそうね」
(ああ、その話だったのか)
「それが?」
「それを断るなんて、自分をおごるもの大概にしなさい!お友達は大切になさいと言ったでしょう。貴女が出来ることはそれだけじゃない!」
私が黙り、部屋に沈黙が流れた。
母親が静かな声で言った。
「必ず参加なさい。新しい服も買いなさい。みっともない姿で行くのは許しません」
そう言いながらバッグの中から、既に持っているにも関わらず、もう一枚のブラックカードをテーブルの上に置いた。
「現金が必要なら、明日までに用意しておくわ。誰が見ても高価な服を着ていくのよ。いいこと?」
黙ったままでいる私に向かって母親は叫んだ。
「返事は!」
「…はい」
私が答えるまで母親は解放してくれないと思うと、思わず返事をしていた。母親はバッグを乱暴に閉じると、足音を響かせて個室から出て行く。しかしドアを開ける手前で、振り返らずに冷たい声で言った。
「それから、パリ行きは諦めることね」
そして、部屋の中には呆然と青ざめたままのまどかと、頭から水浸しの私が残った。
「お姉様・・・」
そう声をかけた時、ドアの向こうから母親がまどかの名前を呼んだ。
「早くいらっしゃい!」
まどかはしばらく迷った後、「ごめんね」と小さく呟くと部屋を出て行った。
「あの・・・そろそろ帰りませんか?」
後ろで平松が遠慮がちに言った。
「あと10分!」
はあはあと息を切らしながら、私は答えた。
怒りの矛先を全て目の前のサンドバッグに向け、一心不乱にパンチを繰り出す。
個室のレストランを出たあと、私を待っていた平松に近くのボクシングジムを、質問を受け付けずに探させ、ジムに乗り込んだ。使っていない端っこのサンドバッグを貸して欲しいと頼み込み、たまたま今日は人が少なかったこともあり、すぐさま了承を得た。
いきなり見事なドレス姿で登場したフランス人形に、ジムでトレーニングをしていた人たちは何事かと野次馬に来たが、私がひたすらパンチの打ち込みをしているので、そっとしておいてくれた。
さらに数分が経ち、とうとう酸欠になった頃、私は動きを止めた。
「大丈夫?」
フラフラになり、はあはあと肩で息をしていると、ジムのトレーナーが気を遣ってか、ペットボトルの水を渡してくれた。
「あ、ありが・・・うござ・・・ます」
激しい息切れで会話もままならない。
「ゆっくりね」とトレーナー。
私は水を飲み、時間をかけて呼吸を整える。
「だいぶ無心で打ち込んでたね」
「・・・すみません。いきなりお邪魔してしまって」
会話が出来るようになるまで落ち着くと、私は頭を下げた。
勢いでここに来てしまったが、皆の迷惑になっているのではと今更ながら不安になった。透の二倍以上の体格をしているまだ若めのトレーナーは、あはははと笑った。
「基本一般の人は入れてないんだけど、何か、凄いオーラ出てたから思わずOKしちゃったよ」
「すみませんでした。もう帰ります」
平松にお金の支払いをお願いすると、トレーナーは「いいよ」と手を振った。
「いえ。ご迷惑をおかけしたので、受け取って欲しいです。お水も頂きましたし」
そこまでお願いすると、しぶしぶ頷いてくれた。
「また息が詰まったらおいで」
爽やかな笑顔で言ったその言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
それを隠すように私は深くお辞儀をすると、ジムを後にした。
「ちゃんと冷やして下さいね。拳、だいぶ赤くなってます」
車内で平松が静かに言った。
なぜいきなりボクシングなのか、家族との食事会の時に何があったのか、何も聞かないでいてくれることに気づいた。
(・・・平松は、まだ私の味方だ)
私は瞼を閉じ、車の揺れに身を任せた。




