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バイト

私を警戒しているのか、あの日から夏休み前日まで、母親はまどかの周りを終始付きまとっていた。もちろん何かあればすぐ私に怒りをぶつけられるよう、私も方も監視されていた。

「どうするかな~」

平松の運転する車の中で、窓に頭を預ける。

さすがにこう何日もまどかと話せないのは正直辛い。

もちろん、妹が悪に染まる可能性がまだあるという心配もあるが、唯一この世界で「杉崎凛子」の存在を知っている一人なのだ。学校で白石透を演じていても、家では、妹の前では素で居られることに、どこか安心感を持っていた。

「母親対策しないと。監視下では運動も出来ないし…」

はあと思わず大きなため息が出る。

「着きました、お嬢様」

停車と当時に、平松が言った。

車を降りると湿気の多い暑い空気が私を襲った。

じりじりと照りつける太陽の下、蝉の大合唱の中を聞きながら歩いていると、後ろから平松が小走りでやって来た。

「お嬢様!さきほど、奥様から連絡があり、本日旦那様がご帰宅なさるようで、家族で夕食にすると。必ず3時には帰宅するようにと、伝言です」

短い距離を少し走っただけで、汗だくになっている。

(ここに来て父親も登場か。気が重いな・・・)

「分かったわ。ありがとう」

手を振る平松を背中に、私は校舎へと歩き出した。

「一年目の夏休みに、何かイベントはあったっけか」

私は一人、ぼそりと呟いた。

(母親だけでなく父親が登場するとなれば、何かがありそうな予感がするが)

漫画の内容を思い出そうと頭をひねるが、何も思い出せない。そもそも序盤の高校1年生は、自己紹介程度にしか描かれておらず、高2の中盤から高3にかけてが、イベントのオンパレードだった。

(でも呑気に構えていたら、ダメだよな)

そんなことを考えていたので、背後に誰かが近づいていたのに全く気がつかなかった。

前方を歩く生徒たちが、ちらちらとこちらを見て、何か囁いている。

(・・・何事?)

「見て!」

「三人、揃っているわ」

「本当!今日はラッキーな日ですわね」

女子生徒たちの雰囲気からして、何となく誰が背後にいるか想像出来た。

(…なんか、振り向いたらいけない気がする)

私が足を速めようとしたとき、ばっと前に立ちはだかる者がいた。

「白石ちゃん!」

今日も明るいテンションで蓮見が飛び出した。

「ど、どうもごきげんよう・・・」

蓮見から距離を取ろうと一歩下がると、どんと誰かにぶつかった。しかし、ため息だけで誰にぶつかったか、すぐに分かった。

「ごめんあそばせ」

後ろを振り返らずに、軽く会釈をしてさっさと去ろうとするが、蓮見がいきなり肩を組んできた。ずしっと腕一本が重くのし掛かる。

「もう。そんな朝から威嚇しないの、海斗くん!」と楽しそうな蓮見。

(コイツ・・・背負い投げでもしたろか)

本気でそう思ったが、もちろん白石透はそんなことはしない。私は心に手を当て、気持ちを落ち着ける。

「この子が婚約者?」

今度は左から五十嵐が登場した。長い前髪に隠れている瞳が、こちらをちらりと見た気がした。そうそう、と相づちを打つ右側の蓮見に向かって私は笑顔を作った。

「腕、降ろして頂けません?暑苦しいですわ」

蓮見が何か反応する前に、私は彼の腕からするりと逃れた。

「壮真はいつでも暑苦しい」

「こら!何をどさくさに紛れて言ってんだ!」

ぼそりと言った五十嵐に向かって、蓮見が飛びかかる。

(勝手にやってろ・・・)

私は早歩きでその場を離れようとすると、蓮見が腕を掴んだ。

「白石ちゃん!来週の土曜日に、俺んちに皆集めてパーティーやるんだ。白石ちゃんもおいでよ!こいつ、海斗も来るよ」

「おい」

ずっと黙っていた天城が怪訝そうに反応した。私は出来るだけ落ち着いた上品な笑顔を作るよう心がける。

「お誘いは有り難いのですが、急がしいので不参加でお願いしますわ」

では、とお辞儀をしてさっさと校舎の玄関口に向かった。

「朝から疲れたー」

私は机に突っ伏した。

(変なのに絡まれて始まる一日ってなんなの・・・)

「白石さん、ごきげんよう!」

伊坂が元気に声をかけてきた。急いで来たのか、額には汗が光っている。

「ごきげんよう」

すっと姿勢を正し、私は笑顔を作った。

「明日から、夏休みだね。何か予定はあるの?」

私の前の席に座り、伊坂が聞いた。

「特には。伊坂さんは?」

「私は主にバイトかな。夏休みは稼ぎ時だからね!」

嬉しそうに伊坂は言った。

「バイトしたお金で何するの?」

純粋に聞いた問いに対し、伊坂は少し戸惑いを見せた。

「え、えっとね。バッグが欲しくて・・・」

「バッグ?」

伊坂が小声になるので、私も思わず声を小さくする。

「郡山さんが好きなブランドあるでしょ?あのブランドのバッグが欲しくて。今、凄く流行っているみたいだから」

私はちらりと、郡山を見た。

ピアスから時計、バッグから靴まで全身高級ブランド尽くめの郡山は、クラス女子の羨望の眼差しだった。今も取り巻き女子に向かって、髪につけたバレッタがいかに入手困難だったかを説明している。

「あのバッグかしら?」

郡山が机の横にかけているバッグを見ながら、私は聞いた。

(似たようなものがクローゼットにあった気がする・・・)

「あのバッグは無理!」

慌てて伊坂が首を横に振った。

「あの大きさのバッグは絶対無理だけど、小さいサイズが店頭にあって」

ポケットからスマホを取り出し、ブランドのサイトを見せてきた。

「これ。このサイズのバッグなら、頑張れば買えるかなって」

スマホ一台入るサイズの肩掛けのバッグは、一つ23万円だった。高校生が自分でバイトして買うには高すぎる気がする。

「これを買うために今必死でバイトしているの!」

「どうしてこれが欲しいの?」

郡山と同じく、全身ブランド尽くしの私が聞くのもおかしいか、と冷静になる。

しかし、白石透は自分のためと言うより、母親の着せ替え人形のようにブランドを身につけているとしか思えなかった。

「流行だから、かな。あと純粋に可愛い!」

少し考えてから伊坂は笑顔で言った。

皆が持っているものが良く見えてしまう現象は、大学生の時に経験済みだった。ブランド品を持つことは一種のステータスであったが、常に生活費でいっぱいいっぱいだった自分には手の出せない代物だった。だからこそ欲しくて、バイトを掛け持ちしながら必死で貯めたお金で買った割に、いざ持ってみると何も感じず、焦燥感だけが残った。

(どうも自分の学生時代を伊坂さんに重ねてしまう・・・)

「ねえ、伊坂さん・・・」

そう声をかけた時始業のチャイムが鳴り、担任の先生が入って来た。

「みんな、席に着いて。これから、夏休みの宿題一覧表を配るぞ」

田中は一番前の席にそれぞれ紙の束を渡す。

「今回のテストで赤点を取った生徒は来週から補習がある。部活と被って出席が難しいという生徒は、相談しに来い。分かっていると思うが、前期に学習した内容とこの夏休みの課題を全てまとめた試験を、休み明けの9月に行う。この試験は、内申点にかなり影響されるから、夏休みだからと言って気を抜きすぎないように」

回って来た宿題一覧を見て、私は愕然とした。

この学校は、休みの日でも休まず勉強をさせる気なのか。

(夏休みは宿題で終わるな・・・)

その間も先生は夏休みの間の注意事項などを延々と話していたが、私の耳には入って来なかった。


「家庭教師?夏休み中に?」

午前授業が終わり、生徒は解散となった。

まだバイトまで時間がある伊坂を食堂に連れて、私はずっと考えていた話を持ち出した。

「ちゃんとその分は支払うわ。そうね、一日3時間で1万はどう?もちろん忙しい日は1時間でもいいわ。そういう場合もお給料は発生させる」

「え!」

伊坂は目を丸くした。

高校生であれば一日8時間働いてやっと1万円稼げるかくらいだろう。

「悪くない条件だと思うのだけれども」

「むしろ凄く良い条件だよ!でも・・・」

伊坂は食べかけのホットサンドに目を落とした。

「私なんかで・・・」

「どうしても夏休み中に学力を上げたいの」

真剣な声で私は言った。

昨日の母親との会話を思い出していた。

成績なんてどうでもいいと、自分の顔を立てる為に高級なお洋服を見せびらかす人形で良いと、散々長女を見下している母親。

白石透を馬鹿にされたままで、終われるわけがない。

「伊坂さん、前に言ってくれたじゃない?成績を爆上がりさせたいって。夏休み明けのテストで、そうね、上位には食い込みたいわ」

「…じょ、上位に?」

「ええ。それには伊坂さんの協力も必要なの。3時間1万円だけど、もちろん今までのように課題も出して欲しいわ。私もしっかり期待に応えられるように自習もする」

「…やる!」

しばらくの沈黙の後、伊坂が私の手を握った。

「私、精一杯やらせてもらいます!白石さんを上位に食い込ませる!」

「ありがとう」

あまりの勢いに若干気圧されながら私は言った。

「もし、他のバイトが忙しかったら調節するから言ってね。もちろん伊坂さんの生活を優先して欲しいし、空いている時間で構わないわ」

伊坂は、頷いた。

「今日のバイトで、夏休みのシフトが発表されるから、そしたら連絡するね」

「ええ、お願い」

心の中でほっと息をする。

今回のテストで点が上がったのも、伊坂のおかげだ。先生よりも分りやすい解説をしてくれるので、記憶に残りやすい。みっちり夏休み中に勉強が出来れば、もはや白石透を頭の悪い生徒と認識する人は減るだろう。

(なんとしても、負のイメージは早めに摘んでおかなきゃ)

これがきっかけで、白石透も伊坂も大きな渦に飲み込まれることになるが、それはもう少し先の話になる。


話がまとまったところで、帰宅しようと玄関に向かっていたところのことだった。

「あら、白石さん!奇遇ね!」

後ろから可愛い声がしたかと思うと、隣にいた伊坂の体がこわばった。

(出たな、藤堂)

「聞きまして?来週の土曜のこと」

逃がさないためか、藤堂は私の前に立ちはだかった。相変わらず取り巻きが二人、後ろに控えている。

「なんのことでしょう?」

素直に返答をしただけなのに、藤堂は可笑しそうに私の肩を押した。

「またまた~!白石さんったら。パーティーですわよ。蓮見さま主催の」

そういえば今朝そんなことを言っていたな、とぼんやり思い出す。

「もちろん、天城さまも来ますわよね?」

「ええ、そうみたいですね」

今朝の蓮見の言葉が脳内で再生される。

(私には関係ないけど・・・)

「まあ!楽しみですわ!」

藤堂は本当に更に声のトーンを上げて、両手を合わせた。

「プールサイドのパーティーですのよ!水着が必須ですわね」

「あの、私はそろそろ・・・」

伊坂が腕時計を気にしながら、口ごもるように言った。

「あら、貴女!」

藤堂は今、伊坂の存在に気がついたようだ。

「いつぞやは私のパーティーに来てくれて、ありがとう!今回のパーティーもいらっしゃったら?蓮見さまは、誰でも歓迎っておっしゃっていましたわ」

「えっと、私は・・・」

伊坂は困ったように私の方に視線をやる。私は軽く首を振ったが、藤堂が声を張り上げた。

「ああ!今回も白石さんと来るのね!でも、白石さんは天城さまのエスコートで…」

話が終わらないなと思った私は、さっと手で藤堂を制す。

「藤堂さん。申し訳ないですが、私も急いでいるので、これで失礼しますね。伊坂さん、行きましょう」

「あ、うん」

その場に残された藤堂は、唇を噛んだままじっと二人の後ろ姿を見ていた。


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