体育
「あら、遅かったわね」
更衣室に着くと、すでに上下赤いジャージに着替え終わった郡山が私を出迎えた。
私は自分の名前が書かれたロッカーを見つけ、中からジャージを取り出した。
「板書に大変苦労されてみたいだけど」
ロッカーに寄りかかり、郡山は馬鹿にしたように笑う。
「ええ、まあ」
郡山の方を見ないようにしながら、制服を脱いた。
「みんな専任の家庭教師がいるから、貴女のように必死になって学校の勉強に付いていかなくて大丈夫なの」
(ああ、なるほどね)
自分だけが板書していた理由が分かった。
(授業は受けているようで、基本はあまり聞いていない、ということか)
「ねえ、白石さん。どうして、貴女は家庭教師を付けないの?お金はたっぷりあるでしょうに」
悲しそうな表情を繕いながら、郡山は口角を上げて言った。
「もしかして、親に大事にされてないとか?」
どくんと全身の脈が打った。
(…るーちゃんの体が反応した?)
全身が熱くなり、耳の奥まで心臓の音が聞こえる。
(それとも・・・私?)
何か言い返そうと口を開いたとき、授業開始のチャイムが鳴った。
「あら、時間ね。体育、楽しみましょうね」
郡山は笑顔で更衣室を出て行った。
私はしばらくその場から動けなかった。
「私、大学に行く」
そう親に告げたのは高校2年の秋。ずっと考えていたことだが、ずっと隠していくのも無理だと悟った当時16歳。進路指導の先生も、そろそろ親に伝えなさい、と何度も言ってきた。
「何を言ってるんだ!」
身長は2メートルを超え、横幅も一般男性の二倍の体格をした父は、今にでもちゃぶ台を放り投げそうな勢いだった。
「お前は、高校卒業したら俺の仕事を引き継ぐ!」
田舎に生まれ、畑や田んぼに囲まれた生活。まだ薄暗い早朝から畑の世話を始め、市場に野菜を売りに行く。売れ残ったものは近所におすそ分けし、夕飯のおかずになる。そんな毎日を飽きもせず繰り返す両親の後ろ姿を見て、絶対ここから離れると決心した中学生の頃。
農家を継いでくれると思い込んでいた両親に取って、私の言葉は裏切りにもなっただろう。
何も考えていなかった小学生の頃は、高い身長と力持ちのところが父親に似ていると、農家では貴重な存在であると、近所の人に褒められたことも多々あった。
「私はもっと広い世界を見たい!」
そう言った時の親の疑いの目が今でも忘れられない。
今思うと、理解できる。
あの時の私は考えが足りなかったのだ。当時の私は、都会に出れば何でも叶うと信じていた。キラキラした人たちに囲まれて、オシャレな大学生活を楽しむ。そうすれば、まるで私の人生が、皆が羨むような素晴らしいものに変わるのだと。
「農家の娘は、農家の跡取りだ!」
顔を真っ赤にし、口角泡を飛ばしながら父親は叫んだ。
「農業なんてやりたくない!」
「言うことを聞かない娘など、いらん!」
「お、お父さん」
オロオロしながら聞いていた、お母さんが父親を宥めるように腕を掴んだ。
「そんな事言わないで。ほら、凛子も謝って」
「謝らない!」
「離せ」
お母さんを乱暴に振りほどくと、私に背を向けた。
「お前は、もう私の娘ではない!勝手にどこでも行け!」
「行ってやるよ!こんな所、こっちから願いさげだ!」
売り言葉に買い言葉で、その日私は実家から飛び出した。
その後は、幼なじみの家で過ごすようになり、親とも顔を合わせることがなくなった。家へ物を取りに行ったり、ふいに実家の様子を見に行ったりしたが、一度もこちらを見てくれることはなかった。大学の入学費用はなぜか出してくれたが、大学生になってから一生懸命バイトをし、少しずつ借りた金を返済した。時々上京中に辛い時、堪らなくて手紙を書いたが、返信が来ることは一切なかった。自分たちの間に、もう埋めることの出来ない溝が出来てしまったことを悟った。
(ったく、嫌な事を思い出させてくれたな・・・)
体育の先生の前で整列している郡山の後ろ姿を睨み付けた。
早くに親元を離れたからこそ、精神的にも強くなったと自負している。家族との繋がりがなくなってから10年が過ぎた。親と思える人も頼りたい家族もなかった。
(私が死んで、両親は少しでも悲しんでくれたのだろうか)
ぼんやりとそんな事を考えていると、ピーと笛がなった。
「じゃあ、二つのグループに分かれて」
皆が一斉に立ち上がるので、慌ててそれに倣った。何をするのか全く分からず、周りをキョロキョロする。
「まずは男子から始めるわよ。女子は見学してて」
体育教師の真島が口に笛をくわえたまま言った。
とりあえず端の方に寄り、体育館の壁にもたれて座る。
(ああ、ドッチボールね)
目の前で繰り広げられるボールの投げ合いを見ながら、私はふうとため息を吐いた。
中学、高校と、ドッチボールの時には、よく男子のチームに入れられていた。ボールを投げる力が強すぎて怪我すると女子からクレームが来たからだ。しかし、男子のチームでも「鬼神」とあだ名を付けられ嫌悪されていた。
(同じチームになれば歓迎されたけど、敵チームになると途端に嫌われるから、さすがに傷ついたな)
「私、学校生活に良い思い出、なさすぎない…?」
自己嫌悪に陥り、思わず頭を垂れた。
しばらくした後、ピーと笛がなり、先生が言った。
「男子と女子、交代!」
私は顔を上げ、のろのろと体を起こした。
二つグループに分かれ、私は内野に入った。敵のチームには、郡山とその取り巻きがいる。
(何か嫌な予感がする)
その予感は的中した。
(…私、狙われてるな~)
相手チームに取られたボールは全て郡山に回され、なぜか私だけを狙いに来る。
(あ、思い出した)
私は心の中でぽんと手を叩いた。
(郡山って、体育の授業中と称して、るーちゃんに怪我を負わせる姑息な奴だった)
クラスの女子達に比べると郡山は、ダントツ運動神経が良さそうだ。
投げるボールも意外と威力があり、私が避けたことによって当たった女子は痛みに顔をしかめている。そして味方チームが投げたボールは、いとも簡単に郡山に取られる。
(ま、私の敵ではないけど)
得意の体育で調子に乗っていた私は、この時また大事なことを忘れていた。
自分が今、体力・筋力ともにゼロの白石透の体を借りていると言うことを。
「ちょろちょろ逃げるのが得意なのね」
息を弾ませながら郡山が言った。額には大粒の汗が見える。
(あれだけ動き回れば、そりゃ疲れるよな)
一方、郡山が投げたボールを最低限の動きで避けている私は、全く息が上がっていない。
「白石さん、逃げてばかりいないで。攻撃もしてみなさい」
味方内のコートが私だけになったせいか、先生が口に笛を加えたまま言った。
「はいはい」
私は小さく呟き、郡山が投げた直球を体で受け止める。
おお、と味方のチームが言うのが聞こえた。
(さて、鬼神召喚といきますか)
私はにやりと笑い、腕を大きく振りかぶった。
ビキッ…と筋肉が収縮した。その瞬間、ボールの威力が落ちたのが分かった。
すっぽ抜けたボールは、綺麗な弧を描き、ぽとんと敵チームの手の内に落ちた。
(そうだった。私、るーちゃんだった。絶賛筋肉痛中の)
自分が今白石透の体であったと気づいた頃には遅かった。
「パスをありがとう。白石さん!」
誰かが「危ない!」と言った時には、顔面にボールが直撃していた。
「あら、ごめんあそばせ」
郡山の得意げな顔が見えたが、すぐに先生によって遮られた。
「今のは反則!白石さん、大丈・・・」
鼻から生温かいものが、つうっと流れ落ちるのが分かった。
「・・・夫じゃないわね」
これを使ってと、先生に渡されたタオルで鼻を押さえる。
「誰か、白石さんと保健室に行ってくれる人はいる?」
誰も名乗り上げないことを知っていた私は、先生の袖を掴んだ。
「大丈夫です。一人で行けます」
「本当?本当に大丈夫?」
心配そうな色を目に浮かべている先生に向かって頷き、体育館を後にした。




