3-26 善悪の【敵】
宗教の話がこんなに長くなるなんて思わなかったんです。
人の心は弱い。
「あんなやつ! 今すぐぶっ殺してしまえばいいでござるよ! ……あっ」
寺生まれで修行をしていた男でも心に弱さを持っている。もっともアリタカはすでに欲望に飲まれていたみたいだけど。
でもこれではっきりした。やっぱり正義の味方には、正しい正義が必要だ。
別にアリタカの説く教えが間違っているというわけじゃない。彼の教えも間違っていないと思うからこそ、心の弱い間違った正義の存在が目につく。
ならボクは彼の言う悪でいい。正義の味方が気分良く正義の味方をできるように、ボクは持てるすべてを使って悪を為そう。
「アリタカくん。君は悪に救いはないと言ったね」
「……言ったでござる。拙僧にも悪の心はあって、拙僧が善だとは言わないでござる。だけどそれだけは教えだけでなく、拙僧も同じように考えているでござる。そうでなければ、善行を肯定できなくなってしまう。反省の機会も、救いの機会も、合って然るべきでござる。しかし! それは悪行を肯定するという意味ではござらん。より一層の修行と善行の末に、改めて辿る道の先に、あるのでござる」
「その言葉が聞けてよかったよ。悪行は、悪いことだ。それは決して許されない、とてもとても悪いことだ。救いが遠ざかってしまう行為だ。だから、ボクはそんな悪に屈しようとする弱い正義を殺すよ。悪に跪く正義を殺すよ。悪に転ぶ正義を殺すよ。そうすれば、彼らの魂は悪に落ちる前に新しい道に踏み留まれる。そう思わないかい?」
「弱い正義に教えを説くのではなく、殺すことで道を正すと? そんなのは無茶苦茶でござる。殺された者たちはなぜ死んだのかわからないし、残された者たちには少なからず負の感情が生まれてしまう。それでは結局、エル殿のいう正しい正義だけが残るわけではござらん。拙僧も含めて、人は弱い。残された者たちも、家族を失えば正しさを失うかも知れない。エル殿の考えは、機械的でござる。人の心をわかっていない」
またそれか。人の心ね。ボクは未だにそれを掴みきれていない。
「じゃあ逆に聞くけど、アリタカくんは人の心がわかるのかい?」
「……人の心など、本来誰にもわからんのでござる。表面的な欲望をなぞることはできても、本心を読み解くのはとても難しい。医者や精神学者はなにかそれっぽいことを言って、周りがそのとおりと肯定して持ち上げるでござる。しかしあれは一種の思考誘導であり、万人に当てはまるものでもあるのでござる。真に人の心を理解できるものなど、それこそ神にも無理でござる。ましてや自分の心すらわからないのに、他人の心がわかるなんて、拙僧には無理でござるよ」
「なんだ、みんなわからないんじゃないか。それならボクの行いの結果だって……」
「言ったでござろう。思考誘導はできるんでござる。言葉でも、暴力でも、快楽でも、薬物でも、人の心は簡単に揺れ動くんでござる。エル殿がやろうとしているのは正にそれ。殺しなんて以ての外でござるよ。残された者たちは殺されないために、より一層悪に媚び諂おうとするかも知れない。或いは自暴自棄になって、悪に落ちるかも知れない。弱い心の間違った正義も肯定しなければ、エル殿の目指す正しい正義は実現できないんでござる。エル殿が行おうとしているのは恐怖政治でござる。そんなものは成立しないし、仮に行っても長続きしない。それだけは歴史が証明していて、そして滅びるときには、悪が蔓延しているのでござる」
「……難しいなあ」
アリタカの言うことはきっと正しい。
正しいからこそ、ボクの目指すべきものを肯定しない。ボクの目指すものの先をすでに見据えている。その結果だって、たぶんそう間違っていない。
でもボクは正義の味方を助けたいんだ。ならボクには悪役として、なにができるんだろうか。
「……なら、どうやって正義の味方を助けたらいいと思う? ボクは悪役だ。それだけは変えられない。人の心を正しく変えないと正しい正義が実現できないなら、どうすればいいと思う?」
「正しさ、でござるか。それこそが教えの本来の目的なのでござるが、しかし何千年経っても教えで人類を救えていないのもまた事実。或いは今の状況そのものが正しいのやも…… 修行中の見ゆえ、答えを出すのは難しいでござるな」
「君の教えでは修行を完了すると救われてどこかにいっちゃうでしょ。修行中だから答えられないはズルだよ」
「とは言え拙僧も何度も言っているように、わからないものはわからないんでござる。エル殿の言う間違った正義という概念はわかるでござる。それを間引けば正しい正義だけになると思うのも、言い分としてはわかるでござる。しかしその正義を構成するのは人間であり、人間はそもそも不安定なものなのでござる。ゆらゆらと揺れている不安定な集合体の間違っている部分を切ったとしても、それはなくなった部分を補うように崩れるだけなんでござる。正義とは砂山のようなもの。一部を崩せば、ほかも崩れて元通りになってしまうのでござる」
「そうなると、そもそも正義は正しくない?」
「話が行きすぎでござるよ。そもそも善悪なんてものは割り切れないんでござる。例えば、生きるために魚を食べる。これは普通のことでござる。しかし魚からすれば理不尽な死。これは善でござるか? 悪でござるか?」
「…………わからないよ」
「そうでござろう? もちろんこれを悪と捉えて断食を修行とし、死んでいったものもいるでござる。しかしその死に様に恐怖して、すべての教えを拒んだものもいるでござる。拙僧にはその修行が善だったのか悪だったのかが分からぬ。善と悪は表裏一体で、常に入り混じってそこにあるのでござる。かと言って行き過ぎた悪行はもちろんダメでござる」
アリタカと話せば話すほど、ボクの目指すものがわからなくなってくる。
彼は言っていた。人助けも、それが助けられた人にとって、本当に助けになるかはわからない。
修行のために断食をしていると言われても、正義の味方なら命を救うために何かを食べさせるだろう。
それは正義の味方にとっては善行で、修行者にとっては悪行だ。
ボクの悪行だってそうだ。金のために馬車を襲ったら、誘拐されていた王女が中にいた。助けてしまったあれは、彼女にとっては善行に見えたかも知れない。
善と悪は表裏一体。であるなら正しいだけの正義は存在し得ないし、悪いだけの悪も、もしかしたらたまには善になっているのかも知れない。
正義の味方が助けるのはそんな矛盾を抱えた存在で、それでもそれを良しとしているんだろうか。
それはボクにはわからないな。ボクの知っている世界には、正しい正義しか居なかったんだから。
「拙僧には、エル殿がしたいことはわかるでござる。拙僧も昔同じことを考え、だからこそ修行生活を耐えていたんでござる。他人に教えを説き、自分がそれを実践して見せる。そうすればみんなわかってくれるはずだと。しかし現代には救いはいらなかったんでござる。拙僧の教えは、修行は、現代においては溢れ返る娯楽の1つでしかなかった。拙僧の教えは、アニメの原作の1つでしかなかった。そう思い知ったときには、拙僧も現代の娯楽に溺れていたでござる」
「……それで、アリタカくんはどうしたの?」
「どうもしてござらん。現代の快楽に溺れ、それでも罪悪感から簡単な修行だけは続けていたでござる。結局教えは捨てきれなかったんでござるな。まだ話していなかったと思うでござるが、拙僧の死因は交通事故。赤信号で飛び出した子供を助けようとして……」
アリタカは子供を助けることができ、そして死んだ。
「拙僧はそうやって死んだとき、安心したんでござる」
「安心? 子供を助けられから?」
「子供を助けられたと知ったのは死んだあと、転生直後に教えてもらったことでござる。拙僧が安心したのは、教えを疎かにしていた自分にも、まだ人を助けようという心があったことでござる。しかし同時に拙僧はそれに失望したんでござる。本来であれば人を助ける善行は常なること。そんなことに一喜一憂するほどに、心が堕落していたと気づいてしまったんでござる」
彼は結果ではなく、助けようという行為そのものを喜んだ。
助かった子供ではなく、助けようとした自分に対して安心した。
ボクはそれを堕落だとは思わないけど、正しい正義かと問われると答えかねる。
「エル殿。拙僧は色々と偉そうなことを言ってきたでござるが、所詮は他人の受け売り。拙僧の説く教えは、自身でも実践できていない理想だったんでござる。教えは素晴らしいと思うでござるが、そのためだけに生きられるほど人は強くない。個人個人には色々な考えがあって、それが集合したものが正義であり、善悪も一緒でござる。なにが言いたいかと言うと、正義の味方を助けたいなら、正義を変えることを目的にしてはいけないんでござる」
「なら、どうやって助ければいいの?」
「それは拙僧にはわからないでござる。しかし、今目指しているエル殿の活動では達成できない。それだけはわかるでござるよ」
断言されると癪だけど、何度も説明されているし、その言葉には説得力があった。
どうやらまたしても失敗していたらしい。でも今回は実行する前に気がつけてよかったよ。
正義という大枠は流動的で不安定。それを変えるには、もはや人間そのものを別のなにかに置き換えるしかない。
でもそれは無理だ。正義の味方も、正義そのものも、人間でないなら意味がない。それはボクの理想に反する。
「ボクはまた道を見失った。でも君のおかげではっきりしたよ。間違った正義を間引いても、正義は正しくならない。完璧を求めてはいけないんだ」
「拙僧が思うに完璧に正しい正義とは、すべての救いが完結したものであると思うでござる。救われた存在は現世には居ないでござる。つまり現世にいる間は、正しい正義なんてないんでござるよ。そして正義がないなら、正義の味方もまた存在し得ない」
「アリタカくんの話を聞いた今なら、なんとなくわかるよ。でもそれなら悪は? 君の話だと悪はより上位の悪から連なるものだって言うけど、その根源はなに?」
「難しい質問でござるな。悪の根源は、救いの対になる存在でござろうか。しかし教えにおける悪とは人の心のなかに住まうものであり、一言で言ってしまえば欲望でござる。だからこそ善悪は表裏一体なのでござるが、しかしそれではエル殿は納得しないでござろう?」
全ての正義が救われたとして、その時に悪はまだ残っているはずだ。なぜなら善行と修行でなければ救われないなら、それを忌避するものも必ずいる。
でも悪だけの世界というのもまた存在し得ない。悪の中でも弱者が現れ、そいつらは悪だけの中では存在できず、救いを求めるはずだ。
「納得しないことはないけど、全てが救われると悪もいないことになっちゃうよね」
「拙僧はその救われなかった者たちだけの世界のことを、地獄というのだと思うでござる。まあ拙僧の教えでは巡る道の1つであり、きっとそんな世界を見たら救いを求めるようになるのだと思うでござるよ」
「……なるほど。君の教えの転生ってそういうことなのか。弱者から順に救いを求めて、またどこかで欲に囚われる。そりゃ救われるのは難しいわけだ」
「そうでござるな。なので欲望以外のものをあえて悪とするなら、それはさしずめ【敵】と言ったところでござろうか」
「へえ。【敵】、ね」
つい笑みが浮かんでしまう。彼はボクの職業を知って意図して言ったわけではないだろう。
それでもなんというか、今ここでその名前が出てくるのかと。なにか運命のようなものを感じてしまって、ついつい顔がにやける。
【敵】ね。そうかそうか。そう言えばボクは世界の敵なんだった。
「? なにかおかしなことを言ったでござるか?」
「ふふ、いや。でもわかった。正義の味方を助ける方法は、もう別に考えなくていいんだ」
「そうなのでござるか? あんなに熱弁していたのに、諦めるんでござるか?」
「それは違うよ。ああ、せっかくだからアリタカくんには教えてあげようか」
ボクは今とても嬉しい気持ちでいっぱいだった。
今回の、ヴァルデスでの出会いは素晴らしいものばかりだった。
自分の目的。悪役とはなにか。そのために何をするべきなのか。
正義の味方の在り方。人は脆く、心は弱い。彼らは些細なことで悪に塗り替わってしまう。
正義とはなにか。人の集合体は善悪を併せ持ち、正しいばかりが正義ではなかった。
それらのボクの中でも答えの出ていなかった問いに、或いは間違っていた答えに、彼は正面から向き合ってくれた。
そして、偶然にも答えをくれた。
「アリタカくん。ボクの、つまりヴァルデスではないエルの職業は、【敵】なんだ。ボクはこの世界で生きているだけで、正義の味方のためになっていたんだよ」
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