2-5 はじめての契約
◆エル
気がつけば、空には満天の星空が見えている。
……おかしいな。ボクは部屋の中に居たはずなのに。
ゆっくりと起き上がると、目の前に屋敷があった。いつの間に外に出たんだ?
屋敷の窓は割れていて、よく見ればボクの周囲にその破片が散らばっている。
……思い出した。ボクはヴィクトリアさんに殴られたんだ。そう気がついた瞬間全身が痛みを訴え始めた。
歩くにも苦労しそうなので、ひとまずアクアボールを使ってゴーレム椅子を作り出す。大分慣れたものだ。アクアボールのスキルレベルはそろそろ上限になるだろう。まともな使い方をほとんどしていないけど。
ゴーレム椅子を操ってボクは玄関を目指す。投げ出されたのは屋敷の裏手だ。流石に割れた窓から中に入る気にはなれない。
表に回ると、そこにはヴィクトリアさんがいた。手には、というか手だけではなく触手いっぱいに夏リンゴを持っている。
「あら、生きてたのね。まさかあんなに飛ぶとは思わなかったから、てっきり死んだのかと」
「……気を失っていたけど、あの程度では死なないでしょ」
「強がり言っちゃって。ほら、早摘みだけど良いリンゴールよ。あなたもどう?」
彼女は触手のうちの1つを伸ばし、こちらに夏リンゴを渡してきた。
「んー、甘さはいいけどちょっと酸味が強いわね。やっぱり時期が早いせいかしら? でもそれにしては実がよく成っているのよね。あなたはどう思う?」
「これは夏リンゴですよ。リンゴール? とは少し違うものなんじゃない?」
せっかく貰ったので椅子ゴーレムで表面を洗い、齧りつく。
うん。甘酸っぱくて美味しい、ボクの知っている夏リンゴの味だ。
「夏リンゴ? ふうん。リンゴールと同じ種だと思ったけど、土地によって変わっているのかしら?」
「植物の声が聞けるなら直接聞けばいいんじゃないの?」
「声は聞けるけど、誰もが目覚めているわけじゃないわ。このリンゴールの樹はかなりの長寿で、ずっと寝ているの。起こしてまで聞くほどのことじゃないし、それにリンゴールも夏リンゴも人間が勝手に名前をつけたものだから、違いなんてわからないんじゃないかしら?」
植物も眠るとかあるんだ。知らなかった。
ああでも『草木も目むる丑三つ時』って言うし、昔の人は植物が眠るのを知っていたのかも。
「さてそれで、どうするのよ?」
「え? なにが?」
「契約よ、契約。あなたの持っている本が言っていたわ。契約せずに魔力がなくなると、私は消えるんですって。もちろん食事とかで魔力を得られれば存在を維持できるはずだけど、例えばこのリンゴールの実を食べると、食べた回復量よりも吸収するための分解に魔力を使ってしまうわ。つまり私は食べれば食べるほど死が早くなる」
そう言いながらもヴィクトリアさんは夏リンゴを齧り、うっとりと夜空を見つめる。
「でもね、私に食べないという選択肢はないの。それが私の生きてきた道であり、それが私の生きる意味。食べることにだけ心血を注いできたから、今更食べないで生きるなんて無理なのよ」
「難儀ですね」
「だから契約自体はしたいと思うのだけれど……あなたの言っていた要求、なんとかならない? 私は食事と魔力だけで満足してあげるから、あなたも屋敷の掃除だけで満足しなさいよ」
なんだそんなことか。それならボクにも非があるし、妥協案としてはちょうどいいんじゃないかな。
「ボクはそれでもいいよ。そう言えばこういう契約って、1度だけお願いを叶えて終わりっていうタイプと、どちらかが解除するまで継続されるってタイプとある気がするんだけど、これはどっちなのかな?」
ヴィクトリアさんもよくわかっていないようなので、気になる点はすべてアールに任せてしまおう。
スキルブックを起動すると軽い挨拶のあとすぐに答えをくれた。
『おはようございますエル様。今回は死ななかったようですね。さて、悪魔との契約についてですが、どちらのパターンも存在します。ですが今回の契約であれば後者がよろしいかと』
「あら? 理由を聞いてもいいかしら?」
アールの回答に先に反応を示したのはヴィクトリアさんだった。ボクも同じことが気になるので遮るようなことはせず、アールに返答を促す。
『失礼ながら悪魔ヴィクトリア・グーラ・エギグエレファはご自身の発言から、自身の領域を持たずに魔力溜まりを彷徨っていたことが伺えます。契約に関しての知識や自身の存在に関しての知識も持っていなかったため、力は強大ですが精霊や悪魔としてのランクは下の下であるかと』
「そうね。実際ここに呼ばれてくるまで、自分が悪魔だとか精霊だとかなんて考えてなかったわ。地獄の苦役を強いられていると思っていただけだし」
『であるなら一度の願いで契約を解除すると、悪魔ヴィクトリアはその存在を保つすべを失う可能性が高いです。運良く魔力を回収して命を繋げられたとしても、それがいつまで続けられるか……』
更に詳しく聞くと、アールは本当は低位悪魔を呼び出して、掃除だけさせて使い潰すつもりでいたとのこと。自分の魂の一部ながら、なんて恐ろしい考えを持っていたんだ。
しかし実際に現れたヴィクトリアさんが思ったよりも強かったことでその考えを改めた。
ボクは自身の目的と【敵】の性質上、何度も転生を繰り返し同じ場所に居ることができない。だけど悪魔なら転生先に再召喚することで何度でも呼び出せる。
つまり生涯を超えて仕えるボクの部下にできるんじゃないかと考えているそうだ。
「ふうん。なるほどね。死んだ先でも……ねえ。部下ってのは気に入らないけど、美味しい食事が提供され続けるなら、暫くの間くらい飼い犬になるのも悪くないわ」
「今後ヴィクトリアさんが力をつけて1人でも生きていけるようになったら、契約を解除したって構わないよ。ボクの目的は、たぶんヴィクトリアさんをすごく危険な目に合わせると思うし」
「ああそれそれ。気になっていたんだけど、あなたの目的っていったいなんなの?」
そう言えばヴィクトリアさんには話していなかったな。
彼女が食事に人生を捧げたように、ボクにも自分の生きる道があるんだ。
「ボクの目的は悪役になることだよ。悪役は好きなことをして生きて、その罪を背負って死んでいくんだ。悪いことをたくさんして、たまには良いことをして、そして正義の味方に殺される。だから最終的な目的は死ぬことかな?」
「なにそれ。それの何が楽しいの? 好きなことをして生きて、それで終わりでいいでしょうに」
悪魔のヴィクトリアさんは不思議そうに首を傾げるが、ボクは首を振った。
「ダメだよ。人は悪いことをしたら、その報いを受けるんだ。因果応報っていうんだって。でもただ死ぬだけじゃもったいないから、正義の味方のために死ぬんだ。どうせ死ぬなら、役に立って死なないと」
「言っていることはわからないでもないけど、その思想を実践する意味はよくわからないわね。あなたがイカれてるってことはわかったけど。でもま、私の邪魔になる考えではないし、問題ないわ。早速契約しましょ?」
そう言ってヴィクトリアさんは両手を広げるが、ボクは契約の方法を知らなかった。
『本来なら召喚陣に契約の魔法も刻まれているのですが、悪魔ヴィクトリアの魔力に耐えきれずあの陣は破損しています。その他の手段として呪文の詠唱や魔力文字を使った契約書の署名、あるいは魔導具を用いた隷属化などが存在しますが……』
「そんなものないよ?」
「私も面倒なのはゴメンよ。さっさと済ませて頂戴」
『……お互いに問題がなければ、魔力パスの接続だけでよろしいかと。複雑な魔法やスキルなどは使用しません。エル様は悪魔ヴィクトリアの身体に触れ、魔力を流してください。かつてスキルブックと契約したときと同じです』
なんだ魔力を流すだけでいいのか。それなら簡単だ。
ヴィクトリアさんの両手を取って、かつてナクアルさんに魔力を流されたときのことを思い出し、目をつぶってゆっくりと身体を巡る魔力の流れをイメージする。
ボクの魔力のイメージは血液だ。心臓からスタートし、両手を走り、ヴィクトリアさんの手へと繋がる。
ヴィクトリアさんの中にボクの魔力が侵入すると、彼女の魔力もボクの中に流れ込んできた。ひんやりとしているのに温かみのある、不思議な魔力だ。ボクはその魔力に意識を奪われないように注意し、彼女の中へと魔力を広げていく。
中へ、彼女の中へ。普通の人間の身体では収まりきらない、迷路のような構造の彼女の中へ。ボクの魔力は触手の一端までも余すことなく、彼女のすべてを駆け抜けていった。
◆
どれだけ時間が経っただろうか。お互いの魔力が溶け合い、混ざり合い、二人の境界がなくなったような錯覚すらしてきた。それでも懸命に自分の魔力に集中し、やがて彼女の全身を駆け抜けた魔力がボクの中へと戻ってきた。
『契約成立です。お疲れ様でした』
アールの声でハッと意識が戻る。ヴィクトリアさんはボクによりかかるように眠っていた。ボクもゴーレム椅子がなければ後ろに倒れていただろう。
周囲を見渡すと、既に朝日が昇り始めていた。彼女と繋いだ手はお互いに深く握りしめたままで、特にヴィクトリアさんの力が強いせいで解けそうにない。
「ヴィクトリアさん、起きて。契約は完了しました。起きてくださーい。起きろ―」
ボクの言葉に反応はない。そこでふと、ただの思いつきだが少しだけ魔力を流してみることにした。
「起きてー。起きろ―」
「!? な、何がおきたの!?」
手のひらから一瞬だけ魔力を流す。その効果は劇的だった。ヴィクトリアさんは手を振りほどいて飛び上がり、一歩下がって周囲を警戒する。
「おはよう。ヴィクトリアさん」
「え、ええ。おはようエル。ところで、今のはいったいなんなの? なんかこう、全身にピリッと走ったような、ゾワッとしたような……」
『魂の契約が完了したことで、エル様が上位権限を得たのでしょう。エル様が魔力を通して命令すれば、悪魔ヴィクトリアはその指示に従います』
「え? 魂?」
「なにそれ、ただの契約じゃなかったの?」
ボクとヴィクトリアさんはお互いに顔を見合わせ、スキルブックへと向き直る。
『おや、お互い気がついていなかったのですか? 昨日の契約は途中から魔力だけでなく、魂をも捧げあっていましたよ? いえ、エル様の場合は魂に魔力が付随するので仕方のないことですが、まさか悪魔ヴィクトリアまで魂を融かすとは…… ああ、悪魔ヴィクトリアは自分の魂と魔力の境界がわからなかったのですか。なるほど、そういうこともあるんですね』
今一瞬だけ、アールの言葉に嘲りを感じた。それはヴィクトリアさんも同じだったようで、魔力パスを通して怒りが感じられる。
「えーっと。つまりどういうことなの?」
『悪魔や精霊は魔力生命体です。肉体が魔力であるのは当然ですが、核となる魂も魔力に溶け出しています。本来であればその魂と魔力の、混ざってはいけない最後の一線だけは自覚しているものなのですが、悪魔ヴィクトリアは無自覚だったのでしょう。あるいは、世界樹エギグエレファの実と融合したことでその境界が自覚できないのかも知れません』
「私が私のことを理解していないのはよくわかったわ。それで結局のところ、魂の契約ってのはどういうことなのよ? 普通の契約と何が違うの?」
『お互いの魂が一部融合してしまっていますので、通常の契約よりも更に上位の強制力が発生しています。簡単に言えば、エル様が完全にこの世界から消滅するまで、契約の解除はできません』
「え?」
「は? はああぁぁぁ??」
ボクも驚いたが、それ以上にヴィクトリアさんの驚き方のほうが凄かった。
「じゃあなに!? 私はエルに生涯尽くさないといけないってわけ!?」
『尽くすかどうかはエル様の命令次第です。通常の契約よりも拘束力が強いため、悪魔ヴィクトリアの要求した条件すら魂の契約の前には無意味です』
「なによそれ! じゃあ私への報酬はなくて、タダで屋敷を掃除しろって言うつもり?」
『掃除だけでなくその他の雑事も、いえ、もっと言えばその命すらもエル様のものです。もちろんそのような不義理をすればエル様の魂にもダメージがありますが……できないわけではない、というのは覚えておくと良いのでは?』
アールはサラッと言っているが、それはボクにとってもとんでもない責任と重圧がある。
「ちょっと待ってよアール。ボクは戦闘員の研究がひと通りできたら悪の研究者らしく爆発して死ぬ予定なんだよ? そんなくだらないことにヴィクトリアさんを巻き込む訳にはいかないよ」
「くだらないとわかってるなら爆死なんてやめなさいよ! なによその目。え? 本当に死ぬつもりなの? 私もせっかくこの世界に来たのに、こんなやつとそんな理由で心中するのは嫌よ!?」
悪の怪人が最後に爆発するのはとっても大切なことなのに、くだらないなんてヴィクトリアさんはなんて酷いことを言うんだ。悪の様式美なんだよ?
『その点に関しては安心してください。魂の契約をしてるからと言って、どちらかが死んだ場合にもう片方が死ぬということはありません。それにエル様が死んだ場合、契約によって混ざっている魂の一部は純粋な魔力として悪魔ヴィクトリアに引き継がれます。そのためよほどのことがない限り魔力切れを起こして消滅することはないはずです』
「それなら安心だね。気兼ねなく悪役ライフを送れるよ」
「いいえ、安心じゃないわ。アールはさっき、エルが完全にこの世界から消滅するまで契約は解除されない、と言ったでしょう? ということはエルが死んでも転生して戻ってきたら契約は再開される。そういうことよね?」
そういえばそんなこと言っていたな。アールの説明では契約は続いていそうだ。
「その間、つまりエルが死んでから復活するまでの間、私はどうなるの? 例えば掃除を命令されているときにエルが死んだら、転生後使いもしないのにエルが復活するまでの間掃除をしっぱなしってこと? そんなのは嫌よ?」
「そういうのは考えてなかったな。どうなんだろう」
『通常であれば契約者が死んだ場合そこで命令は途切れますが、エル様自体かなり特殊な状態ですのでその場合はどうなるんでしょう。試してみますか?』
アールの言葉にヴィクトリアは顔をしかめる。どうやらアールにも知らないことがあるらしい。
まあ魂の契約自体特殊なものみたいだし、その状態で更に転生なんて前例が残っていることのほうが考えにくい。
でも問題がそれだけなら簡単な解決策がある。
「わかった。じゃあこうしよう。最初からそんな命令をしないと約束するよ。ボクはお願いしかしない。嫌なら断っていいし、なにか条件を出していい。そうだ、これは命令だ。エルが命ずる、ヴィクトリアさんはボクの命令を聞くな。これなら安心でしょ?」
と思っていたのだが、ヴィクトリアさんの反応は薄い。
「……何も変化はないけど?」
「あれ?」
『矛盾する命令は機能しません』
「あれあれ?」
どうやらダメだったらしい。せっかくの妙案だと思ったのに。
『そこまでしなくとも、単純にエル様が命令をしなければいいだけなのでは?』
「それはそうなんだけど、なんかこう、ノリと雰囲気で全軍突撃とか言い出しそうだし……」
「……まあいいわ。あなたがそこまでしてこの契約に制限をかけようとしている。それだけですべてを信用するとは言わないけれど、今はそれで十分。どうせもう取り返しがつかないわけだしね」
「ヴィクトリアさんはそれでいいの?」
「いいもなにも、他に方法はないわけだし……一旦保留よ。それよりなんだか疲れたわ。もうすっかり朝だし、朝ごはんにしましょ?」
「それはいいね。ボクもお腹が空いていたんだ」
ヴィクトリアさんは少しだけ楽しそうに屋敷の中へと入っていき、ボクもそれに続いていく。
だけどヴィクトリアさんは玄関に入ったところで立ち止まり、こちらに振り返った。
「エル、食堂はどこ?」
「知らないよ?」
ヴィクトリアさんが薄っすらと笑みを浮かべる。
「昨日の契約前の時点で、美味しい料理を用意するって、言ったわよね?」
「もちろん。そうするつもりでいたよ」
「じゃあ、なんで、食堂の場所を、知らないの? 仮にもあなたの屋敷でしょ?」
あ、怒ってる。魔力パスがなくてもにじみ出る魔力がそれを物語っている。
こういうときは素直に伝えるのが一番だ。
「スラーはしばらくまともな食事をしていないから、きっと食堂にも資料や本が山積みだよ。それにボクはこの身体になる前は子供だったからね。料理なんてしたことないんだ」
そう言い終えると、ヴィクトリアさんはニコリと笑った。
よかった。どうやら許し
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