逮捕
林恵と俺の初めての会話は、思い出すのも酷いものだった。
高校一年の時。彼女は覚えてなどいないだろうが、実はかつて俺達は席が隣同士だった時がある。その時、俺達は一度だけ会話をしたことがある。
林という女子は、高校時代に出会った時から友達が多い人だった。強気な物言いはたまに瑕だが、顔は綺麗だし、発言力がある分、付き従う家来のような人だっていたからだ。だから休み時間、林の席の周りは取り巻きによって埋まってしまう。あの時の俺は、休み時間の際にトイレにでも行くと勝手に席を取られてしまうから、おちおちトイレに行くことさえ出来ずにいた。
俺達の初会話の舞台は教室。友達過多の彼女の周りから人が去る、休み時間明けの授業開始直後のことだった。
確か、歴史の授業だった気がする。今では懐かしい境川先生が教室にやってきて授業を始めようとした時だ。
林の机から、消しゴムがポロッと落ちたのは。
あくびの拍子に、俺は彼女の机からそれが落ちる現場を目撃し、落とした当人はそれに気付いた様子はなかった。
俺は考えた。あの消しゴムは拾うべきか。放っておくべきか。
そして、あの女なら拾わなかったことを後々グチグチ言いそうだ、と思い至り、まさしく自分本位の考えで消しゴムを拾ってやることにした。
体を倒し消しゴムを拾う際、隣にいた林から刺さるような痛い視線を感じた。消しゴムを拾うだけなのに無駄に緊張したのは、この時が初めてだった。
「落としたぞ」
消しゴムを拾って、あいつの机に乗せて、俺は言った。
林は俺に返事をくれた。
ただそれは、感謝ではない。俺の手を煩わせた謝罪でもない。
「ちっ」
むしろ、言葉でもない。所謂舌打ち。
消しゴムを拾う労力を払った俺に、あいつが寄越した返事は、まさかの舌打ちだった。
なんて女だ。善意をこんな形で返すだなんて。あの日以来、俺は彼女と口を聞かないと心に決めて、三年間を過ごした。
だからこそ、彼女と俺が会話をした回数は片手くらいでしか数えられない程度に収まった。同じクラスに三年間一緒にいたのなら、普通もっと増えそうなものなのに、だ。
俺は当時、あいつのことが嫌いだった。
高飛車で傲慢で女王様みたいなあいつのことが、大嫌いだった。
ただ、三年間同じ教室で勉学したこともあるが、意外とあいつを視界の端で捉える機会も少なくなく、だからこそ知ることが出来たこともあるのだ。
あいつは確かに傍若無人な女だ。
ただあいつは、その分仲間意識が非常に強く、頭も悪くなく、そうして自分の意思を伝え、それを押し通すだけの精神力、意欲がある。
そして、意外と涙脆い。
三年生の体育祭。最後だからと優勝を目標にした俺達クラスの順位は惜しくも二位。皆は、大健闘だと喜んでいた。しかし一人、大粒の涙を流す少女がいた。
「メグちゃん、二位だったんだから良かったじゃない」
「そうだよ、そうだよ」
そんな取り巻きの言葉にも、彼女は耳を貸すことはなかった。
「あたしは皆と優勝したかった」
あの時の俺は、彼女とのいざこざもあったから冷めた目で、声高らかに悔しがった彼女を見ていたが、時間を経て考えると、彼女の気持ちがわからなくもない。そう思えた。
あの人のことは嫌いだった。
高飛車で傲慢で女王様みたいなあの人のことが、大嫌いだった。
でも、高校卒業した時にはそれだけではなくて、意外にも彼女のことを認めるような気持ちもあった。あれにはあれで、固い意思があるんだな、と感心するところも多かった。
俺はもしかしたらあの時、一種の憧れを彼女に抱いていたのかもしれない。
だから、彼女がドメスティック・バイオレンスの被害に遭っていると知った時、俺は彼女を家に連れ帰ったのかもしれない。
一種の憧れを抱く彼女が、男から暴力を振るわれただけで怯える様を見るのが、辛かったのかもしれない。
勿論、こんな話は彼女に口が裂けてもするつもりもない。
この気持は一生、誰にも話すことなく、墓まで持っていくつもりだ。
まあ、そんな大層な決意をするまでもないのかもしれないが。
林を家に匿って、一週間が経った頃。夕飯を食べ終わった頃だった。
俺のスマホが鳴り響いた。スマホに表示された電話番号は、警察署だった。
「もしもし」
俺は電話に応じた。
林は俺が誰の電話を取ったかはわかっていないようだが、タブレットの音を下げていた。
「はい。はい。……それなら、本人に代わります」
俺は立ち上がって、林にスマホを渡した。
「どこから?」
「警察だ。あの件で電話みたいだ」
林の顔が強張ったのがわかった。タブレットを持つ手も、唐突に震えだした。
「……お前が聞かなきゃ、意味ないだろ?」
「……うん」
林は俺からスマホを受け取った。
「もしもし。あの……はい。……はい。はい。……そうですか」
林の顔が、一層沈んだのがわかった。嫌な予感が頭を過ぎった。
「……はい。はい。…………はい。わかりました。ありがとうございます。……失礼します」
林は電話を切った。
「どうだった?」
俺は尋ねた。しかし林は、俯いたまま返事をくれない。顔色はあまり優れていない。彼女から見て、芳しくない結果だったのだろうか。
「林?」
「あの人、逮捕されたって」
しばらくの沈黙。
時計の針の音だけが、室内に無常に響いた。
林の顔は晴れない。……一時は恋人だった相手の逮捕だ。された行為は行為だが、思うところもあるのだろう。
「ドメスティック・バイオレンスの被害は普通、逮捕に至るようなケースは現行犯逮捕がほとんどだけど、取り調べだったりあたしの怪我の状況だったり、悪質性が確認できたから……逮捕だって」
「……良かったな、林」
「良かったのかな?」
林の声は、震えていた。
「……あたしはあの時、あの人にやめろって言わなかった。なのに土壇場で勝手に被害届を出した。その結果、あの人は逮捕された。相談一つせず、勝手にやった。本当に、これで良かったのかな?」
「……良かったさ」
「……でも」
「お前が生きてて、本当に良かった」
林は、怯えた顔で俺を見ていた。
「……俺が、お前が受けた傷のことであいつのことを許さない、と言ってもお前に響くところはないだろう。だから俺は、今回の件であいつに対して言うことはないし、思うこともない。そもそも俺は部外者だしな。……ただ、お前が無事で良かった。それだけだ」
林は俯いた。
「お前は気に病むだろうさ。あいつの人生を終わらせてしまったって。でも、お前もあと一歩で……あいつに人生、終わらされていたんだぞ。今回起こした行動は全て、お前が生きるためにしたことだ」
俺は林に近寄り、彼女の肩を掴んだ。
「悩んだって良い。でも、自罰的にだけはなるな。破滅願望も抱くな。そんなの、生きるためにした行いを無駄だったと言っていることと同義だ」
ここまで真剣な眼差しを、俺は他人に向けたことがあっただろうか。
「……俺の頑張りを、無駄にすることと同義だ」
背中がむず痒くて、仕方がない。
「お前が悩むのは当然だ。ただ俺の頑張りを無駄にしてくれるな。生きるのが嫌になったのなら、悪いが俺への恨みを抱えながらでも生きてくれ」
こっ恥ずかしくなったので、俺は夕飯前、やりかけだった風呂場掃除でも再開しようと思った。排水溝に髪が溜まってきたのだ。流したシャンプーなども絡まって、あれは中々に触るのが不快なのだ。
「ありがとう、山本」
風呂場に赴いた俺の背に、気付けば林がいた。
「お礼を言われる筋合いはない。そもそも俺はお前に酷いことを言っている。結局は全部、自分本位な俺の行動に付き合えってお前に言っているんだぜ?」
「そういう言い方しか出来ないだけじゃない。あんたは」
「……そう思うのなら、そうなのかもな」
「最近、思うよ」
「何を」
「どうして高校時代、もっとあんたと話さなかったんだろうって」
……奇遇だな、俺もだ。
俺は、あいつを嫌う理由は十二分にあった。選民意識があるような人種ではないが、他人との接触も極度に拒むような人種でもなかった。
ただ一人、林だけは例外だ。こいつに対してだけ俺は、内心での評価が変わっても、付き合い方を変えたことはなかった。
「良かったじゃないか」
「え?」
「マインドを変える機会に、恵まれて」
仮に人が人生二周目を体験したとして、その二周目の人生が一周目よりも良いものになるかと言えば、否であるというのは俺の持論だ。
人生を良いものにするために必要なこと。それは時間ではなく、マインドだ。立ち向かい、悩み、決心する。そういう経験を経て、人は自分の人生を磨いていく。一周目でも二周目でも、それは変わらない。怠った人から、人生はくすんでいく。
「これからは俺も、人との付き合い方を変えていこうと思う」
「……付き合い変える程の友達、いないじゃない」
「いるよ。背後に」
俺の後ろにいる林は黙りこくった。
俺も、こっ恥ずかしいからこれ以上は何も言わず、黙々と作業を続けた。
ただ、まもなく俺達は気付くのだった。
林の元恋人の逮捕。それはつまり、林の無事の確保。ひいては彼女をこれ以上、俺が匿う理由もなくなった、ということなのだ。
林が次の部屋探しを始めたのは、林の元恋人の逮捕の翌々日のことだった。
第一章完結致しました。
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