遊歩道
そう言えばつい先日、俺は笠原をおぶって帰宅を余儀なくされたことがあった。
あの時、内心に宿っていた感情は、背中におぶっていた相手との当時の関係から、懐かしさにも似た複雑な感情だった。もどかしいだとか、寂しいだとか、わずかな期待だとか。とにかく、そんな感情が渦巻いて集合体になっていた。
ただ、今林をおぶって抱く感情はあの時に比べたら幾分かスマートな感情だ。
とりわけ大きなパーセンテージを持つのは、心配。
腕に巻き付いていた頃、そして今になっても背中で震える彼女が、俺は今、心配で心配でたまらなかった。
……こうして、異性と二人きりで一緒にいる環境で、自分の気持ちを冷静に分析したことはなかったな、とぼんやりと思った。
ただ、分析したからこそ思ったことがあって……それが何かと言えば、今の林の精神状態は、お出掛けをする目的からは乖離していると思わざるを得ない、ということだ。
普通、お出掛けをする理由ってのは、楽しむためとか、リフレッシュするため、とかが主目的だろう。
林だってそもそもは、笠原と楽しむために今日のお出掛けを計画していたに違いない。
……だが、今の林が抱いていそうな感情は、傍から見たら恐怖とかマイナスイメージな感情だとしか思えない。
「うぅ……」
林のうめき声の後、後頭部に林の頭がぶつかった。
恐らく、おぶった今になっても、林はまともに目を開けてはいないのだろう。
こんなことなら、やはりレインボーブリッジを歩くだなんて止めておけば良かった。
……果たしてそうだろうか?
そもそも、俺達がレインボーブリッジを歩くことにした理由は、林が俺に楽しんでもらいたいから、というものだった。
そして俺は今、渦巻く感情にて一番大きなパーセンテージを示すのは心配。だが、二番目にはなんだかんだ楽しい、という感情が来ている。
彼女の思惑通り、俺はなんだかんだそれなりにここを歩くことを楽しんでいるのだ。
だったら、ここを歩いたことは間違いではなかった。ここを歩くだなんて止めておけば良かった、だなんてことは一切なかったのだ。
……なのに、そこまで思ってもやっぱり、止めておけば良かったと思うのは一体どうしてだろう?
いやはや、人ってのは不思議なものだ。
自分で自分の気持ちに説明が付かないだなんて、面倒くさい生き物だと思って仕方がない。
……まあ結局、俺は後ろで震える少女を立ち直らせない限りは、ここに来たことを悔い続ける気がする。
では、一体なんて言って彼女を立ち直らせるべきか。
少し頭を捻って考えた。
一体、どうして彼女は今、怯えているのか、と。
……高いところが怖いから?
じゃあ、どうすれば恐怖心が消える?
高いところから降りる。ないし、早めに去る。
……そもそも、そんな人を高いところに連れて行かない。
駄目だ……っ!
どう考えてもレインボーブリッジに来たことが失敗だったってことになってしまう……!
……うぅむ。
逆転の発想をしてみよう。
それは……そう。克服させてしまえばいいんだ。
つまり、彼女は今高いところに恐怖心を抱いているが、高いところを怖くなくさせればいいんだ。
……じゃあ、何をする?
パッと思いついたのは、荒療治だった。
俺は体を大きく揺すった。
「きゃあああああああっ!」
林は叫んだ。
「なななななにするっ!??」
俺はもう一度大きく体を揺すった。
「ぎゃあああぁっぁあああ!!!」
「ふむ。駄目か」
むしろ一層恐怖心を駆り立てたらしい。
林は息を荒げて、俺の両頬を思い切りつねった。
「あんたっ、何するんだっ!!!」
「いや、もっと強烈な恐怖を与えて恐怖に慣れさせれば、恐怖も和らぐかなって痛い痛い!」
餅だったらちぎれるくらいの力で、林は俺の頬を引っ張る。
ふむ。これは完全に失敗だった。何より、下手に暴れると林にさらなる恐怖を植え付けてしまうから動けず、結果されるがままになるしかなく、頬が痛くて痛くてたまらない。
……そもそも、かつてドメスティック・バイオレンスという強烈なトラウマを植え付けられた彼女に、恐怖を煽る荒療治は、冷静に考えるとありえない。
実験感覚で試すようなことでもなかった、と俺は強烈な罪悪感に駆られていた。
「すまん。考えが浅はかだった」
「謝っても許さないっ!」
珍しく林は、本気で怒っていた。
「すまん」
「いつもいつもっ! あんたはすぐ変なことばっかり! もうっ! もう〜〜〜っ!!!」
「……すまん」
俺、いつもそんな変なことしていたか?
状況が状況だけに反論しなかったが、さすがに俺もそれには疑問符だ。
だって俺、ちょっと考えなしで行動してみたり、寝ている時間以外はずっと掃除してみたり、ドメスティック・バイオレンスされて傷心中の林を煽ってみたり。
……ふむ。
確かに変なことばかりしているわ。
「……お前、俺のことよく見ているなあ」
ピタリ、と林の手が止まった。
「……怒られてるのに、そんな感心げになるな」
「すまん。さすがに考えなしすぎた」
少し、林も落ち着いたらしい。
もしかしたら空回りした俺の行いが、多少は効果があったのだろうか。
「……でもさ、どうせこんな素晴らしい景色を今見れてるんだから、お前とそれを共有したいじゃないか」
「あたしと?」
「そう。お前とだ」
林は静かだった。
「どうせなら、怖いと思って目を閉ざすんじゃなくて、目を開けてみて挑戦してみてもいいんじゃないか。その結果、やっぱり駄目ならそれでも良いじゃないか。だってさ、今を逃して後々それに挑戦してみてさ。やっぱ大丈夫だったってなった時、お前はきっと後悔するんだぜ? どうしてあの時、挑戦しなかったんだろうって。あの時、大丈夫だったことがわかっていれば、もっと選択肢が広がってたって」
そう言えば、林はこの前、地元からの帰省の電車の中で、似たようなことを言っていた気がする。
彼女なりに、色々な経験を経て、今変わろうとしているのだろう。
だったら俺は、同居人として彼女の背中を押してやらねばならない。
仮にいつか、彼女に嫌われる日が来ようとも。
「……あんたの口ぶりってさ。マルチ商法を勧誘してくる友人みたいな怪しさがあるよね」
「あー、確かに。でも俺のこれは連中の誰かの受け売りみたいな浅はかなセリフじゃない。自分で体験したこと、思ったことを言っているまでだ」
「……それは認める」
認めてくれるか。有り難い。
林は、しばらく無言になった。
「凄い」
しばらくして、背後から声がした。
ため息混じりのその声を発したその人は、まさしく林だ。
一体何が、凄い、のか。
それは聞くまでもなく……多分、今俺が見ているそれと同じだろう。
「そうだろう?」
「……うん」
林は再びため息を吐いた。
「あんたの言う通りだった。確かにこれは……見てみないと勿体ない」
「そうだろう?」
「……うん。後悔しなくて良かった」
林の両腕が、俺の首に回された。
……景色を見ないと勿体ない、とは言ったが、うっとりして俺に体を預けろとは言ってない。
俺は少し変な気分になり、目線を下げた。
「海はめちゃきたねーけどな」
「水差すな、バカ」
俺の後頭部を、林は額でぶってきた。
レインボーブリッジを歩かせるだけで何話使ってんだと皆様は思っていると思う。
これじゃあ、続くの展開が浮かんでないみたいじゃん。
…………。




