恋人関係
林を家に匿うようになったその日の夜。俺は、林と夕飯を食べていた。
彼女をこの家に匿うことになって、数時間。今朝寝る前は色々あって何も思うところはなかったが、今になると、彼女と二人きりのこの空間が酷く気まずかった。
俺と林の関係は、高校時代の同級生というものだ。しかし、高校に在学中に彼女と言葉を交わしたことはあまり多くない。彼女は、俺のようなちゃらんぽらんな人間を好んでいなかったし、俺はと言えば、女子の友達自体そんなにいなかった。それに、林は多分、高校時代の俺のこと、そんなに好いてはいなかったとも思っている。
それ故のこの気まずさだ。
「ねえ」
林が沈黙を破った。
「何だ?」
「あの人、今頃何しているかな?」
あの人とは多分、林の同棲相手のこと。ドメスティック・バイオレンスをされた相手にも関わらず、一体どうしてそんな相手のことを気にするのか。
「まだ情があるのか?」
「そうじゃない」
「そうじゃないのか」
即答するのはあまりに酷い……と思ったが、これまで彼女がされてきた行為を考えたら、全然そんなことはなかった。なし崩し的に、あの関係を続けずに済んで、本当に良かったと思う。
「……ただ、ちょっと怖いと思っただけ」
サバサバとした口調で、林は言う。ただ声色とは裏腹に、内容は怯えが見て取れた。
怖い。ドメスティック・バイオレンスでこれまで数ヶ月、相応の仕打ちを受けていたからこそ、再び同じ目に遭わないか、彼女は恐怖を覚えているのだろう。当然の成り行きだ。
「高校時代のお前からは聞けないような言葉を聞いた」
茶化すように、俺は言った。もう警察に事情は伝えたし、しばらくは林の恋人が知る由もないこの家に匿われているのだし、心配するだけ時間の無駄。恐怖に怯えるのではなく、明るい話題でも話そう。そういう意図での発言だ。とてもそんな発言に聞こえないのは、俺の性格が捻じ曲がっているからに他ならない。
まったく、林の奴。頼る相手を間違えたな。心からそう思う。ドメスティック・バイオレンスをする相手に、俺。彼女の男運は、とことん悪いようだ。
「……ありがとう」
林は俺にお礼を言った。怒ったり呆れたりすると思ったから、俺は意外そうに目を丸くしていた。
「何、鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんの」
「……だって」
「そりゃ、感謝するでしょ」
林は、照れくさそうに目配せした。
「あんたがあの時、あたしにウチに来いって言ってくれなかったら、あたしはまだ暴力を振るわれていた。未だに警察に行くこともなく、あの人を断罪する機会すら得られなかった。今だってあんたは、怯えるあたしを軽い口調で和ませてくれようとしているわけでしょ?」
「お前には、俺の発言がそんな風に聞こえていたのか?」
「違ったの?」
「……いや、合ってる」
言わせるな。恥ずかしい。
……高校時代、俺と林が会話をした回数は少ない。俺から彼女に声をかける用事もなかったし、いつだってつっけんどんな返事か咎めるような言葉しか得られなかったから、彼女に嫌われているんだろうと思って、意図して会話をする機会を減らしていたくらいだ。
ただ、もしかしたらこいつは意外と、俺のことを悪くは思っていなかったのかもしれない。
同級生からこいつは、女王様だなんて呼ばれ方をしていた。
綺麗な顔立ち。誰もが羨むスタイル。そして、強気でかつはっきりとした言動。それらが周囲には女王様のように、威圧的に写った。俺でさえ、表立って彼女をそんな風に呼んだことはなかったが、女王様と呼ばれる彼女が酷く腑に落ちたことを覚えている。
でも、彼女は意外とああ見えて、結構、理解力が高いのかもしれない。
いいや、それはまだわからないか。
たった一日の付き合いで。たった一言、理解を示されただけで。彼女の全てを知った気になるのは、傲慢というやつだ。
「お前の恋人は多分、今頃血眼になってお前のこと、探しているだろうな」
「……そっか」
「しばらくお前は、この部屋から出ない方が良いだろう。……スマホも、新しいのを買った方が良いだろうけど、しばらく我慢してもらいたい」
「どうして?」
「どこからあいつに、お前の居場所がバレるのか、わからないからだ」
林と彼女の恋人が、どんな経緯で交際を始めたか、俺は知らない。でも、高校時代の彼女を見るに、彼女の交友関係が俺なんかでは想像も付かないくらい途方もなく広いことは、想像に難くない。一体、どこからあいつに林の居場所がバレるのか。それはまったく見当が付かない。
「……そうだね。わかった」
「すまんな。不便な生活を強いてしまって。……俺もバイトがあるから、この家にずっといれるわけじゃない。俺が留守の間にお前に何かあったとして、俺はどうすることも出来ないんだ」
「……ふふっ」
「何がおかしい?」
「今回の件で、どうしてあたしがあんたに謝られてるんだろうって思ったの」
確かに。
俺は今回、明らかに林に巻き込まれた側。そんな俺が、どうして彼女の都合に全部合わせなければならないのだろう。しかし、林にそう笑われた今でも罪悪感に駆られているのだから、それは何も間違いではないのだろう。
「……こういうのが本当の恋人関係なんだなって今思ったよ」
「あん?」
「自分が悪いわけでもないのに相手に謝れる。相手のことを慮って、相手のための行動が出来る。あの人には、それが両方なかった」
林は、彼女の恋人に殴られても、彼を支えようと苦心した。俺はそれが彼女のお人好し精神から来る行動だと思っていたが、どうやらそうではなく、彼女の行動原理は、それが彼女の理想の恋人関係だったためらしい。
今俺は、俺が悪いわけでもないのに彼女に謝り、そうして彼女を慮って、励ましたり、彼女のために時間を割いたり。どうやら林は、それが大層嬉しかったようだ。
……だが。
「俺達は別に恋人関係ってわけじゃないけどな」
「それもそうだ」
アハハ、と林は笑いだした。
再会してから、彼女の笑顔を見た回数はそこまで多くない。逆に、深刻そうに俯いていたり、悲しそうな顔をしていたり、そういう顔は嫌という程見てきた。
どんなことでさえ彼女が微笑むのであれば、悪い気はしなかった。