ポリスメン
安堵したのもつかの間、俺はまた顔を強張らせた。
「俺からもう一つ提案があるんだが、とりあえず聞いてくれないか?」
「何?」
「ドメスティック・バイオレンスをする人の執着心のことだ」
まあ要は……これまで林の恋人は彼女に相当の独占欲を見せていたわけで、そんな相手が突然目の前から去ったら、彼が何を思うかは一目瞭然ってことだ。
「お前の恋人がお前のことを逆恨みして、報復行為に出ないとも限らないと思うんだ」
そもそも、ただ別れましょうなんて言って、相手がそれに応じるとも思えない。そんなことを言い出した途端、また実力行使に出ることも想像に難くない。これからの人生、その恋人から逃げ続けるような真似もさせたくない。
「……そっか」
「だから、俺から一つ提案があるんだ。内容は要するに、お前の恋人にお前にもう関わりたくない。そう思わせることが狙いだ」
「何? まさか、リンチでもしようっての? 構わないけど」
私怨があるからか、林は最後にとんでもないことを言ってのけた。高校時代の傍若無人な彼女が少し戻ってきたようだ。が、一旦、俺はそれはスルーすることにした。
「行きたい場所がある」
「そこは?」
「病院と警察」
「警察?」
林は目を丸くしていた。リンチは良くて、警察は駄目だったのか。その感覚は良くわからない。
「恋人のことを刑事告訴しよう。さすがのそいつも、警察の監視下に置かれた上で前科持ちにされたら、もうお前に近づけないさ」
「ち、ちょっと待ってね。何もそこまでする必要、あるの?」
リンチは考えていたが、警察沙汰にするつもりはなかったのか、林は少し困った様子だった。
「……体中傷だらけにされて、友人との連絡手段も絶たれて、親との勘当の原因だって言ってしまえばあいつ。お前を一人孤独の状態にさせたのだって、お前の逃げ場を奪うため。……そこまでされていたのにお前、警察沙汰じゃないっていうのか?」
こうして一つ一つされたことを箇条で伝えると、林の顔はわかりやすく曇った。多分、納得したのだろう。
「……わかった。行こう」
「善は急げだ。まずはこれから病院に行こう。そこで診断書を貰えれば、被害届の受理の確率が段違いだそうだ」
「わかった」
「そう言えば、お前の家ってどの辺だ。鉢合わせになりたくないんだけど」
「大丈夫。ここからは三駅くらい離れた場所だから」
「三駅?」
三駅だとしたら、今朝立ち寄ったコンビニからも結構な距離となるのだが。林はどうして、あのコンビニに立ち寄ったというのだ。
「……正直、帰りたくないなと思っていたの。あの家に」
殴る蹴るの暴行をされ、青アザが尽きない体になり……精神的な支配もされ、よく考えれば彼女の精神はもう限界寸前だったのだろう。
「なのに、あたし変だね。あんたに色々ズバズバ本当のこと言われて、意固地になりかけるだなんて」
「……一番大切なことは内容ではなく結果だ。望んだ結果になるのなら、どんな過程を辿ろうが良いじゃないか」
「……うん」
「それじゃあ、行こうか」
そうして俺達は、家を出た。
移動は電車を主に利用したが、幸い林の恋人と鉢合わせになるだなんてことはなかった。
林が彼女の恋人との家に帰らなくなって、約半日。林には言っていないが、多分、彼女の恋人は今頃、血眼になって林を探しているだろう。
もし道中見つかれば……恋人が林になにを仕出かすか、わかったもんじゃない。
細心の注意を払いながら、俺達は病院へ行き、そうして無事診断書をもらった。林は全身の打撲だけでなく、青ざめていた手首は剥離骨折までしている始末だった。
彼女は笑っていた。笑うしかなかったのだと思う。俺は、林との付き合いもそこまでだからか、怒りの感情が沸くことはなかったが……どうして彼女がこんな目に遭わないとならないのか。そんなことを考えていた。
警察へ俺達は向かった。
警察でもまた、道中残忍なあの男と会うことはなく、林は一人、被害届の受理のため、署内を歩き回っていた。
「おつかれ。どうだった?」
スマホを持たない彼女のため、俺は署内一階の椅子でずっと彼女を待っていた。
おおよそ三十分くらいで、彼女は帰ってきた。手には、病院で巻かれた包帯がされている。
「受理してもらえたよ。これで一安心」
「そっか。良かったな」
「うん。……本当、今回の件はその……ありがとう」
深々と、林は俺に頭を下げた。
「いいよ。言ったろ。俺はお前のために、今回の行動を起こしたわけじゃない。全部は自分のため。だから気にするな」
「……うん。ありがとう」
「警察の方は、何か言っていたか?」
「……あー、うん」
「何を言われた?」
「……一つ、相談したいことがあって」
「相談?」
「うん。……その、まずあたし、現状を全てつつがなく警察に伝えたの。恋人に暴力を振るわれていること。友人との連絡を絶たれたこと。そして、その恋人と同棲していること」
林は、同棲の部分だけ、含みを持って発言をした気がした。今更俺は気付く。そういえばこいつ、あの家に恋人がいる以上、家に帰れないじゃないか。被害届の受理から、加害者への連絡はどれくらいで行くのだろう? 糞、その辺、しっかり調べておくんだった。
「それで、あたし住む場所ないでしょ?」
「そうだな」
「警察から、二つの提案をされたの」
二つ、か。
「一つは、警察や配偶者暴力相談支援センターに相談すること。そういう場所に相談したら、保護してもらえるんだって」
「もう一つは?」
「知人や親を頼ること」
知人、か。
「ねえ、山本」
「うん?」
「お願いがあるの」
「……いや、それは駄目だろう」
聞くまでもなく、林の言いたいことがわかった。林は、俺にしばらく自分を匿ってくれ、と言いたいのだろう。だって林は、親には勘当され、友達との連絡手段も絶たれている。実質、今の彼女の頼れる相手は、俺だけだ。
「……ちょっと待て、そんな目で見るな。怖いから」
林はにらみつけるを使った。俺の防御が下がった。なんて、冗談を言っている場合ではない。
「お前だって嫌だろう?」
「何が」
「……恋人にあんな酷い目に遭わされて。男性不信になっているだろうってこと」
「大丈夫」
「いや、駄目なはずだ」
「……むしろ、今はあんたといたいの」
一瞬、ドキリとしてしまった。
「今回の件、一番頼りになったのはあんただもん。警察でも家族でも友達でもなく……あんたなの」
「……だからそれは」
「自分本位でも構わない」
先んじて言われて、俺は返す言葉を失った。こう見えて俺は、アドリブに弱いのだ。
「……自分本位でもなんでも、あんたがあたしを守ってくれたのは事実なの。あんたにコンビニで、家に来いって言われた時は……実は内心、すごく嬉しかった。地獄から解放されるかもって思ったんだ」
だったら、最初から素直に話を聞いてくれません? 何故にごねたの? 女心ってわからない。
「いやでも」
「あたし、何でもするよ?」
何でもする。なんと魅惑的な響きだろう。
「何もする必要はない。ただ俺は、お前が元気ならそれで構わない」
「だったら、あんたがあたしを守ってくれれば確実じゃない」
「確かに」
違う。思わず認めてしまった。
……どうしようどうしよう。話の流れでこのままだと、林が俺の家に住み着いてしまう。一時は助けるために彼女を家に招いたが、それはあくまで一時的な話。俺自身、一時的以上を望んでいなかったから、彼女を一時的に家に泊めたのだ。あれでも、結局彼女を家に保護するのも、恋人が捕まるまでか彼女が親からの勘当を取り下げるまでの間の一時的な話なんだよな。
そもそも俺は、どうして彼女を家に招きたくないんだっけ。彼女が男性不信だから? でもそれを伝えたものの、彼女は大丈夫と言っているわけで。
ああもう、混乱して自分が何を言っているかわからない! チクショウッ!!!
……何だか面倒臭くなってきた。
「わかった。わかったよ……」
「本当?」
「……ああ、一時的にな。ほんの一時的に……ウチに匿うよ」
「ありがとう。山本!」
再会を果たして数十時間。
一番の笑みを見せた林に、僕は微笑み返すのでもなく、呆れたため息を吐くのだった。
こうして、壮絶な一幕を経て、我が家に奇妙な居候がやってきた。