スカッとしない話
林が部屋に居候をするようになって以降、この部屋ではスカッと系動画の早口ボイスが毎日のように聞こえていた。あの手の動画は、作り手側のとにかく相手を貶めたいという気持ちだけが伝わってきて、非常に嫌いだ。あの手の動画の声が聞こえるだけでイライラする質の俺にとって、林の行動の変化は正直助かる限りだった。
ただ、じゃあ林がそのスカッと系動画を見ていた時間、今何をしているかと言えば……とにかく林は、色々なことをしていた。
一つはアルバイト。彼女は俺がいくら言おうとも、この部屋の家賃。そして毎月の食費を半分出すと言って聞かない。その金の工面のため、最近の彼女は時間さえあればアルバイトに勤しんでいる。
もう一つが、勉強。いつか林は、将来的に簿記含めた複数の資格を取り、就職をすると言っていた。まずは直近に行われる簿記試験のため、今は必死に勉強をしているといった具合だ。
そして最後が、家事。俺は掃除以外の家事がてんで苦手だ。まあ、我ながら俺は凝り性だから、ハマった途端に多少はマシになるのだろうが……ハマるよりも前に、家政婦のように何でもこなしてくれる居候が出来てしまい、そのタイミングを逸した形だ。
「……お前、ちょっとは休んだらどうだ?」
赤いフレームのメガネをかえて、女の子座りで小さな机に参考書を広げ、勉強に勤しんでいた林は顔を上げた。
「別に疲れてないけど」
「そうか? 最近のお前、バイトに勉強に家事に、とにかく忙しなく見えるぞ?」
「バイトに勉強に家事に、とにかく色々やってるのはあんたもじゃない?」
コンビニバイト。大学での講義を含めた勉強。掃除(家事)。
「確かに」
いや、何納得しているんだ俺は。
俺は納得しかけた気持ちを振り払うため、首を横に振った。
そう言えば林は、声はいつも通りだが、参考書の方をずっと見ていて、俺の方を見てくれない。最近、ずっと林と目があっていない気がするのは……気のせいか?
くそ。これは思ったより、事態は深刻なのかもしれない。
「いや違う。違うぞ。最近のお前はなんというか……そう、切羽詰まって見える」
「悪いの?」
「悪いだろ。根詰めすぎたっていいことないぞ。……適度な休息が必要だ」
彼女を部屋に匿う身として。
一時、彼女が恋人に利用され、辛い目に遭わされたことを知っている身として。
しばらく林には、適度な安息を挟みながら気楽に生活をしてほしい。
それが俺の願いだった。何よりそれが一番、ドメスティック・バイオレンスで受けた心の傷を癒やす最適解だと思っていた。
「あたしには、数ヶ月何もしてない時期があった。その間、皆に置いていかれてる。今必死にならないで、いつ必死になるのさ」
「……わかった。じゃあせめて今日は休もう。明日から頑張ろう」
一日でも休めれば、少しは気も晴れるだろうし、体だって当然休まる。
しかし、林はやはり俯いたままだった。
……柄ではないが、彼女にはこの部屋でお世話してもらっている恩義もある。やるしかない。
「林、大丈夫だ」
「ひっ」
俺は林に近寄って、両肩をガシッと掴んだ。
……目があった林から悲鳴が聞こえて、一瞬凹んだ。そして、ドメスティック・バイオレンスで男性に恐怖心があるはずだと気付いて、やりすぎたと更に罪悪感から凹んだ。
ただ、ここでも引くのも男じゃない。
「一日くらい、絶対に大丈夫だ。何なら俺が勉強教えてやる。こう見えて俺は、結構頭も良い。中学の時にハマったから簿記二級までなら傾向もある程度把握している。だから俺に任せてくれ。だからたまには、ゆっくり休もう」
……林の顔は、みるみる赤くなっていた。
これは、怒られる。
高校時代、結構ガチ目に林に嫌われていた俺だからわかる。これは今、林は大層ブチギレていらっしゃる。
怒っている理由はそう……あたしの勉強の邪魔しやがって。だとか、あんたなんか頼りにならない。だとか。そんなところか。
でも、引くわけにはいかない。
やはりこれまで彼女は散々な目に遭ってきたのだから、少しここにいる間くらい、楽にしていてほしいと思ってしまうのだ。
俺は、林をじっと見据え続けた。
林はしばらく俺を見つめて、顔を真っ赤にさせたまま……生唾をゴクリと飲み込んだ。
「わ、わかった。わかったから……」
あれ、怒られると思ったら意外と……素直に受け入れた。
「……あ、あんたの言うことだから、聞く。……聞くよ」
渋々、林は机に広げていた参考書を閉じた。
「ありがとう。林」
俺は林から離れた。怖がらせるようなことをしてしまい申し訳ないと思ったが、今ここでは言い出しづらくて、俺はテレビの方に体を戻すことにした。
しばらく、俺達は無言でテレビを見ていた。
ワイドショーで笑う俺を他所に、林はずっと無言のまま。ただ時折、林から刺さるような視線を浴びているような気がした。
怖いから、当然そちらの方は向けない。
しばらくして、林の方からスカッと系動画の早口ボイスが聞こえてきた。
……こんなことなら、林を説得するんじゃなかった。その時俺は、自らの行動を少しだけ後悔した。