マインドを変えること
お昼ごはんを食べる頃、俺は床で寝ていて痛む体のせいで目を覚ました。そしてぎょっとした。目の前に何故か、ハーフパンツとTシャツのみという肌色の多い少女がいたからだ。
そう言えば、寝る直前まで遭遇した出来事を、俺は思い出していた。彼女は林恵。高校時代の俺の同級生で、上京先のこの地で、深夜バイト中に再会を果たした。彼女は所謂、ドメスティック・バイオレンスの被害者だった。
再会して数時間。今更俺は、高校時代は亜麻色の髪をしていた彼女が、黒色に髪を染めていることに気がついた。いや染めたのか……染め直したのか。まあ、そこは大して重要なところではない。
「変わったな」
一人、俺は時間の流れの残酷さを目の当たりにした気分になり、辟易していた。この前まで高校生だった目の前で寝る少女は、今では同棲するような相手がいて、絶賛悩み中。高校時代までののほほんとした時間では味わえなかったような体験をしている。勿論、羨ましいとは微塵も思わない。むしろ、可哀想とさえ思うのだが……置いていかれたような気持ちになるのは、どうしてか。彼女とは別に高校時代も仲が良かったわけではないのに。
少し小腹が空いた俺は、体を起こして昼ごはんを作ることにした。多分、香ばしい香りにつられて、その内林も目覚めるだろう。冷蔵庫を開けて、焼きそばを作ることにした俺は、具材を切って、麺と具材を炒め始めた。
「んあ……」
「起きたか。体は痛くないか?」
本当に香ばしい匂いに釣られて起きてやがる。調理に集中したまま、俺は言った。
「あー、そっか」
林は頭を掻いた。一体、何があー、そっか。なのだ。
「おはよう、山本。身体中痛いよ」
「ベッドで寝ろって言ったのに」
「うっさいなあ。男ならそんなみみっちいこと気にしないでよ」
お前が身体中痛いって言ったんだろ。言いかけて止めた。……ああでも、俺が体が痛くないかと尋ねたから、それに彼女が答えたのか。じゃあ、俺が悪いな。
「焼きそば?」
気付いたら背後に迫っていた林が、尋ねてきた。
「うん」
「あんた、料理出来たんだ」
「多少はな」
数ヶ月も一人暮らしをすれば、多少は自炊も覚える。まあ、本当に多少だけども。
「そろそろ出来るから、待ってろよ」
「いいの?」
「おう」
「……ありがとう。あの人はそんなこと、全然言ってくれなかったよ」
自ら古傷……いや、現在進行中の傷を舐めるとは、この女も中々馬鹿である。チラリと見た林の横顔は、何だか少し吹っ切れたように見えた。
数分の調理後、俺は更に二人分の焼きそばを盛り付けて、リビングに戻った。
「頂きます」
「いただきます」
俺達は手を合わせて、焼きそばを食べ始めた。うん。結構上手い。市販の味だ。
「美味しい」
「どうも」
俺は返事をしながら、スマホを取り出してポチポチし始めた。一人暮らしを始めてからは、俺のご飯中のスマホを咎める人はいなくなった。だから、いつもの調子でやってしまった。
「あんた、行儀悪いよ」
しかし、今日はこの部屋に来客がいた。申し訳ない、と言って、俺はスマホを机に置いた。
「ごちそうさま」
「ご馳走様。美味しかったよ」
「まあ俺は、パックの裏にある通りに調理しただけなんだけどな」
「もうっ、折角褒めてんだから、斜に構えたこと言うな」
「……ごめんなさい」
高校時代の彼女が抜けず、怒らせると怖いから、俺は不承不承に謝った。机には食べ終わりの皿が二枚。それらを洗おうと、俺は立ち上がる。
「いいよ。あたしやる」
「なんで。お前は客人だろ」
「……一宿一飯の恩だよ」
林は昨日この家に来た時点で、頭を冷やすために俺がこの家に彼女を上げたことにお礼を言っていた。つまりどう転んでも、彼女はそれなりに今回の件、俺に恩義を感じたわけだ。
個人的には、彼女はこれまで散々な目に遭ってきたわけで、この家にいる間くらい英気を養ってほしいものだが、寝る前みたいな変な恩義の返し方をされるとそれはそれで迷惑なので、俺は素直に彼女の気が済むよう、やらせようと思い至った。
今度こそ、俺は林に咎められることなく、スマホを弄りだした。調べ物をしたかった。
「終わったよ」
「ありがとう」
林は、机を挟んで俺の対面に腰を落とした。彼女と向かい合うと……寝る前の一件を思い出し、上手く目が合わせられない。まったく、いくら怯えていたとはいえ、人を抱きまくらにはしないでほしいものだ。そして、それ以上の行いを挑発するのも同様に止めてほしい。俺相手だから無事で済んだんだ、と口酸っぱく言ってやりたい。俺みたいな意気地なしでなかったら、お前今頃メチャクチャにされてたぞ。そう咎めてやりたくて仕方がなかった。
無論、俺にはそんなことを言う意気地もないけれど。
「少しは頭、冷えたか?」
俺は林に尋ねた。
「……うん、そうだね」
「じゃあ、話し合おう。まあ話し合う、と言っても俺はこんな性格だろう? だから、結局全部はお前の意思次第だ」
「……昨日も言ったけど、あんた達観しているよね。まるで人生二周目みたい」
「違うな」
「そうね。人生二周目なんて人、この世にいるわけないか」
「そうじゃない。お前の言い方はまるで……人生二周目になったら、世渡り上手になる、だとか、上手い人生が歩めるみたいに聞こえる」
「近からず遠からず。……違うの?」
「違う」
俺は断言した。
「仮に人生二周目を体感したとして、断言できる。そのままだと結局、迎えられる人生は一周目と変わらない。そりゃそうだ。仮に一周目で人生の岐路を決める体験をしていたとして、二周目で同じ場面に出くわしたとして、マインドが変わっていないと選ぶ選択は結局変わらんからさ。ならどうして人は皆、人生二周目を体感したらより良い人生になると思っているか。それは、マインドが変わると思っているからだ」
林は俺の力説を聞いているのか、いないのか……。
「一番大切なことは、マインドを変えられるような体験をすること。そんな体験をするには、まず物事から逃げず、まっすぐ見据えて戦うことが必要だと俺は思っている。逆にそれが出来れば、二周目なんて体験せずとも、人生は素晴らしいものになるに違いない」
「へえ」
「曖昧な返事だな。……まあ良い。とにかく俺が言いたいのは、お前もちゃんと現状と向き合えってことだ」
「現状と……?」
「そう。逃げず、自分の状況を客観視して、そうしてどうしたいのか、答えを導くんだ。そこでしっかり悩めば、後々後悔することは絶対ない」
「それはわからなくない?」
不安そうに、林は俯いた。
「自分の状況を客観視しても、結局主観的な考えは混じる。答えを導く時、臆病風に吹かれることだってある。……後悔しないなんて、絶対無理」
「無理じゃない」
「無理だよ……」
「大丈夫だ」
「……どうして?」
「だって、そのために俺がいるんだろう?」
らしくない言葉と笑顔を貼り付けて、俺は言った。まあ、珍しく斜に構える言い回しが浮かばずストレートな物言いになったが、俺が言いたいことはつまりそういうことだ。
何ら難しい話ではない。
自分だけで不安なら、他人を頼る。それは元来……古来より伝わる、考える、そして共有することが出来る人間の特権だ。
「……あんたがこんな頼もしい人だとは思わなかった」
「頼もしいはずがない。結局俺も、自分本位でお前の相談に乗ろうとしているだけだ」
「なにそれ」
冗談で言ったわけではないのだが、クスッと林は微笑んだ。昨日、上京先で再会を果たしてから、一番の笑顔だった。
「じゃあ一緒に考えよう。お前が今後、どうするべきなのか。まずは……辛いだろうけど、恋人とのこれまでを教えてくれ」
それから林は、数分俺に、上京してからこれまで、彼女の身に起きたことを話してくれた。正直、面白い話はそこまでなかった。
恋人との出会い。
親との勘当。
同棲。そして暴力。暴力。……暴力。
壮絶で、自分の身に起こったとしたらゾッとして、彼女の話はまったく楽しめて聞けなかった。
「でもね、あの人ずっと怒っているわけではないんだよ。謝罪もする。突然殴ってごめん。痛かったよね、もうしない。だから許してほしい。いつもそう懇願するんだ」
「ドメスティック・バイオレンスをする人の行動は、一定の周期があるらしい。暴力を振るう時期と、暴力に対して反省や自己嫌悪に陥る時期。そして、どんな些細なことにもイライラする時期」
「……あー」
林は、どうやら共感したらしい。
「あんた、詳しいんだね」
「さっき調べた」
「いつの間に?」
「お前が洗い物をしている間だ」
「なるほど」
感心げに、林は納得した。
「これまで他人に相談は?」
「あんたが初めて」
状況を考えればおかしくないが、彼女の高校時代などを見れば違和感を覚えた。親は多分、相談不可能だっただろうが、彼女は俺とは違い、親しい友達は多かった。そんな連中に連絡し、相談することは出来なかったのだろうか。
「そう言えばお前、スマホはどうした?」
コンビニで再会し、ここに連れてくるまで、林は財布と衣類のみという軽装だった。今どきの人なら必需品のスマホを彼女はどうしたのだろうか。
「持ってない」
「持ってない?」
「……俺がいればいいだろって」
「……壊されたのか」
黙って、林は頷いた。
「友達の連絡先とか、全部パー。新しいスマホも買わせてくれないし、完全に詰んでた」
「……そっか」
思ったより深刻な状況に、なるだけ明るく努めるつもりだった俺の顔にも陰が落ちた。林の恋人の独占欲は、正直言って凄まじい。聞いているだけで身の毛がよだつ。
「大体わかった。……その、辛い話をすまないな」
「あら、素直に謝るんだ」
「……俺にもちゃんと、人の心があったらしい」
「そっか」
林は、苦笑していた。聞いた話の状況に慣れてしまったためか、はたまた今は落ちついているからか、そこまで話を重く受け止めている様子がないことは、わずかな救いだと思った。
「それじゃあ、お前が今後どうするべきか話そうか。まず俺の意見だけど……やっぱり、さっき言った意見と変わらないよ。お前は、恋人の下に戻るべきではない。早く、そいつから手を引くべきだ」
はっきりと俺は言い切った。まあ、言っていることはさっきと変わらない。たださっきはその結果、あいつの反感を買った。果たして今は、どうだろう?
彼女の一挙手一投足に、俺は不安を覚えていた。果たして彼女は、俺の言葉に同意を示してくれるのか。
さっきは思った。彼女に何か遭った時、俺はキチンと彼女に言ったんだ。そんな責任逃れが出来れば良いとだけ思っていた。そもそも、彼女の友達は俺と彼女が出会っていたことなど突き止めることはないだろう。故に俺は、彼女の友達に責められることはきっとない。
では、一体誰が俺を責めるのか。
それはまごうことなき、俺自身。一応知り合いの彼女に何か遭った時、自らの罪悪感に潰されないように、今回俺は、彼女に自分の意思を伝えたのだ。
さっきまでは、俺の問いかけに彼女が納得しなければそれで良いと思っていた。
ただ、今彼女の状況を聞いて……話は変わった。ここまで深刻な男との関係を容認した。そうなった時点で俺は多分、罪悪感で押しつぶされるだろう。
どんな言葉を用いても。どれだけ彼女に嫌われようとも。俺は、彼女にその恋人との関係を絶たせないといけない。
……林は。
「……まあ、時たま暴力は振るうけどさ。あの人はあの人で、優しいところもあって、可愛いところもあった。そんな人なんだよ、あの人は」
「……林」
「……でも」
林は、穏やかに微笑んでいた。
「あんたの言う通りだと思うんだ。あの人は結局、自分の私欲のためにあたしに付け込んで、あたしを利用している。あたしを束縛して、独占欲を満たして、言っちゃえば王様気取り。……あんたに言われて、目が覚めたよ」
「……それじゃあ」
「あの人とは別れようと思う。もう、関わりたくない。二度と」
俺は、ホッと胸を撫で下ろした。