林恵の誤解
ヒロイン視点になります(二回目)
悪い夢から目を覚ました時、あたしは両目から涙を流していた。あの時の記憶は、時間の経過と共に少しずつ克服されつつある。だけど不意に見る夢でばかりは、さすがに平静は保っていられないのだ。
今、この部屋にはあたしと同居をしている男がいる。
そんな男に今のこんな顔を見られたくなくて、あたしは必死に件の男がどこにいるのかを目で探した。
男は……山本は早起きだった。自堕落極まる大学生の夏休み。変態的趣味を持つあいつは前夜に何時に寝ようと朝六時には目を覚まして、一人先んじて掃除を始める。
やはり、布団に山本の姿はない。
リビングにもいない。
「うっひょー! 排水溝に詰まった髪の毛しこたま取れたーっ!」
どうやら風呂場にいるようだ。
いつもはクールぶるあいつだが、掃除の時になると内心に宿るパッションが抑えられなくなるのか、時折奇声を発する。
一見するとやばい奴だが、二見、三見してもどう見てもやばい奴で救えない。
だけど、今朝ばかりはそんなあいつの馬鹿な奇行も笑えてしまう。あたしは目尻の涙を拭って、あたしをあの地獄から救ってくれた掃除馬鹿のため、朝食作りを始めるのだった。
朝ごはんを二人で食べて、しばらくしてあいつはまた掃除を始めた。夏休み最終週の金曜日。いつも通りのあいつに相談事を持ちかけることは、昨晩あいつが寝息を立て始めた頃に決めたことだった。
「ねえ、山本。今日行きたい場所あるんだけど」
「おう。どこだ?」
「本屋」
「本屋か」
掃除に夢中であたしに背を向ける山本は、しばらくしてあたしの言葉を真面目に受けたのか、天を仰いで唸った。
「俺も行こうかな」
「いや、最初からそのつもりだけど?」
「え?」
「え?」
何やら認識の齟齬があるようだが、あたしがあいつに本屋に行きたい、と言ったのは、行ってくる、の意ではなくて、一緒に行こうの意なのだ。そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされても困る。
「……まあいいけど。林は何を買うんだ」
「簿記の参考書」
「何だ、簿記試験を受けるのか?」
「うん。……このまま部屋にいても、ただの穀潰しでしょ?」
作業に戻っていた山本が、顔だけこちらに向けた。
しばらくの無言。
「……掃除以外の家事をしてくれるお前のこと、穀潰しだなんて思ったことないが?」
「何言ってんの。あんた大学生で禄な稼ぎもないのに、こんなニートを飼ってるだなんて負担でしかないでしょ」
「ニートだなんてそんなこと言うなよ。お前は今、英気を養っているだけじゃないか」
「……あたしも働く」
「だから……」
「最初はアルバイトだけど、資格を取って就職もする」
山本は微妙な顔を崩さない。多分、あたしを匿っている身であるにも関わらず、彼はあたしのこと、どこまで介入してよいのかわかっていないのだ。馬鹿な奴だ。そんな悩むこともなく、あたしのことを好き勝手にすればいいのだ。どっかの誰かみたいに、ストレスのはけ口にでも、欲求のはけ口にでも。
少なくともあの地獄からあたしを救ってくれたこいつには、その資格がある。あたしはそう思っている。
「……大学に復学することは、もう無理なのか?」
山本の言葉は、あたしの虚を突いた。
まさか、そんなことを考えていたとは。予想もしていなかった。
「無理でしょ。もう辞めちゃったし」
「だけど、お前は……追い込まれて辞めざるを得なくなっただけじゃないか」
山本は悲しそうに項垂れていた。彼は基本変人だが、時折こうして酷く悲しそうな顔を見せる。この顔は見たくない。だって彼がこういう顔を見せるのは大抵、あたし起因のことだから。だから、罪悪感で押しつぶされそうになる。
「とにかく、もう決めたことだから」
「……そうか」
「ありがとうね。あたしなんかのために悩んでくれて」
相変わらず山本の顔は晴れない。それからしばらく、山本は部屋の掃除を微妙な顔でやっていた。
そして、お昼を食べ終わった頃に、あたし達は本屋に出掛けた。さすがにこの頃になると山本も気持ちを切り替えたのか、いつも通りの彼だった。
本屋。
あたし達はひと悶着を起こしていた。
「だから、別々に行動した方が効率的だろ」
「だぁーからっ! 効率を求めるために一緒に本屋に来たんじゃないの!」
効率重視の山本に強めの口調でそう言うと、彼は折れた。後ろでぶつくさ言う彼を引っ張りながら、あたしは本屋を二人で巡った。何故だろう。背後に彼がいるからか、幾分か本屋散策は楽しかった。
あたしは予定通り簿記の参考書を買い、山本はお掃除術の本を買っていた。
日頃は口数少ない彼だが、自らが購入を決めた本を語る時は、いつになく饒舌であたしにその本の凄さを熱弁していた。彼が言っていた話は一割、いや0割しか理解できなかった。
「ほれ」
山本は突然、あたしの前に手を出した。
「何? お手しろって?」
「違う。本、持つよ」
「……ありがと」
あたしは神妙な面持ちで山本に本を渡した。
実は意外と、この男は気が利く。一緒にスーパーに行けば買った物は絶対に持つし、歩道を歩く時は絶対に道路側を歩く。
それでいて、結構女の子の気心にも気がつくし……いつか、あたしはあいつのことをDTだと思った。今もそれは疑っていないが、異性と交際の一つくらいはしたことがありそうな気はすると思い始めていた。
ただ、その考えに至る度にあたしは首を振ってそれを否定しようとする。何故だかいつも、そういう思考に陥る度に嫌な気分になるのだ。
「悪い、帰る前にトイレ寄っていいか?」
「ん。待ってる」
山本はトイレに向かった。
あたしは、本屋の出口の側でスマホをイジることにした。
「あれ、メグ?」
聞き覚えのある声だった。
「……あっ、灯里」
うっかりしていた。
ここは灯里の家からも最寄りの本屋。鉢合わせになる可能性があったのだ。
……あの日。
山本が灯里に告白をした過去があると知った日から、あたしは灯里と遊んでいない。嫌ったわけではない。あたしだって、男子の告白を振ってきた回数は、一度や二度ではない。
……ただ、内心に宿った感情のせいで、彼女を避けていることは間違いない。
「もー。あの日から全然連絡くれないじゃん。今日はどうしたの? こんなところで」
「……ちょっと買い物。簿記の勉強しよっかなって」
「簿記? へー、メグ、資格取るの?」
「……うん」
「そっかそっか。そっかー! うん。頑張って。絶対、頑張ってね! 応援してる」
「ありがとう」
「……そう言えば」
灯里は唐突に、周りを気にし始めた。
「今日、山本君は?」
何気ないただの一言。
あたしがあいつの家に居候していることを知っている灯里だからこそ口から出た、ただの……世間話。
ただ、思ってしまった。
思ってしまったのだ。
……かつて、山本のことを振った癖に。
なのに、どうして灯里は、平然としているんだろう。
思えば、おかしかった。
高校時代、灯里の側にいつもいた。彼女は数少ない、あたしを利用するためだけに側にいる人ではなかった。だから心を許せた。だからあたし達は親友になれた。
……いつも一緒にいたから知っている。
灯里は、男子に対していつも一定の距離を置く。ボディータッチなんてもってのほか。彼女はあたしより男子の注目を集めたから、むしろ余計に、期待さえさせないように、男子との接触は極力避けるんだ。
なのにこの前灯里は、山本に平然と……!
弄んだのだろうか。
かつて自分に告白した山本のことを、灯里は弄んだのだろうか。
……おかしな気分だった。
大切な親友相手なのに、胸に宿ったこの感情は。この激情は……。
「……聞いたよ、灯里」
「ん、何?」
「山本に高校の時、告白されたんでしょ?」
言うつもりはなかった。
山本はあたしに、灯里に告白したという話を言いたくなさそうにしていた。いや多分、本当に言いたくなんてなかったのだろう。あたしが無責任にあいつの感情を逆撫でしたから、あいつは言うしかなくなった。
その結果、あたしは山本を悲しませた。
どんな形であれここでの追求は、山本を苦しめる。
そんなことあたしは、微塵も望んでいやしない。
……なのに。
なのに、言ってしまった。
灯里の顔が曇ったことがわかった。
しばらく、灯里は逡巡したようだった。
彼女のこんな顔を見るのは、初めてだった。高校時代、一番の親友だったのに、だ。
「聞いたんだ」
「……うん。全部聞いたよ」
「そっか。聞いちゃったか」
灯里は、諦めたように苦笑した。
「……そうだよ。メグの言う通りだよ」
「……やっぱり」
「ごめんね。隠したかったわけじゃないの。言うタイミングがなかっただけ。ただそれだけなの……」
そんな言葉がほしいわけではない。
そんな言葉を聞きたいわけではない。
……ただ。
ただ、あたしは……あいつの気持ちを弄んだことを、灯里から山本に謝ってほしかった。それだけだったんだ。
諦めたように、灯里は言った。
「メグの言う通り、あたし達、付き合ってたんだ」
とても悲しい顔で、白状したんだ。
「……え?」
あたしの口から、とてもとても情けない声が漏れた。
ここまではその日に語り終えるべきだと判断した。
そして気づく! ストックがない!
2万字くらい書き溜めたストックが!!!
ない!!!!!
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