心地よい時間
たこ焼きパーティーを終えて、俺達はしばし笠原の部屋で雑談していた。まあ、雑談していたのはほとんど林と笠原で、俺は聞き役だったりいじられ役だったり、とにかく碌な役回りは与えられなかった。
笠原は林との再会が余程嬉しかったのか、高校時代に知る彼女よりも一層、楽しそうに微笑んでいた。
雑談は、随分と長い間繰り広げられていた。
こうして女子の部屋に訪れる機会、俺は結構少ない。だから、最初は柄にもなく結構緊張していたんだ。しかし、あまりにも林も笠原も俺のことなど気にも留めてなくて、気付けば俺は猛烈な睡魔に襲われていた。
「山本」
「んが」
気付けば俺は、笠原の部屋でうたた寝を掻いていた。
目を開けた時、林は大層呆れ顔で俺を眺め、笠原はアハハと笑っていた。
「そろそろ帰るよ」
「え? ……ああ、うん」
恥ずかしいところを、笠原に見られてしまった。顔が熱い。何故だか、この部屋に来る前以上に、今俺はここにいたくなくなっていた。眠っていたせいで気だるい体を起こそうとした。
「あ、ちょっと」
笠原は何かに気付いて俺を静止した。
そうして、彼女はティッシュを数枚つまみ、俺の頬にそれを添えた。
「……よだれ垂れてるよ」
「……失礼しました」
笠原によだれを拭われながら、俺は多分傍から見てもわかるくらいに顔を真っ赤に染めていた。早くこの顔を周知に晒させないように隠したい。だけど、よだれが拭い終わるまで、それは出来ない。一瞬の出来事のはずなのに、どうしてか今は時間が酷く長く感じた。
「はい。もう大丈夫」
「……ありがと」
俺は立ち上がった。寝ぼけていた体はすっかり、覚醒していた。
ふと、隣に立ち待っていた少女の視線を、俺は痛いくらいに感じていた。
「悪かったな、待たせて」
今回はさすがに俺が悪い。
俺は、林に一つ謝罪をした。
「……待ってない。これくらい」
「……あ、そう」
何だか林との間に気まずい空気が流れている気がした。
「帰るよ」
「おう」
林は唐突に俺の手首を握って、足早に歩き出した。
「いつものスーパーで特売セールあるから、付き合って」
「オカンか」
林が今急いている理由を知って、俺は呆れた声を漏らした。
「あんた、卵一パックが格安で買えるんだよ? お一人様一パック限定。急がない方がおかしいでしょ」
「だからオカンか」
「あー、もう。とにかく行くよ。じゃあまた今度、灯里」
「うん。またね。メグに、山本君」
別れの挨拶もほどほど……というか、俺は出来ずに、俺達はようやく笠原の家を後にした。慌てる林の後を追いながら、俺達は俺達の住むアパート最寄りのスーパーに急いだ。件の卵は、なんとか無事に二パック入手することが出来た。
「上出来っしょ」
「そうだな。寝起きに走ったせいでグロッキーなことを除けば、これ以上ない成果だ」
「じゃあこれ以上ない成果ってことで間違いないじゃん」
「ナチュラルに俺の身を案じない発言は止めろ」
スーパーの帰り道、俺達は並んで歩いていた。
夕暮れ時。夏休みはほぼ終わりの頃だが、外はまだまだ蒸せるくらいに暑苦しい。
林は、俺の部屋に来た当初は体のアザを隠すためにスウェットだとか長袖をよく着ていた。ただ最近はアザも引いてきて、風通しの良い半袖を着れるようになった。手首に巻いていた包帯も先週取れた。警察のお世話になった例のあの男から受けた痛々しい傷も、癒えつつあった。
「……お前さ、思ったんだけどさ。笠原の家に泊まればよかったんじゃないか?」
林はかつての日常を取り戻しつつある。そう思った時、俺はふと気になった。
笠原は、今俺と林の住むアパートから二駅分離れた場所に住んでいる。地元と比べれば大分近い距離だ。いつでも気楽に寝泊まりさせてもらえる距離だ。
「そもそも、俺の部屋じゃなくて笠原の部屋で住まわせてもらえばいいんじゃないか?」
そして何より、林としては俺なんかと生活を共にするより、気心の知れた笠原のお世話になった方が、林も安心して夜眠ることが出来るのではないだろうか。無論、俺は彼女に危害を加える気など毛頭ないが、向こうから見て俺が人畜無害かはわからない。
「あんたさ、あたしを怒らせたいの?」
「俺の発言のどこをどう切り取ったら怒らせたいだなんてことになるんだ」
「……教えといたげる。あたしが一番嫌いな人種。それは、薄情な奴」
薄情な奴。
なるほど確かに。高校時代ちゃんぽらんな発言を繰り返していた俺に、林は度々憤りを覚えた顔だったり、キレたり、とにかく禄な態度は示さなかった。
真摯に丁寧に献身的に。
他称女王様だった林が周囲に望むには幾分かハードルが低いが、まあ、腑には落ちる。
何となく今、林が俺に怒りを覚えた意味を理解した。
つまり林は、自分のことを薄情者なんかと一緒にするな。そう言いたかったんだろう。
「……あんたにはどれだけ尽くしても返しきれない恩がある。だから、あんたの側で、あんたの面倒見るのはあたしの当然の義務じゃん」
何だか背中がむず痒い。
「こ、この前までは部屋出てこうとしていた癖に、現金な奴だな」
「……あんたの立場になって考えたら、あたしなんてさっさと去ってほしいだろうって思っていたから。でも、あんた言ったじゃない」
「何を」
「……悪い気はしないかなって」
その発言は忘れもしない。
林が諸々の事情で賃貸を借りれなかった日、俺が彼女に伝えた言葉。言葉はつっけんどんだが、その実性格が悪い俺はその言葉に色々な言霊を乗せていた。
その一つには確かに……林との生活を続けたい。そういう思いもあった。
どうやら林は、それを汲み取ったらしい。
俺は素直に驚いた。
あの時の俺の発言の意図を彼女が汲み取ったことにではない。……俺が彼女とまだ生活を続けたいことを望んでいると、林がまるで一切、疑わなかったことにだ。普通思うだろう。自意識過剰かも、と。相手はそんなこと思っていないだろう、と。
なのに、彼女は……。
顔が熱い。寝起きで、いつもより神経が研ぎ澄まされているのだろうか? 多分、そんなことはない。だったら、どうして……?
「今日の夕飯は何だ?」
「天津飯」
「頼む」
短い会話をして、俺達は帰路に着く。そこからの会話はほぼなかった。スーパーから家までの距離は五百メートル。信号があったりするから、歩いたら五分くらいか。
その五分間の俺達の会話は、最初のそれ以降ほとんどなかった。
なのに、気まずさはまるで感じなかった。
……林を部屋に匿うようになった最初の方は、無言の時間が苦痛だった。何か喋れよ。林にそんなことを思ったこともしばしあった。
だけど今は、この無言の時間も心地よい。
……遠くでカラスが鳴いている。
公園前、子供達の喧騒とした声が響く。
「ねえ、山本?」
林が、口を開く。
「あんた、灯里のこと好きなの?」
誰も咎めないから! どんどん行くからな!?
どうなっても知らんからな!
まあ誰か止めてもいくんだけど!
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