朝
林と一緒にデートに向かう日の朝、いつも通りの時間に俺は目を覚ました。林は、いつも決まった時間に目を覚ます。しかし、その時間までは掃除など、物音を立てても意外と目を覚まさない。彼女がここに居候するようになってから知った、彼女の特徴だ。
俺は、林が起きないことを良いことに朝の掃除を開始する。無論、いくら起きないといっても、彼女を起こさないように細心の注意は払う。
「おはよう、山本」
大あくびをかましながら、林は目を覚ましてきた。
「おはよう、林」
彼女が起きる頃には、俺の掃除は一段落をしている。それが、最近の朝の決まった流れだ。
八月初頭。元恋人によるドメスティック・バイオレンスにより、俺は林を今自分の住むアパートに匿った。それから二週間と少し。わずかな期間だというのに、今ではすっかり彼女がこの部屋にいるのは当たり前になっている。
しかし、まもなく俺達のこの生活は終わりを告げる。
「ねえ、寝癖取れないんだけど」
「そうか。それは困ったな」
「……ん」
高校時代の林は、学年内でも有名な傍若無人な女だった。ついた仇名が、女王様。
しかし、この部屋に来てすぐの林は、そんな傍若無人ぶりも鳴りを潜め、ただの一人の淑女……とは言えないが、慎ましい女の子になっていた。
わずか二週間、林はすっかりかつてのそれを思い出したようだ。
「なんすか、その櫛は」
「髪、あんたが梳かしてよ」
「なんで?」
「たまにはいいじゃん」
「女の子は、男に髪を触られるのを嫌がると聞いたことがある」
「そういう人もいるよね。でもあたしは平気」
「へえ、それは良かったね」
「ちょっと、どこ行くの」
「……逆説的に考えろよ」
「どういう意味?」
「男に髪を触られたくない女の子がいるように、女の子の髪を触りたくない男子もいるんだ」
「あんたはそうなの?」
「いや、違うな」
俺は林に近寄って、彼女から櫛を受け取った。一体、何の問答だったのだ。そんなツッコミは、林からは飛んでこない。ありがたい。我ながら、意味不明なやり取りを彼女としてしまった。
「……あんた、結構手先、器用よね」
「ああ、こう見えても俺は、家族一の裁縫の名人だった」
「男だとあんまり他人に自慢できないね、それ」
さっき思った。彼女はまた、傍若無人な人に戻ったと。だけど、今の場面、かつての彼女ならキモい、だとか、気色悪い、だとか。そういうお言葉を頂戴していた気がする。それが、彼女が女王様と呼ばれた所以でもあったからだ。
随分と、丸くなったものだ。
ドメスティック・バイオレンスの被害に遭ったこと。決してそれは、喜ばしいことではない。だけど、異性と交際をするという点においては、彼女の物腰を柔和させた重要な要素になったのではないだろうか。
一体俺は、どこ目線から考察を語っているのだろう。
「ありがとう。すっかり寝癖が取れたよ」
「おう。だけど、そろそろ一人暮らしを始めるのに、髪のセットでこんなに時間を取られてちゃたまらないな」
「高校時代もこんな感じだったし。慣れたもんよ」
「でも、寝坊とかした日には大変だろう。どうしてたんだ。電車の中でセットしてたのか?」
「いや、普通に遅刻してたけど」
「髪のセットのために?」
「うん。遅刻理由に、髪の毛が決まらなかったからって書いたよ」
そう言えば林は高校時代、度々学校を休んでいた。ただまさかその理由が……いや、全部が全部それだったかはわからない。でも今の話を聞くに、どの遅刻の理由もしょうもなさそうだ。
なんというか、豪快な女だ。
まあ、彼女からしたら髪のセットは、学校の内申点を下げることより死活問題だったのだから仕方がない。これもまた、俺と彼女の価値観の違い。
「次からは止めろよ、そういうの」
とでも言うと思ったか。さすがにそれは、公衆道徳の面からも指摘せねばなるまい。俺は、呆れた口調で彼女に言った。
「えー? 大事なことなんだけど」
「社会人になって、それで通用するわけないんだから仕方がないだろ。髪のセットのせいで遅刻しましただなんて、お給料をもらっている身で言ってみろ。途端に信用を失うぞ」
そもそも、遅刻ギリギリな時間に目覚めるな、という話もあるが、それは一旦置いておいて。俺は口酸っぱく林に言った。
そして、まずいと思った。こういうくどくどした言い方を、彼女は大層嫌っている。こうなったら彼女は、大抵へそを曲げるのだ。
「……まあ、あんたが言うならそうするよ」
ただ、今日は素直に俺の意見を受け入れた。
「やけに素直だな。少し怖いぞ」
「何さ。折角こっちが素直に聞いたのに」
「……悪い。是非、そうしてくれ」
「ん」
しばらくの無言が、室内に流れた。
「……朝食、何食べたい?」
次に口を開いたのは、林。彼女も俺も、そろそろ小腹が空き始めていた。