お盆休み
深夜バイトを終えて、俺は部屋に帰宅していた。深夜バイト前の暗闇の中出掛ける時の気分は最悪だが、深夜バイト明け、白む世界を歩く時は何故だか気分が良い。
「ただいま」
俺の住む部屋は六畳一間。一人暮らし用の築二十年、鉄筋コンクリートのワンルーム。本来であれば、帰宅時に挨拶をするだなんて、俺と違って行儀良い人くらいしかいないのだが、最近の俺は挨拶をしてから部屋に入る。
それは当然、その言葉を告げる相手が部屋にいるから。
林恵。
高校時代の俺の同級生で、上京後に付き合い、同棲までした彼氏にドメスティック・バイオレンスをされて、俺の部屋に匿われた女の子。
「おかえり。朝ごはん食べる?」
「うん。ありがとう」
彼女をこの部屋に匿って、そろそろ二週間。
奇妙な形で始まった俺達の同棲生活は、意外にもここまで大きなトラブルなく、平穏無事に過ぎている。
「そう言えばあんた、そろそろお盆だけどどうするの?」
彼女が振る舞ってくれた朝食は、白米、スクランブルエッグ、ウインナー、そして味噌汁。一般的な家庭の朝食であるが、一人暮らしの朝食としては豪勢なそれだ。
それらを食べながら、お盆が間近に迫ったことを鑑みてか、林は俺に尋ねてきた。
「帰らないよ」
「なんで?」
俺がお盆に帰らないのは大層意外だったのか、林は尋ねてきた。
彼女としては、どうなんだろう。俺に実家に帰ってほしいのか。ほしくないのか。ちょっと考えると答えは出る。多分、帰ってほしいに違いない。しょうがない。付き合ってもいない異性と、事情があるとはいえ二週間も同居しているのだ。ここに来た経緯も踏まえて、彼女の心中はお察しだ。
「帰りのチケット取れなかった」
お盆は社会人も休みとなる、所謂帰省ラッシュの時期。公共交通機関は、狙い目とみて運賃を上げてくるし、それでも席が取れないくらい、電車は人でごった返す。
大学入学のため上京し半年。俺はゴールデンウィークも実家に帰らなかった。このアパートに住み始めてすぐはホームシックだった。だけど、一人暮らしを満喫する内に、他人のいない環境にすっかり体は慣れてしまった。そうこうしている内に、俺は機を逃したのだ。
「ごめんな」
「なんで謝るのよ」
林は、呆れたように苦笑した。
彼女はきっと、俺となんて一緒にいたくないと思ったから謝罪したのだが、宛は外れたらしい。
「お前は実家に帰らないのか? ……と、忘れてくれ」
彼女は今、絶賛親子喧嘩中。恐らく、実家に帰る選択肢はないだろう。
「そうだね。悪いね、一人暮らしの邪魔をして」
「気にするな。お前がいると料理しなくて済むからな。こっちとしても楽で仕方がない」
彼女はおおよそ全ての家事を担ってくれている。炊事。洗濯。家計簿なんかも付けてくれている。唯一、掃除は俺の領分だ。申し訳ないが、それだけは譲る気はない。絶対にだ。
「ごめんね」
林はもう一度謝罪をした。
「だから、気にするなよ」
「そうじゃない」
じゃあ、一体何だって言うんだ?
「あたしに配慮してくれたんでしょ? 実家に帰るの」
俺は黙った。
「あんなことがあったばかりのあたしの状況を配慮して、実家には帰らず、あたしと一緒にいて元気付けようと思ったんだ」
「俺がそんな気が利くと思うか?」
「この前、親と電話してたでしょ」
この前の早朝。
俺のスマホに親からの電話が届いた。内容は要約すると、お盆は家に帰るのか、の意だ。俺は、その電話ですぐにお盆も家に帰らない旨を伝えた。親は意外にも、俺に帰ってくるようにやんわりと要望を出してきた。久しぶりに、馬鹿息子に掃除でも手伝ってもらいたかったのかもしれない。
それでも俺は、それを断った。……正直、いくら混むといっても、実家に帰省するまでの電車がないだなんてそんなことはない。何なら、大学生の夏休みは長いのだから、時期をずらせば帰省は容易。
それでも俺は……。
「そういうの、言わないのが礼儀ってもんだろ」
顔が熱い。まったくこの女、油断も隙もありゃしない。今度からは電話一つも細心の注意を払わねば。折角、こっちが無用な遠慮をされないようにと取り計らったのに、これじゃあ頑張り損だ。
「ごめんごめん。だって……あんまりにも素直じゃないからさ」
「……二週間も一緒にいて、気付かなかったか」
「アハハ。そうだね」
林はひとしきり笑って、俺を見据えた。
「まったく、あんたは捻くれ者だね。高校時代からそうだったの?」
「高校時代より、もっと前からだ」
「救えないね」
「そうだろう?」
「……もっと素直な感情を出していたら、きっともっと楽しい時間を過ごせたと思う」
「俺の人生が楽しいものだったかどうかは、俺が決めるものであって、お前が定義づけるもんじゃない」
「その通りだね」
「……認めるんかい」
「だって、その捻くれ具合のおかげで、あたしは救われたんだから」
……それはどうだったんだろうな。
今回、俺が林を助けることが出来たのは、偶然俺達が高校の同級生で、偶然彼女が俺が働くコンビニに入店してきて、偶然、彼女の怪我を俺が見つけてしまったからだけだ。
タイミング、運、背景。全てが噛み合ったからこそ、生まれた結果だ。
ただ逆を言えば、俺以外の人でも、タイミングと運と背景が伴えば、間違いなく彼女を救ったはずなのだ。
もしかしたら、俺はあの時、彼女を救うべきではなかったのかもしれない。彼女にもっとふさわしい人に、彼女を救ってもらうべきだったのかもしれない。
卑屈になっているわけではない。
これは、一般論だ。
事実、林の話だと笠原は、俺が林を助けたことを大層驚いたそうだ。それは何よりも、俺が林を助けるような人には見えなかった。それを意味しているのではないだろうか。
……これ以上考えるのはやめよう。
こういう思考は大抵、自身のモチベーション低下や気分を盛り下げるものだから。
マインドを変えること。
それは、様々なことに失敗してきた俺が導いた、より良い人生を築くための一つの術。
「……ねえ、山本?」
「何?」
「……お盆の間、時間ある?」
似たような誘い文句を、俺は最近彼女にされた。
「ある」
その時俺が誘われたのは、スマホ購入の付き添い。
「じゃあさ、ちょっとデートに行かない?」
……しかし、今度は。
「俺じゃないといけないのか?」
「……あー、どうだろう」
林は一瞬、逡巡して、真剣な眼差しを俺に向けた。
「うん。あんたじゃないと駄目だ」
「なんで?」
「あんたがあたしの命の恩人だから」
それは、タイミングと運と背景が伴ったから成っただけ。ただ、どんな形であれ、俺がそれを成したことも、また事実。
「それと……そろそろあたし、ここを去るわけだからさ」
林の物件探しは、それなりにスムーズに進んでいる。
そろそろ、不動産屋のところで契約をするくらいに、彼女のそれは進んでいた。
……確かに。
そろそろここを去る彼女に、惜別の意味を込めて。
一度くらい、デートをしても良いかもしれない。
「わかった」
まもなく、俺は同意した。
「ありがとっ」
嬉しそうに微笑んだのは、林だった。