林恵の空回り
翌朝。
昨晩は少し夜ふかしをしてしまったが、なんとかいつも通りの時間に起きることが出来た。
あたしは安堵しながら、同居人が今、何をしているかを確認した。
寝る前、リビングに敷かれていた布団は部屋の隅に丁寧に畳まれている。そして、件の男はリビングにいる様子はない。
ベランダにもいる気配はない。
廊下も同様。
であれば、お風呂場の方か。
よく耳をすませば、微かに洗濯機が回る音がする。
「おう、おはよう」
あたしが洗濯機のある脱衣所の方へ向かうと、山本は洗濯機の前でネットを持って立っていた。
おかしい。
今日は、山本の実家で泊まりになるはずだから、洗濯機は回さないと山本と昨日話したはず。洗濯カゴの中には、あたしと山本が昨日着た衣類が一通り収められている。
では、山本は一体、なんで洗濯機を回しているのか?
「最近、洗濯した後の衣類にカビが付いてたろ?」
「全然付いてないけど」
「……あー、俺は白っぽいTシャツばっかり着ていたから目立ったのかも」
「そうなの?」
「……おう」
山本の手にあるネットに、洗濯物なしで回る洗濯機。
まさか、この男……。
「あんた、まさかこのタイミングで洗濯槽の掃除をしているの?」
あたしは尋ねた。
しかし、尋ねるまでもなく答えは明白だった。
「洗濯槽の掃除、結構時間かかるじゃない」
「で、電車の時間には間に合うさ」
「……あんたまさか、そこまでして実家に帰りたくなかったの?」
「そんなわけあるか」
山本はいつになく神妙な面持ちだった。
「……ただ、平常心を保つためにだな。その……いつもより気張って掃除をしようと思っていたことは、事実だ」
つまり、これは逃げではなく……現実逃避のやりすぎ行為だった、と。
まあ、その方が山本らしいと言えば山本らしいか。
「あと、何回洗濯機回すの?」
「これで最後だ」
「……あ、そう」
山本は洗濯機を一時停止して、蓋を開けた。
あたしは山本の隣で、一緒に洗濯槽の中を覗いた。洗濯槽の中は、直前まで回転していたせいか水が渦巻いている。そして、その水の流れに乗るカビ。
微量なカビを見ていると、確かにこれが最後、と言う山本の言葉にも説得力が増す。
ネットでカビを掬う山本を見ながら、あたしは気づく。
一人暮らし用の小さな洗濯槽の中を一緒に覗いたあたし達。
今、あたしの目の前には、山本の頬が見えた。
……ち、近い。
あたしは山本から距離を取った。
「あ、あたし先に着替えてるよ」
「ん? おう」
「……朝ごはん、何か食べたい物ある?」
「え? ……あー、卵焼き」
「わかった」
これ以上、あの空間に一緒にすると、あたしも山本が実家に帰るのを妨げてしまいそうだったから、あたしはさっさと着替えて、朝食の準備に取り掛かることにした。
朝食を作り始めてしばらく、山本は洗濯槽の掃除を終えて、廊下に出てきた。
「終わった?」
「おう。バッチリだ」
「……そうですか」
帰省の直前に手間のかかる掃除を始めるだなんて、と文句を言いたくなったが、あたしも昨晩は散々迷惑をかけたことだし、止めておいた。
「なあ、林?」
「ん?」
「きっと、親はお前に対して、何も言わないよ」
「え?」
「すごい似合ってるぞ、その服」
……わかってる。
この男は、灯里に矯正されたから。だから、女子に対して格好を褒める、という男子としての最低限のエチケットが出来ているのだ。
ただ、それだけなんだ。
……だから、綻んだ顔をするんじゃない。あたし。
「林」
「な、何?」
「焦げてる……」
「ぎゃっ」
あたしは慌てて火を止めた。
もう付き合っちゃえよ!
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