息を奪って撃ち抜いた
息を奪って、撃ち抜いた
息を奪って、撃ち抜いた
平凡な幸せはこの世のどこにあるのだろう。もしかしたらすぐそばにあるのかもしれない。ただ、私たちに降り注がなかっただけで。ただ、私たちが選べなかっただけで。
道を違わなければ、有り触れた幸せはすぐそこにあったかもしれない。足を進めなければ、停滞は幸せを呼んだかもしれない。けれど全ては後の祭りだ。
起こった事は覆らない。失くした人は還らないし選択にもう一度は来ない。私たちは全てを間違えた。
その果てで立っている。
そこから一ヶ月、貴方は部屋に戻らなかった。私はする事もなくただ怠けた生活を送っていた。染めた黒髪は元に戻り、すっかり鮮やかな金が覗いている。ベッドに潜り込んだままの日々が続き、貴方も、彼すらも連絡を寄こさない。
散々人に求婚しておきながら自分が忙しくなったら放置するなんていいご身分である。なんて、言えもしないけど。
彼の就任日が明後日に迫っていた。そこから一週間後には結婚式が挙げられる。式の準備は任せて。そう言った彼は私に何も言わず全てを進めているらしい。今更だから何も言わない。私は当日その場に行ってただドレスを着るだけである。
貰った高価な指輪を掴み天井に翳した。大きなダイヤモンドは執着の証だ。人を殴れそう。浪漫の欠片すらない感想が脳に浮かんでは消えていく。それを、指に嵌める事が出来ないのは何故か。分かりもしなかった。
『おままごとでしょ』
貴方との関係に対し彼は言い切った。
『君もあいつも家族の温もりを知らない。普通の恋なんて知らないし常人がどうやって関係性を作り上げるのかも知らない』
『ただ足りない穴を埋めようとしているだけだ』
彼が私の頬を撫でた。温かな三十六度前後の熱だ。
『それは恋じゃない』
「それは、恋じゃない」
ダイヤモンドが僅かに開いたカーテンの隙間から差し込んだ陽の光を反射してキラキラ輝いていた。
「恋じゃない」
恋って何だろうか。貴方に抱くこの感情は恋と何が違うのか。これは、ただの執着か。私は穴を埋めるためだけに貴方と一緒にいるのか。
枕元に置いたチェストの中、彼から貰ったプラチナのネックレスに指輪を通し首に着けた。指輪を左薬指に着けるにはまだ、覚悟が足りない気がしたからだ。
私はまだ何もしていないのだ。彼の最後の任務に応える事も、貴方と共にいる事すらしていない。着ていたシャツはクローゼットの中に仕舞われたままの貴方のシャツだった。
着ているだけで安心するのは、これは恋ではないのか。貴方はどう思ってたんだろうなあ。聞く術もないけれど。
多分貴方の耳には既に、彼が自分を狙っている事が入っているのだろう。それに、私を使ってくる事も分かっているんだろうな。だから帰ってこないのだ。
私を一人ぼっちにするのだ。
スマートフォンが鳴った。貴方かと思った私の目に入った名前は彼だった。少し残念な気持ちが押し寄せた。それすらも分からない自分の心に胸がつっかえる気分がした。
「もしもし」
『やぁ、元気?』
しばらく連絡出来なくてごめん。優しい声が機械越しに降り注ぐ。大丈夫よ。返事をすれば、彼の声音が変わった。
『今日の夜、送った場所にハンスを呼び寄せる事に成功したよ』
贈られたファイルを確認する。港の外れにある今はもう使われていない倉庫だった。
『これが最後の仕事だから』
生きて帰って来るんだよ。それだけ言って切った彼に、本当に私の事を想っているのであれば一人で行かせはしないんだろうなあと、妙に冷静になった頭が笑みを吐き捨てさせた。貴方ならどうするかなんて、そればかり考えているあたり私も重症だと思いながらシャツを脱ぎ捨てた。
そして、黒のタイトワンピースに着替えた。
午前3時過ぎ。ヒールを鳴らし颯爽と人気のない倉庫に向かった。太ももにつけたホルスターから銃を抜き弾丸を込める。口紅を、塗ろうとして止めてしまった。その手が、震えていたからだ。
「馬鹿みたい」
嘲笑って胸の間にそれを落とした。まるでお守りのように沈め息を吐く。
私はまだ、何も決められずにいる。
後ろ手に銃を隠したまま倉庫の扉を開いた。重たい扉は音を立てる。真っ暗な倉庫に月明かりが差し込んだ。
その真ん中で、血塗れの貴方が立ち尽くしていた。
真下には見覚えのある人間たちの死体。彼の部下だ。何食わぬ顔で立っている所を見ると、その身体についた血は返り血なのだろう。
こんな時でさえ、怪我をしていない事に安心した私がいるのは何故だ。
ゆっくりと、貴方の視線がこちらを向いた。そして立ったままの私を見て目を見開く。酷く、悲しげな表情を浮かべたのち下を向いて笑い始めた。
「ああ、そうかよ」
そういう事かよ。
「最低だなあいつ」
死体を足蹴に、貴方は頬についた血を手の甲で乱暴に拭った。一歩ずつ近づいていく。月光に照らされていた貴方の表情は私のせいで遮られ暗闇に落ちていった。
「結局嫁にするとかほざいて俺を殺すために一人で来させるとか」
終わってんな。
本当だね。その通りだよ。いつもなら笑って返せるはずの言葉も出ては来ない。私の足は貴方の目の前までは向かわなかった。二十メートル。そこから先に飛び込めば、きっともう戻れない。
「で、殺す?」
「何で裏切ったの?」
私はただ、貴方と平凡なモーニングを送れればそれで良かった。ただ貴方が私のする行動一つに溜息を吐いて、嫉妬して、心に開いた穴を埋めてくれるのが嬉しかった。
非凡な毎日も貴方がいればそれでいいと思えた。
「オーギュストが全ての黒幕だって知ったから」
「何それ」
「俺の両親もお前の家族も、あいつのせいで全てを狂わせられた」
ぽつり、ぽつりと。雨のように零れ出した言葉に私は耳を傾けた。
「あいつは何十年も前から下っ端を犠牲にドラッグを回していた」
「ドラッグ?」
薬物。マフィアの世界ではよくある事だ。催眠効果のある物から頭がぶっ飛んでしまうような物まで。依存性のある物質はいつの時代でも強き者が弱き者を淘汰するために扱う簡単な手法だ。どこかでお試しさせたのち戻れない所まで溺れさせてから高額な金額で取引する。
弱き者は手を伸ばすしかない。そうやって人生は狂わされる。
けれど彼はそれを好まなかった。他の人間とは違い薬物事業に手を出しているなんて聞いた事もない。
嘘じゃないの?そう言っても、お前が知らなかっただけだろと返された。
「お前に知られないように根回しして薬物事業をし続けたんだ。あいつがボスに選ばれたのもその事業が功を奏して金利を得たおかげで認められたからだ」
「そんなの……」
「お前の口紅はどこから作られたのか知ってるのか」
「知らない」
教えてもらった事など無い。ただ殺し屋を始めるその日に彼がプレゼントしてくれた。カメリアピンクの私に良く似合う色だと彼は言った。
この先これを使って人を殺すんだよ。無くなったら新しい物をあげるからね。やっと出来た代物なんだ。
君にしか使えない、君のための毒だ。
「そんなの、知らない」
紅を引き忘れた唇が震えた。貴方はポケットの中から口紅を取り出す。それは私が持っているものとよく似ていたが開いたキャップの先に光る紅が全くの別物だと教えてくれた。
柔らかな、春の日差しを彷彿させるピンクだった。
「その口紅はお前が新しい物を求める度に毒素が増やされていった」
胸の隙間に隠したはずの口紅を指差した貴方に観念して口紅を取り出す。
「お前がどこまで毒に耐えられるのか実験してたんだよ、あいつは」
全部、掌の上だったんだ。貴方の言葉に持っていた口紅が指の隙間から滑り落ちた。倉庫の床に跳ね金属音が鳴り転がっていく。
「これが最終形態」
貴方の持っている口紅が月明かりに照らされた。
「お前が一度も取り込んだ事のない毒で出来た口紅だ」
「……それで、どうするの」
「は?」
「だから、それでどうするって聞いてるの」
彼が薬物を使い家族を崩壊させた。私が傷ついてきた理由を作ったのは愛の言葉を吐いた彼だった。私の身体で実験を繰り返していた。そして、一度も取り込んだ事のない毒で口紅を作った。
それでも、私はそこに縋るしかないのだ。
「口紅で私を殺す?出来るかもね、一度も取り込んだ事が無いって事は耐性もない。死なない確率もあるけど、ありとあらゆる毒を飲み込んだ末の新作だから多分無理だね」
死ぬね。淡々と話す私に貴方の眉間に皺が寄る。
「あの人が何をして来たとしても、私はそこに縋るしかないんだよ」
だって。
「もう戻れない」
退路は彼に拾われた日に断たれた。普通じゃないのも分かっていた。この先は地獄だと頭では十二分に理解していたのだ。それでも彼の手を取った。それしか生きる道が無かったから。
違う、それが一番の最善策だと思ったからだ。あの時手を取らずとも、彼は私を殺さなかっただろう。ただあの手この手で自分を手に入れようとしたはずだ。そうなると私の自由は無くなる。
あの温室に縛り付けられたまま生涯を終えていたかもしれない。
この地獄を選んだのは私だ。
この未来を選んだのも私なのだ。
「逃げよう」
貴方の言葉に息を飲んだ。
「あいつの兄、俺の本当の上司な。そいつが船を用意してる。オーギュストがボスになれば自分を殺しに来ると分かっていたから逃げの算段を立ててた」
すぐそこに最後の一隻を停めてある。貴方が近づいてきた。
「無理だよ」
「無理じゃない」
「あの人は地の果てまで追って来るよ。私たちにそうさせたように」
執念深い彼の事だから、どんな手を使っても私たちを殺しに来るだろう。かつての私たちが、ありとあらゆる場所に赴き人を殺したように。今度は私たちが狩られる側になる。
「あいつらが入って来れない国まで逃げ切る」
「そんなのどこにもない」
「あるよ、手段さえ問わなければ」
だから。
「行こう」
差し伸べられた手が月明かりに照らされ輝いていた。
「出来ない」
「出来る」
「戻れないんだよ!!」
後ろ手に隠していた銃を胸の前に出し抱え込んだ。貴方はそれに驚くも伸ばした手を引く事は無かった。
「どんな事をされてたとしても、私は、私たちはもう戻れないんだよ。自分でこの地獄を選んであの人の手を取ったの。逃げたら殺されて終わるの」
「逃げなくても変わらないだろ」
「普通の幸せなんてこの先にない」
頬に熱が滑り落ちた瞬間、貴方の目が大きく見開かれた。私、泣いてるんだ。気づいた頃にはもう止められなくて歪む視界の中差し伸べられた手がゆっくり引かれていくのが分かった。
そうだ、これでいいんだ。
そう思った瞬間、腕を強く引かれた。
「え―」
気づいたら貴方の腕の中で強く抱きしめられていた。彼とは違う温かさがあった。血と硝煙の匂いが服に染みついている。それでも、私にとってその匂いと温もりは何にも代えがたい物だったのだ。
「俺は、ただ平凡なモーニングに喜んでるお前を見る日常が一日でも長く続けばそれでいい」
涙が、シャツを濡らした。
「お前が誰かを殺さない未来が欲しい。自分以外の人間を求めないほどの時間を共に過ごしたい。どうせ一緒にいたらそんな事しないだろ」
この場に似つかわしくないほど柔らかな声が頭上から降って来る。
「普通には戻れねぇよ、きっと一生。でもそれも全て抱きしめて歩きたい」
抱きしめる力が強くなった。
「お前と」
ねぇ、何それ。ずるいね。
貴方はずっと真っ直ぐだね。出会った時から変わらず真っ直ぐだね。
どうせ貴方の事だから私で人体実験してるって知って、どうにかするために裏切ったんでしょ。分かるよ、だって裏切った年って付き合い始めた頃だもんね。
ねぇ。ずるいよ。
どうして貴方はいつだって、私が本当に欲しい言葉を口にするんだろうね。本当は気づいていた答えを隠していたのに、貴方のせいで認めざるを得なくなってしまうんだね。
どうしたって一緒にいる未来が欲しいのを。
恋と呼ばず何と呼ぶ。
シャツを握り締めた。肩口に頭を預け目一杯に貴方を堪能する。
「逃げよう」
言葉は、貴方の耳に届いた。僅かに身体を跳ねさせた貴方は私の身体を離す。そして頬を撫で情けない顔で笑った。
「逃げよう」
そして、私の手を取り踏み出そうとした。
瞬間だった。
大きな背の向こう側、きらりと光る銃口に気づき貴方の体を横に突き飛ばした。反射的に銃を構え撃ち込む。しかし弾丸は私の腹を貫通した。
「オンディーヌ!!」
倒れ行く身体を支えた貴方に、ああ良かった。ちゃんと守れた。相手は死んだ。そんな安堵を抱いた。
「おい、駄目だ」
腹部から溢れ出る血が止まらない。貴方の手が私の頭を支え片手で傷口を懸命に押さえる。けれど結果は変わらない。
ああ、本当に。どこで間違えたかな。あの時即座に手を取れなかった事かな。それとも貴方を選んだ事かな。
泣きそうな顔なんて初めて見た。思わず笑いが込み上げ噴き出す。貴方はついに瞳から熱を零した。私の頬に雨が降り注ぐ。
なんて、愛おしい雨なのか。
「初めて見た」
「喋るな、今、止めるから」
「もう無理だよこれは」
「無理じゃない!!」
「無理無理」
何だか駄々っ子みたいだ。不思議と、痛みはなかった。ただ凄い寒気がして、貴方の身体に寄り添った。意図が分かったのか、貴方は私をこれまでの人生の中で一番強く抱きしめた。
「アルマン」
「何で、名前」
「私の本当の名前ね、マルグリットって言うの」
「マルグリット……」
「妖精でも何でもない、ただの人間の名前」
力を振り絞り離しかけた銃を強く握った。
「だから、ただの人間として、最期のお願いしていい?」
貴方の顔を見た。酷く綺麗でぐしゃぐしゃで、月明かりが眉間の皺を照らしていた。世界で一番、美しい瞬間だった。
「息を奪ってよ」
緩やかに上げた口角に貴方は一度目を伏せ静かに息を吐いた。そして、ポケットに入れたはずの口紅を取り出した。
「俺からもただの人間として最期のお願いがある」
「なあに?」
銃を握り締めた手に口紅を持ったまま触れた貴方はこう言った。
「撃ち抜いてくれ」
「酷い話」
こんな御伽話があってたまるものか。それでも貴方は笑った。言葉はもう、いらなかった。
抱きかかえられ向かい合い座る。身体を貴方に預け遠のく意識に反抗しトリガーを持つ指先へ力を込めた。
貴方が口紅を塗った瞬間、口の端から血管が浮き出る。何て凶悪な毒だ。それでも、貴方は笑う。私の頬を撫で片方の手で銃口を自分の胸元に当てた。
「言い残した事は?」
貴方の言葉に、私は笑った。来世への期待とか、そんな事言える人間であれば良かったけれど、行きつく先はどうせ地獄である。
起こった事は覆らない。失くした人は還らないし選択にもう一度は来ない。私たちは全てを間違えた。
それでも、これだけは正解だと言おう。
「貴方を殺せて良かった」
「俺もだ」
唇が三十六度以上の熱をまとわせ口内を埋め尽くした。瞬間襲う苦しみと痛みに息が止まりそうになる。意識を完全に手放すその瞬間、持てる力全てを使いトリガーを引いた。
ばんっ
銃声が倉庫を反響し私たちの身体は共に倒れていく。
最期に見えた貴方の顔がどうしようもないくらい幸せに満ち溢れていたのは、きっと私も同じなんだろうなって思いながら。
息を奪って撃ち抜いた。
毒キスと弾丸 END