67 天藍宮の香炉の匂い
「さすが木蘭様ですっ! 姚家の姫君であらせられる徳姫様は『探春の宴』で桜花舞を披露されていましたから、『月日が移ろった今でも徳姫様の優美さを忘れることは誰もできません』と、桃花月餅でお伝えなさるのですね! きっと徳姫様や徳姫様推しの女官の皆様も、お喜びになると思います」
「そうだな」
つんと澄ました顔で木蘭はそう言って、豆漿粥の器を手に取る。
茶会に呼ばれた妃たちは、茶会の主催者、そして時には参加した妃たちに手土産を配る。
それには血筋による家格を示したり、妃としての階級と威厳を知らしめたり、時に皇太子の寵愛を匂わせて他妃を牽制し、はたまた配下として庇護を仰ぎたいと擦り寄ったりと、ひとつの品に様々な思惑が複雑に絡ませてある。
その思惑を正しく読み取るのもまた後宮妃の生きるすべ。
足をすくわれぬよう、本当の心を隠し、自分の意のままに操れる者こそが強者として君臨できる。
木蘭が今回の土産に選んだのは玉でも反物でもなく、ただの茶菓子だ。
貴姫として、決して徳姫にへりくだる品じゃない。
だが、茶会の主催者は必ず気を良くする。他の妃たちも、最上級妃が贈った土産に滲ませた年上の妃への羨望に警戒心をおさめる。
表面上は穏やか笑顔を絶やさず、『次の選妃姫では自分こそが一番に選ばれるはずだ』と、腹の中では強い自信に酔うだろう。
それこそが木蘭の狙いであった。
茶会に集った誰もが、自分自身を過信し、――最下級妃の白蛇妃の存在を忘れてしまえばいい。
「ふふふっ。噂をすれば桃花月餅です」
苺苺が円卓の上にそっと並べていた〝龍血の銘々皿〟に現れた、呪毒の宿る茶菓子もどきへ手を伸ばす。
「朝餉の時間にお茶菓子が出るのは初めてですね」
「……朝餉の時間まで悪いな」
「いいえ! わたくし、木蘭様のためなら悪意も美味しくいただきますっ」
そう言って、苺苺は「いただきます。はむっ、んんん……! おいひいです〜〜〜!!」といつものように極上の茶菓子を味わう様子で頬を緩ませながら、呪毒を食べた。
皇太子宮の宦官や女官たちが、なんの後ろ盾もないのに白蛇妃に嫌がらせをしたり、与えられる褒賞や下賜品を横領したりできるはずがない。
彼らの後ろには妃の存在がある。
白蛇妃に罪をなすりつけて、自分たちを正当化したあと、上手に庇いだてしてくれる妃がいるのだ。
だからこそ、紫淵は思う。今に見ているがいい、と。
俺がただひとり、どこまでも甘やかし尽くして幸せにしてやりたいと願うのは、この能天気な『白蛇の娘』。
――白苺苺だけだ、と。
頬を高揚させて美味しそうに呪毒を頬張る苺苺を眺めながら、愛らしい幼妃は策士な笑みを浮かべた。
◇◇◇
朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
(銀花亭の白木蓮はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵殿下の香りを思い出すような気も?)
厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕と鈴鹿がお手伝い致しますよ。若麗様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿へお散歩に行かせていただきましょう!)
決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。




