64 白毫烏龍
「僕のことは気にせず、お話の続きをどうぞ」
「ああ。もとより気にするつもりもないが。……珍しいな、宵世が白毫烏龍を淹れるなんて」
いつもは『時間がもったいないから起きておいてください』とか言って、眠気覚ましにすごく濃い茶を淹れるのに。
紫淵は手元に届いた茶器の蓋をふちを少しずらして、琥珀色をした白毫烏龍の果実と蜂蜜を思わせる香りを楽しみながら、怪訝な顔で宵世を見やる。
「まあ、そうですね。今夜はどうしても早く寝落ちしてほしいお方がいらっしゃるので」
(むむ? 紫淵殿下のことでしょうか? 確かに宵世様のおっしゃる通りです! 紫淵殿下も連日頑張りすぎですし、今夜は執務をお休みして明日に備えられた方がよろしいかと)
宵世は苺苺を『わかっていなさそうですが、そこのあなたですよ』という顔で一瞥すると、
「さあ、どうぞ」
と長椅子の前に置かれている低い卓子に蓋碗を置いた。
「白蛇妃様。明日は犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいね。東宮補佐官と白蛇妃が並んでいるのは至極不自然ですから」
「合点承知でございます。わあ、わたくし白毫烏龍は初めていただきますわ。ありがとうございます」
(最高峰の茶葉を寝る前のお茶として使われるだなんて、さすが天藍宮ですっ)
うきうきと好奇心で頬を緩ませた苺苺は、わくわくで逸る気持ちを抑えつつ、丁寧な所作で蓋碗を茶托の下から左手のひらに乗せる。
右手の親指と人差し指で蓋を摘んでずらし、すんすんと芳しい香りを楽しむと「ほう……」っと感嘆のため息をついた。
「とっても豊潤な香りがします。甘い蜂蜜や果実酒のような……?」
「発酵度が高いので。最高峰と呼ばれる由縁は、生産方法が非常に難しく、年に一度少量しか収穫できないこともありますが……。なんと言っても、美しい琥珀の艶めきを持つ水色と独特の深い甘みが、西方の上流階級に好まれる『香檳酒』を思わせるという――」
「ふ、あ………っ」
宵世は直立不動でつらつらと香檳烏龍とも呼称される茶葉の説明を行なっている横で、茶器に唇をつけてこくりこくりとお茶を嚥下していた苺苺が、唐突に呂律の回らぬ様子で呟いた。
その甘くとろけ落ちる蜂蜜のような声音に、紫淵はびくりと肩を揺らす。
慌てて苺苺の様子をうかがうと、苺苺の頬や目元は赤く蒸気し、けぶるような真珠の長い睫毛がの下では紅珊瑚の大きな瞳がとろとろと潤みを帯びていた。
その双眸がうっとり艶やかに、紫淵を捉える。
「しえん、でんかぁ……。なにか……ん、ん……っ、へん、れす……」
思わず食みたくなるほど濡れた赤い果実の唇が、たどたどしく名前を呼ぶ。
木蘭と刺繍と茶菓子にしか興味がなかった少女の、直視できないほどの色っぽい姿に、紫淵は頬が熱くなるのがわかった。
鼓動が否応無しにドキドキと激しくなる。
喉にきゅうっと甘い感情がせり上がり、反対に胸の内側が独占欲でずくりと切なく痛んだ。
「……宵世! お前いったいなにを茶に混ぜた……!?」
「香檳酒ですけど」
焦ってガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった紫淵に対し、宵世は悪びれもなくケロリと言う。
「は、はあ? 香檳酒だと!?」
「ええ。以前、紫淵様が白蛇妃に下賜されていた西方の品つながりで。あの時に国使の方からいただいた最高級品です。これぞ本当の香檳烏龍ですね。おや、一気に飲むとはなかなか」
宵世は苺苺の手の中にある蓋碗を確認し、爽やかな笑みを浮かべる。
「白蛇妃のことですから、どうせ長椅子で寝るとか、廊下で寝るとか、二階の楼榭にある寝台で寝るとか言いだしそうだと思いまして」
「ぐっ。全部当たっているから言い返せない」
「紫淵様は長剣抱えて紅玉宮の寝室で寝る気でいるんでしょう? それならそうと最初から話せばいいんですよ。心配かけまいとしても逆効果です」
執務が終わったあと、確かに紫淵は木蘭の寝室でおとりになるつもりでいた。
なにもなければそれでいい。しかしなにかあった時は、青年の姿であれば遠慮なく長剣も振るえるので、あやかしにも遅れはとらない。
「白蛇妃がいない紅玉宮で今夜中に片がつけば良いですが、終わらなかったらどうするんです?」
「それはわかっているさ。だから、そのだな……あとで寝台に運べばいいかと」
「甘いですね。どうせ途中で起きて、『紅玉宮へおともします!』とか言いだしますよ」
宵世はげんなりした様子で、空中をぽやぽやと眺めている苺苺を見下ろす。
明日の紅玉宮ではなにが起きるかわからない。
極限まで気を研ぎ澄まして、白蛇妃は〝異能の巫女〟として木蘭と自分自身の命を守らなくてはいけないのだ。
廊下や外で寝られて風邪でも引かれたら困るし、長椅子で横になって疲れがとれなくても困る。
今日だって美雀が起こした事件を解決したばかり。連日の疲れが溜まっているのは我が主だけでなく、この憎たらしくもついつい世話を焼きたくなる存在も同じで――。
宵世は肩を下げながら大きなため息をつく。
「とにかく、天藍宮の寝室以外で寝られたら面倒ですからね……って、もう眠ってますね」
いつのまにか長椅子にくたりと横になっていた苺苺の顔を、宵世が覗き込む。
先ほどまでの、とろけるような艶やかな表情は夢だったのかと思えるほど消えさっている。
紫淵の胸を切なく掴んでいることなど知りもしない苺苺は、「むーらんしゃまぁ」となんの夢を見ているのかわかりやすい寝言を唱えながら、すぴーすぴーっと安らかな寝息をたてていた。




