⑦ 盤上の支配者
「お前は?」
「私はポーラ。この町で“商売”をしてる者よ」
商売、という言葉の響きに、賭場の奥に潜む匂いを感じ取る。
賭場、闇市、密輸──サンドウジの裏側を牛耳る一派の顔役だろう。
客たちは道を開け、女は真っ直ぐ俺の前まで歩いてきた。
「あなたが……あの『切り裂きジャック』、でいいのかしら?」
「はて、俺は確かにジャックと呼ばれているが、顔も分からぬ手配犯と一緒にされてしまうのは不本意だな」
女は口角を上げ、俺と卓を挟んで腰を下ろした。
「私の手駒をこうも容易く対処してしまうんですもの。ただ同じ名前なだけの男、というよりはかの『切り裂きジャック』だと思った方が自然ではありませんか?」
「…なるほど。悪名高い相手と思われるのはどうかと思うが、腕を認められたことは素直に受け取っておこう」
どうやら、これ以上すぐに手を出してくる気は無さそうだったので、彼女に向かい合うように椅子へ腰掛けた。
「…そう簡単には認めてくれませんか。残念ですね、私には『切り裂きジャック』を迎え入れる用意があるというのに」
「迎え入れる…? 奴を利用しようっていうのか? 常人には思いつかない狂った考えだ」
ポーラはゆっくりと視線を流し、俺を値踏みするように見た。
「そうでも無いですよ。あなたのように私の手駒の十人分、いえ百人分にも劣るとも勝らない腕なら、私の陣営に加われば……大抵の勝負の勝利は明白、でしょう?」
「手配犯をちゃんと扱える手立てがあるのならな。普通に考えれば、奴に背後から切られて終わりだ」
「ふふふっ、もちろんその辺りの勝算はありますよ。彼も人の子。彼のように色事を好む男であれば、如何様にも手段はあるでしょう」
「ほう、随分と自信があるようだな」
「えぇ、もちろん。私は勝ちが見えている場にしか賭けませんから」
嘘やハッタリで誤魔化しているような目ではない。
この女は全て本気で言っているようだ。
「ジャック様…」
「大丈夫だ」
相手の土俵で戦うには不利が付くことが大きい。
観客がどちらの味方をするかも明白であり、俺の味方といえばせいぜい心配そうに寄り添うランダくらいのものだろう。
「『切り裂きジャック』本人でないのは残念ですが、もしよろしければあなたの腕を見込んで同じ条件で雇いたいところですが…いかがでしょうか?」
「ふっ、通りがかりのジャックに手駒を何人も潰されて、なりふり構ってられないのか?」
「いいえ、純粋にあなたの能力を見込んでのことです。その技量と度胸。どちらも兼ね備えているのであれば、尚のこと見逃すのは惜しい人材ですから」
「…良いだろう。その条件とやらを言ってみろ。それ次第だ」
「あなたが私の下につくなら──条件はこうよ」
彼女はまず一本、指を立てた。
「金。初月で金貨百枚。腕利きの傭兵でも、この額を前払いすることは滅多にない」
二本目の指。
「ベルベット・ロータスの最上階、専用の客室をあてがいます。食事も娯楽も、すべて私の帳簿持ち」
三本目。
「この町の裏社会で動く全員に、『ジャックはポーラの客人』として通します。護衛がつき、港も通行も優先される」
四本目の指が立ち、彼女は少し笑った。
「そして……ここにいる高級娼婦を好きな時に好きなだけ使って良い権利。一人でも二人でも、もちろんお代は取りません。あなたが望むなら、私自身も含めてね」
最後の指がゆっくりと上がる。
「加えて、この町と周辺の“人間の名簿”を渡すわ。商人、衛兵、役人──殺すも利用するもあなたの自由」
ポーラは指を組み、身を乗り出した。
「どう? これ以上の条件を出せる者は、そうはいない」
俺はしばらく沈黙し、彼女の瞳を見つめた。
金の瞳は自信に満ちていたが、その奥にあるのは「この男なら私の手に堕ちる」という計算だ。
「……悪くはない」
短く答え、椅子の背にもたれる。
「だが、悪くないってだけだ」
彼女の眉がわずかに動く。
隣で安堵の息が聞こえる中、俺は続けた。
「提示してきた条件は俺がその気になれば叶えられるもの、そもそも不要なものばかりだ。それに、その全てを手に入れるのなら――ポーラ、俺がお前を手に入れれば解決する話だ」
「…あら、ジャックさんは私をご所望でしたか」
「女としてのお前の価値だけじゃない。お前の持っている全てを俺が手に入れる」
「それはそれは、随分と傲慢ではありませんか? それに、それではこちらの利から随分とかけ離れてしまいます」
「では、一つ勝負をしようか」
「勝負…? ですが、か弱い私めに決闘を申し込むのは――」
「ふっ、早まるな。ちゃんとお前に合わせてやる。そこのルーレットで決めようじゃないか」
「ルーレット? んっ、ふふっ、ふふふっ…、それで私に勝てるおつもりですか?」
「あぁ、もちろんだ。賭けるのはもちろん、お互い自分自身だ。負けた方は相手のいうことをなんでも聞く。お互いの尊厳を賭けた一発勝負だ」
「なんでも…ですか」
なんでも――という言葉を切り出した途端、ポーラという女は警戒心を強めた。
この女、本当に俺を『切り裂きジャック』と確信しているようだ。
どこでその情報を得たのかは知らないが、出所はそう多くないはずなんだがな…。
なんでもする――そう言ってしまったが最後、口にしてしまった人間にどんな末路が訪れるか分かったものではない。
それが『切り裂きジャック』のやり口だと聞いている。
今目の前に座っている彼をその『切り裂きジャック』本人だと認めさせることは未だ出来てはいないが、もはやこの言い回しをしてきたことでほとんど確実だった予感が確定に変わった。
心配そうに見つめる傍付きの少女へ声を掛けている彼には絶対の自信があるように見える。
目の揺れ、身体や声の震え――そういった虚勢の兆候が全くないのだ。
わざわざ相手の土俵で勝負する酔狂な提案に軽々と自分自身を賭けてしまえるのも、私の思考では至ることの無いそれだ。
勝負を仕掛けてくるなら、てっきり力比べをご所望かと思って腕利きの用心棒は控えさせてあったのに、これでは無駄になってしまった。
いや、もしかしてそれを見越して勝負の内容を変えさせたのか。
いやいや、しかしそれでは自らの力量が低いと言っているようなものだ。彼が本物ではないとしたらその手を選ぶ可能性もあり得るが、恐らくそうではない。
「そのルーレットって奴は球を転がして、どこに入るか当てるってものだろ?」
「えぇ、その通りよ。その穴には色が黒と赤の二種類ある。これにお互いを賭けた五分五分の戦いをしようというのでしょう?」
「五分五分…? くくくっ、自信が無いならもっと俺の範囲を狭めても良いぞ」
「なんですって…!?」
「その分、見返りも多く貰うつもりだがな…」
この期に及んで確率をさらに低くしても、まだ勝ちを確信しているというの…。
その手を使えるのは、むしろこの場を取り仕切っている私の方。
どの台にも落ちる場所を操作できるように細工してあるからこそ、最初に小さく勝たせて後で大きく儲けるということができるというのに。
彼はその逆境すらも跳ね除けて勝てる秘策を持っているというのか。
「どうした? 威勢の良かった口が随分大人しくなったな。怖いなら降りても良いぞ。俺は別に何も困らない」
「……っ!」
「…?」
そうか、そういうことね。
彼はこの勝負を自身が降りることなく、相手に降りるように仕向けて有耶無耶にしようという腹積もりなんだ。
私が勝てる場にしか賭けないということを知った上で、自分の尊厳も守りながら手を引かせるというスマートな手段を取った。
だから、敢えて不利な状況へとどんどん話を進めて、心理的に相手を追い詰め勝ちを逃させる。
「ふふっ…」
分かってしまえばどうということは無い。
相手の土俵で戦う不利、そして勝率を自ら下げる不利。そして、自らを賭けさせる重すぎるチップで相手の心を揺さぶる。
これが彼のやり方、そして生き方なのね。
自由奔放な彼は誰にも縛られず、けれども国から追われていても未だその顔すら広まっていない強さを持ち合わせている。
その強さは単に武器を交えて戦う力量だけでなく、場面に応じて上手く立ち回れる頭の良さも兼ね備えていることも含まれる。
――欲しい。欲しいわ
これだけ有用な手駒はそういない。
ただの用心棒では10人いても100人いても足りないでしょう。
これだけのキレ者を逃すわけにはいかないわ。
「良いでしょう。あなたの提案する勝負に賭けましょう。ただし、勝負は赤と黒の五分でいいです。私にも立場というものがありますから」
「くくっ、いいだろう…」
不敵に笑う彼を見て、悪寒が走る――。
やられた。
あの顔は未だ自らの勝ちを確信している。
自らを不利な状況へ追い込む提案すら、ブラフだったというのか。
いや、まだだ。
この場は私が支配している。
私の手で――勝ちを掴む。
「それで、その運命の一球は誰が回してくれるんだ?」
「こちらの者にさせましょう。この店で一番の腕利きです」
そう言って後ろに控えていた黒服を紹介するものの、やはり彼の反応は芳しくなかった。
「腕利き…ねぇ? 公平性に欠ける気はするが、それはどうやっても変わらんだろうし…まあいいだろう」
彼は明らかに人選を不審に思っている。
その上で諦め…いや、彼はまだ盤面を降りたりしていない。
「さぁ、お前はどちらに賭ける? 赤か黒か、好きな方を選べ。俺は残った方で良い」
「へぇ…。随分と余裕があるようですね」
相手の手の上で戦うというのに、さらに後手を選ぶだなんて。
こちらの細工に気づいているなら、せめて先手を譲るくらいのことはしてくると思っていたのに。
「なぁに、本当に五分の勝負ならどちらを選んでも変わらないだろう? ならば、先でも後でも何も変わらんさ」
「なるほど…。確かに、その通りですね」
…もしかして、まるで何も分かっていない子供なの?
いやいや、それこそ相手を油断させるための手段。
きっと彼は気づいている。けれども、その上でまだ勝てる気でいる――勝負師の勘がそう告げている。
「では、お言葉に甘えて。私は赤に賭けます」
「そうか、では俺は黒に賭けよう。これで、黒枠に球が入ればお前の全ては俺のものだ。そうだな?」
「えぇ。同様に赤枠に入ればあなたの全ても私のもの。異存はありませんね?」
「あぁ。…さあ、準備は整った。始めてくれ」
「いいでしょう。一世一代の大勝負の始まりよ」
私の合図で黒服はルーレットに球を流した。
静寂の中でカラカラという軽妙な音が響き渡る。
あなたの思惑はどうあれ、この場を支配するのはこの私。
ルーレット台に仕込まれた魔法は、球を流した者の魔力に反応して落下地点を操作するもの。
彼が球を放った瞬間にあなたの負けは決まっているのよ、ジャック。
「ふふっ…」
「どうした、球がまた落ちても無いのにもう勝ったつもりか?」
「これは失礼しました。ですが、これであなたを手駒に加えられたと思うと、この先の未来が面白そうで…つい」
「気が早い女だな…」
やれやれと肩をすくめる彼からは緊張感も感じられない。
もはや、運命を受け入れこの場を大人しく見守るまで――そういうつもりなのかしら。
やがて、球が減速していくとゆっくり、けれども確実に落下地点へ吸い込まれていく。
そして、いよいよ――というタイミングになって、突然ルーレットは止まった。
「球が落ちたのは黒の13。俺の勝ちだ」
そう静かに宣言した彼はルーレット台に自らの得物を突き立てていた。
そのままいけば赤の番号に落ちるはずだった球の軌道をその刀で塞ぎ、隣の黒の13へ落としたのだ。
「…ふざけないで、そんな暴挙がまかり通るはずがないでしょう!」
あまりにもチンケな行いに我慢しきれなかった私が立ち上がって声を荒げると、周りの客たちも続いてそうだそうだと声を上げる。
こんなことで…こんなやり方で勝ちを持っていかれては堪らない。
私が今まで戦ってきた勝負すら踏みにじられた気がした。
「ふざけているのはそっちだろう? まさか、ルーレット台を纏う僅かな魔力なら気づかれないとでも思ったか?」
「…なんだって?」
「魔力…? まさか、イカサマか?」
相手の言葉にそそのかされて客たちの騒々しさはさらに増していく。
「適当なことを言って誤魔化さないでくれます? 皆さんも、彼の言うことを鵜呑みにしないで――」
「まあ、そうだろうな。この場での発言力は俺よりもお前の方が上だ。そう、今はな…。だが、こいつの身体に聞いてみたら…答えはどうかな?」
「ひっ!」
ルーレット台に突き立てていた刀を引き抜いたと思ったら、即座に黒服の首元へ切っ先を向けた。
首から流れる一筋の血は、彼が脅しでは無く本気でやりかねないというのを物語っている。
「安心しろ。俺はこういうのが得意でな。いくら口が堅くとも秘密を話したくなるように仕向ける術は心得ている」
「ポ、ポーラ様…っ!」
彼は魔力の繊細な扱いに長けていても、こと戦闘に関しては『切り裂きジャック』の足元にも遠く及ばない。
放っておけば、間違いなく死が待っていることでしょう。
「まあ、別にお前から直接聞き出しても良いんだがな。それではこの勝負の意味も無ければ、面白くもない」
彼の鋭い眼光は間違いなく強者のそれだ。
「はぁ…仕方ないわね。でも、イカサマをしたのはお互い様でしょう。仕切り直して、次で決めませんか?」
「ふぅん…まあいいだろう。お前のお遊びに付き合ってやる」
「…今度はお互いにイカサマ無し。本当の五分と五分の賭けよ」
お遊び呼ばわりされたのは癪だったが、こうでもしないと既に私の負けなのだ。
プライドを踏みにじられたことにも今は歯を食いしばって耐えて、勝つ。
そう、最後に勝ればそれでいい。
私が真の勝者になる。
「分かった。次の勝負、俺は何もしない」
そう言い放った彼は刀を鞘に納めると、再び椅子へ腰掛けた。
「…だが、俺はそれでもいいが、それでお前は良いのか? 勝ちが見えている場にしか賭けないんだろう?」
「…そうですね。私の流儀には反しますが、それを覚悟の証として捉えてもらえれば結構です」
「くくっ、そうか。互いが納得しているなら、それ以上のことは不要だ」
「では、卓を変えましょう。これではもう使い物になりませんから」
一命をとりとめた黒服を連れ立って隣の卓へ移動する。
彼もそれに倣うように腰を上げると、傍付きの女を連れ立って移動し、彼女を安心させるように腰に手を回して抱き寄せていた。
「それで、お前はどっちに賭けるんだ?」
相変わらず余裕を見せる彼は椅子に深く腰掛けたと思ったら、そのまま行儀悪く卓へ足を乗せていた。
どうやら、今度こそ本当に何もする気が無いようだった。
「また私が先に決めて良いんですか? 今度は本当に手出し無用ですよ」
「あぁ、分かっている。で? どっちだ?」
威圧感すら感じさせるその物言いは癇に障るが、確かに彼の言っていたように本当の五分の勝負なら先に選んでも、後の残り物を選ばされても変わりはない。
でも、その意味は違う。
自分で運命を選び、切り開くことを選択するか。
それとも、運命を押し付けられ、流されるだけの人生に身を任せるか。
私は――前者を選ぶ。
「黒よ。私は黒に全てを賭けるわ」
「そうか。なら、俺は赤だな。…くくっ」
「ふふっ…、ジャック様の仰っていた通り……」
なに…、今の感覚……。
彼が余裕を見せて不敵に笑うのは今に始まったことじゃない。
でも、なぜ?
今まで不安を抱いていた彼女まで、あんな顔をしているの――。
「さあ始めようか。互いの運命を賭けた本当の勝負って奴を」
相手の空気に飲まれてはダメ。
今度こそ手出し無用といった勝負なら、絶対に私が勝てる。
この台は魔法を使わなくとも落下地点を細工できるもの。
私が負けるはずがない。
私は――勝つ!
「えぇ。これが本当に…正真正銘最後の勝負っ!」
公平を期すように見せかける為、先程とは別の黒服に運命を任せる。
これで本当に運命が決まる。
そう思っているからこそ、観衆の視線もルーレットの盤面に集中する。
固唾を飲んで見守る彼ら彼女らも他人事ではないのだ。
彼が本当に『切り裂きジャック』であるなら、この場にいる彼らも私同様に未来を閉ざされてしまうと簡単に予想できてしまうからだ。
だからこそ、誰もが気づかなかった――いえ、気づけなかった。
不敵に笑うその表情を崩さない彼の背後から足音を殺して近づく彼女の存在に。
他の誰も、ただ一人――ジャックを除いて。
ザシュッ!
「………」
「……」
「…」
この場に相応しくない音がしたかと思えば、減速し始めていた球が回る盤面に鮮血が滴り落ちてきた。
それに気づいてようやく顔を上げると、そこには胸を一突きされた黒服が静かに立っていた。
そして、傷口を広げるように切り裂かれていくと、その血は激しく噴き出して辺りを赤く染めていく。
カラン――と運命の球が最後に音を立てて止まった時には、盤面は赤き血の池と化していた。
「ふっ、"赤"だな。俺の勝ちだ」
そう高らかに宣言すると、用済みになった黒服はその場に倒れ、得物を納めたただ一人の少女だけが拍手を送っていた。
「おめでとうございます、ジャック様」
「…手出し無用という話でしたよね?」
「あぁ、俺は約束は守る男だ。だが、こうも言ったはずだ。"俺"は手を出さないと。だから、今回は俺は手出しをしないでやったぞ」
「…もはや、子供の言い訳にしか聞こえませんね」
「何を言う。先に嘘を吐いて五分の勝負を反故にしていたのはそっちだろ?」
「先程の魔法での操作のことなら、今回は本当に――」
「イカサマなんて、それだけじゃないだろ。それは所詮見せかけのブラフ。一つをあえて見せておき、それを封じることで本当に公平な場を設けたように見せかけた」
「な、何を根拠にそんな言いがかりを…」
「そうだな。今回のはどういう仕組みで確実に勝つつもりだったのかは知らん。だが、何よりの根拠はお前が賭けに応じたことだ」
「え…?」
「自分で言っていただろう。勝てる場にしか賭けないと。それで今の立場を築いたお前が、自分という何よりも高いチップを賭けて挑むんだ。勝てる保証が無ければ、絶対にしない悪手だ」
「…なるほど、この私が心理戦でも負けていたというのですね。ですが、あなたがそのつもりなら、こちらも相応の手段を取らせてもらいます! 来なさい、ヴィクター!!」
私の呼び掛けに応じて背後の扉から現れたのは、世界でも有数の冒険者の中から引き抜いた私の切り札。
扉よりも大きな背丈と鍛え上げられた筋肉を誇り、灰色のその瞳は私以外の命令を聞くことが無い。
彼を雇い、彼に見合う装備も調達する為に大金を叩いた。
けれども、これまで彼はそれ以上の仕事をしてくれた。
だから、今回も――。
「なんだ、少しは使えそうな駒を持ってるじゃないか。だったら、欲張らずにその程度で満足していればいいものを…いや、それだと俺がお前を手に入れる機会が無かったか」
「この期に及んで減らず口…、良い度胸だわ。本物かどうか知らないけど、手に入らなくても殺してしまえば国からたんまりと報酬を得られるわ。さあ、ヴィクター! やっておしまい!」
残念ね。結局彼を手に入れることはできなかった。
もうヴィクターに命令した時点で彼の運命は決まっている。
…変ね。いつも無口なヴィクターだけど、私の応えに応じないなんてことは――。
「…っ!?」
そう思って背後を振り向いた時、彼の姿は闇の彼方へ消えていくところだった。
「そいつよりも強い奴が欲しくて『切り裂きジャック』を求めていたんじゃなかったのか? だったら、その程度では役不足だとなぜ分からない」
「何…? 何をしたの…?」
「最初からチカラで解決しようとしなかっただけマシだが、結果はこれだ。結局、戦いになれば強い者が勝つ。自然界の掟に則ってつまらない結果になるのは目に見えていた」
辺りから妙な臭いが漂って鼻につく。
見れば、観衆の男たちも同じように暗闇へ沈んでいっていた。
立ち上がった彼はゆっくりと歩を進め、黒服を刺した傍付きの少女も通り過ぎると、そのまま私の前にやってくる。
「なんでもするって話だったよな? 今からお前は俺のものだ」
彼の手で顎を上げられて、その顔に突き合わされた時――遅すぎるこの時に、私は全てを悟った。
私が勝てるはずも無かったのだ。
私の盤上で勝負していたつもりだったのに、彼はその盤上ごとそのチカラを以って壊し、勝利を掴み取った。
全てが金とチカラで解決するこの町で、この世界で――彼の強さはあまりにも圧倒的過ぎる。
そして、その異常なまで強さは彼を支配しようとしていた私すら魅了する。
高々一つの町の裏社会の一角を担った程度で踏ん反り返っていた私なんかとは違う。
あなたは一体、どれだけの高みにいるというの…。
「泣くなよ、ポーラ」
そう言われて、私の頬を一滴の雫が伝っていることに気づかされた。
「安心しろ、今すぐに殺すようなことはしない。ちゃんと俺の役に立ってもらわないとな」
「ジャック…さま…」
涙に濡れた瞳で名を呼んだ私の声には、もはや支配者であった過去の威厳すら無くなっていた。
「お前からすれば不運だったかもしれない。だが、俺からすれば今回の一件は実に幸運なことだ」
あぁ、ジャック様…。
無様に負けた私にすらそのような慈悲深いお言葉を頂けるなんて――。
「だから、今後は俺の下で生きることを許そう。その美貌と知恵を使って、俺の為に生きるんだ」
あなた様と共に――共に同じ道を歩めれば、あなた様の見ている景色の一端くらいは私にも見えるのでしょうか。
あぁ、ジャック様…。
私は…あなた様に――忠誠を誓います。
「…なんでもします。なんでもしますから、ジャック様…あなた様のお傍にいることをお許しくださいませ」
言ってしまった。
私は、言ってしまった。
相手が『切り裂きジャック』であれば、絶対に言ってはいけない言葉を自ら直接口に出してしまった。
「ふっ、許すも何も…もうお前の全ては俺のものだと言ったはずだ。勝手は許さんぞ」
その言葉通り、人前でも構わず私の胸に手を伸ばした彼はそのまま優しく力を込めて揉みしだいた。
「心配なさらなくても、もうそんなつもりはありません。あなた様についていきます、どこまでも」
私も人前であることなどまるで忘れて、感情の赴くままに彼へ抱き着いた。
すると、彼は優しく抱きしめてくれて、これまで感じたことの無い幸福感に満たされる。
どんな勝負に勝っても得られなかったものが大勝負に負けたことで得られたというのは、勝負師としては複雑なもの。
でも、その肩書きももうおしまい。
今の私は――ジャック様の忠実なる僕なのだから。




