鉄の扉
修と別れてから、俺は一人で二階を探索していた。
探索の目的は、ハルトというホストを見つけ出し、一刻も早くこの建物から外に出ることだ。
「修……あいつ、目的を忘れてないよな……」
誰にともなくつぶやく。
修というあの青年は、いまだ大人になりきれていないような、少年のような目をしていたことを思い出す。
『なんか、わくわくしていたなあ……』
この建物に入った時のことを思い、俺は苦笑をもらした。
『でも、今はあいつを信じるしかない』
ハルトは何を考えているかわからない上に、協力するつもりは一切ないらしい。
三浦さんは一人で電車に戻った。
こうなっては、頼みの綱は修以外にはいない。
『菜々ちゃんのことは心配だったが、三浦さんが電車に戻ったなら少しは安心かな』
「……あ……」
考えごとをしながら歩いてきた俺は、壁にぶち当たってしまった。
「なんだ……ここ……?」
病室だろうか。それにしては大きな扉だなと思いながら、スマートフォンの明かりを向ける。
「……手術室……?」
表札には、薄っすらとそう書かれているようだった。また、扉の上はすりガラスのようになっている。もちろん、中に明かりなどはない。真っ暗だった。
「……まさか、この中にはいないだろうな……」
廃病院の手術室なんか、入りたくはない。
けれども、ハルトがどこにいるのかわからない以上、ひとつの部屋も見過ごすわけにはいかないだろう。
俺は、意を決し、扉を開けようとした。
だが……。
「……なんだ……」
思わず肩を落とす。安堵の吐息がもれた。
……手術室には入れなかった。
扉の取手は、錆びついた鎖でぐるぐる巻きにされていたのだ。
「これじゃあ、ハルトって奴もここに入ることはできなかったよな」
そうひとりごちると、踵を返して先を進んだ。
上ってきた階段を通り過ぎ、すぐ隣の部屋に入る。
簡易ベッドがところ狭しと並べられていた。
「病室……か」
廊下以上に重い空気が立ち込めている。
思わず、袖口で鼻と口を覆う。
『この臭い……』
埃とカビの臭いが鼻をついた。
むせ返るようだ。
だが……なんだろう。この臭い……。それだけじゃないような気がする。
『……汗、の臭い……』
そんなわけがない。かつて、ここに患者が収容されていたとして、いつまでも汗の臭いが残っているはずがない。たとえ残っていたとしても、人間の嗅覚でそれが追えるとは思えない。
しかも……。
『……いったい、ここで、何が……』
眉間にしわが寄る。
『さっきの、手術室……か?』
ふと思ったが、そんなことはないだろう。俺は、扉にも、鎖にも、一度も触らなかった。
そっと、後ずさる。
そして、病室の扉を閉めた。
鼻と口を解放し、ひとつ大きく呼吸をする。重く淀んだ空気でさえ、あの病室の空気よりは遥かにましだ。
俺は、あの病室で……確かに、鉄錆の臭いを嗅いだ気がしたんだ。
そう……あれは、たぶん、血の臭いだったんじゃないだろうか……。
隣の病室も、その向かいの病室も、その隣の病室も、さっきの病室とそう変わらない……。
どの病室も埃臭く、汗と血の臭いが染みついているようだった。
『……これは、気のせいなんかじゃない……!』
いつの間にか、俺は小走りで廊下を駆けていた。
一刻も早く二階を見終えて、ハルトを見つけ出し、一階の修と合流して……そして、この廃病院から外に出たかった。この時の俺は、そのことばかりを考えていた。
『……くっせえ……』
鼻の奥にこびりついているように、血の臭いがどこまでも追ってくる。
しかも、病室を開けるたびに、その臭いは濃くなっているようだった。
『……なんなんだよ、ここは……!』
気がつくと、俺は無我夢中で走っていた。
まるで、何かから逃れるかのように……。
「あれが、最後だ……っ」
恐怖を打ち払うかのように叫んだ。そして、最後の部屋の前に辿り着いた時……全身に戦慄が走る。
「……なん、だよ……これ……」
目の前に現れたのは、赤茶けた、重々しい雰囲気の鉄の扉だった。
『なんで、病院にこんなモノが……』
そう思った時、異様なまでの血の臭いが鼻孔を刺激した。
「……うっ」
思わず両手で鼻を塞ぐ。
『……鉄錆の臭い、か?』
目の前の鉄の扉を見て思う。
だが、このむせ返るほどの臭い……。
夥しい血飛沫が上がるのを彷彿とさせた。
……テ……テ……テ……
俺は、全身の動きを止めた。
……何かが、聞こえる……。
……テ……タ……ス……ケ……
『……助けて……?』
まさか、先に行ったハルトか? あるいは、一階を見終えた修だろうか。扉のすぐ横には、一階へと続く階段があった。
『……開いている……』
扉には、南京錠を通すような穴が見えたが、鍵はかけられていないようだ。
俺は、そっと扉に手をかけた。
ざらついた、鉄の感触。
ぎぎぎっと、重々しい音を響かせて、ゆっくりと扉が開く。
扉が開ききった時、目に飛び込んできたその光景……。
そのあまりのおぞましさに、俺は呼吸も忘れて、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった――。