Extra edition 2 ~柏木修の場合~
「ハルトって人を見かけたら、連れてここから脱出するんだ」
そう言って、真崎さんは階段を上って行った。
「さてと」
思わず舌なめずりをする。
「どこから見て回ろうかなあ」
自分でも驚くほどに明るい声が出た。
もちろん、こんな状況で不謹慎だということは理解しているつもりだ。
でも……。
「地下の廃病院なんて、最高のシチュじゃん。その辺のホラーゲームより、断然テンション上がるよ」
僕は心を踊らせながら、手始めに階段のすぐ隣にある部屋の扉を開いた。
そこは、病室みたいだった。
部屋には簡易ベッドがところ狭しと並べられている。
もともと白かったと思われるシーツは黄ばんでいて、埃が厚く積み重なっていた。
シーツのところどころには、黒い染みが見える。
『……血、かな』
そう思いまじまじと観察していると、
――ギギィ……バタン……。
扉が閉まった。
思わず振り向く。当然ながら、そこには誰もいなかった。
『……風、か……?』
だが、そんなわけがないことはわかっていた。
周りの空気は淀みきり、全身にまとわりついている。
どこにも逃げ場のない空気が、僕に重く圧しかかっていた。
「……真崎さん?」
スマートフォンのライトを扉に向けながら尋ねる。
「……ハルト……さん?」
もしかして、という思いを込めて尋ねたが、返答はなかった。物音もしない。
「気のせい……か……」
腑に落ちない気持ちを抱えながら扉に向かう。
その時、何かに足を取られて転んでしまった。
「……痛ってえ……」
振り返って足元を見ると、シーツがまとわりついていた。どうやら、床に落ちていたシーツを踏んでしまったようだ。
「……なんだ……」
わずかに安堵し、僕は立ち上がろうと床に右手をつけた。
――カラン……。
右手に何かが当たった。左手に握り締めていたスマートフォンで、それを照らす。
……僕は、思わず身を引いた。
「……なんだ、これ……」
それは、その場に似つかわしくない物だった。
「糸、ノコギリ……?」
錆びの浮いた、刃先がボロボロの、糸ノコギリだった。
「何で、こんな物が……」
そう思いながら、足元のシーツに目を向ける。
光に照らされ、浮かび上がる黒い染み。
血の痕のような、それ。
そして、錆びついた糸ノコギリ。
僕の中で点と点とが結びつき、ようやく線になるのを感じた。
『でも……ここ、病室……だよね』
手術室にあるなら、なんとなく理解はできる。
たぶん、これは手術用のノコギリなんだろう。
足か、腕を切断するための……。
しかも、だいぶ昔に使われていた物だと思う。
今なら、きっと電動ノコギリを使うはずだから。
僕は、足に絡まったシーツをそっと外すと、足早にその病室から外に出た。
冷や汗が止まらない。
僕は、心霊スポット巡りや廃墟の探索が趣味だ。
何が出てきても、どんな状況にも、物怖じしない自信があった。
それなのに、さっきから背筋に悪寒を感じる。
夏だし、地下なのに……。
空気の流れがまったくないこの場所で、僕は寒気を感じて身震いした。
それでも、僕は真崎さんとの約束を果たそうとした。
ハルトさんを見つけてここから脱出する。あるいは、見つけられなくても一階の探索が終わったら脱出する。
つまり、一階にある部屋は全部見て回らないといけない、ということだ。
扉を見つけると、僕は手当たりしだいに開けて回った。
どの部屋も、さっきの病室とそう変わらない。
簡易ベッドが部屋いっぱいに敷きつめられ、ベッドとベッドの間には一人がようやく通れるほどの隙間しかなかった。
扉を開け、部屋を見回し、そこにハルトさんがいないことを確認すると外に出る。それを繰り返し、みっつめの扉を開けた辺りから、僕は異変に気がついた。
『……誰か……いる……?』
……背後に、気配を感じる。
そして、その気配は、扉を開けて部屋に入り、その部屋を出るたびに増えて行っている。
よっつ目の扉を開く。ハルトさんはいない。部屋を出る。……また、気配が増えた。
いつつ目。扉を開く。ハルトさんは、やっぱりいない。部屋を出る。……気配が増える……。
『……重い……』
この建物に入った時よりも、明らかに全身が重い。
「……うわあ……っ」
僕は、思わず叫び声を上げ、立ち止まった。
……手だ。
黒い手のひらが、突然目の前に現れたのだ。
僕の目を覆うように突き出されて、とっさに後ずさった。
――どん……っ。
何かが背中に当たった。
僕は、まるでからくり人形にでもなったように、ギギギっと音がしそうなほどのぎこちなさで首だけを背後に巡らせる。
その瞬間……血の気が一気に引いた。
「……な……な……」
奥歯が噛み合っていない。
がちがちと、歯がこすれる音が耳の奥で聞こえた。
振り返った先には……黒い、何かがいた。
人型のように見える、それ。
一人じゃない。
数人……じゃない。
……幾十、幾百……。
一階の廊下を埋め尽くすほど、ずっと奥までそれが続いていた。
僕は、もう叫ばなかった。
――いや……叫べなかった。
情けないことに、気を失ってしまったから。
床に全身を打つ痛みすら、その時の僕にはまったく感じなかった。
ただ、気を失う寸前、最後に見たものは……。
倒れる僕を、にやりと口角を上げて見下ろしている……黒いヤツらの不気味な笑顔だった。