Extra edition 1 ~一条唯の場合~
「……暗いな」
俺は、舌打ち混じりにスーツの内ポケットをあさる。ライターを取り出すと、石を擦った。
ぼっと、仄かに辺りが明るくなる。
さっきまで背後から明かりが追ってきていたようだが、いつの間にか消えていた。
「ようやく役に立ったな」
俺は、橙色の明かりを灯すライターを横目につぶやく。
これは、数ヶ月前、客の女からもらった物だ。
俺はタバコを吸わない。だが、何を勘違いしたのか、女は「あなたにぴったりの物よ」と言って、これを寄越した。
手にした重さとその輝きから、純金であることはわかる。装飾は派手で俺好みではないが、かなりの値打ち物だろう。
俺は、この辺りでは一番のホストクラブに所属している。
しかも、その店でナンバーワンだ。
通り名はハルト。
……本名じゃない。
俺は、自分の名前が嫌いだ。
ゆらり……。
ライターの火が、不自然に揺れた。
『風か……?』
だが、俺には淀んだ空気以外は感じられない。
淀みすぎて、全身に重さすら感じる。
……イ……イ……ユ……イ……ユ……
嫌な響きだ。
何かが反響しているのだろうか。
……イ……ユ……イ……ユ……イ……
俺は、眉間に皺を寄せた。
違う。これは、反響する音なんかじゃない。
明らかに、意思を持ったヤツの声だ。
「誰だ!」
叫びながら身構える。
「出てこい! 俺に何か用でもあるのか?」
辺りは静かだ。今は何も聞こえてこない。
「どうやって俺の名前を知ったかは知らねえが、とっとと出てきやがれ!」
だが、いくら待っても、誰も現れる気配はなかった。
一条唯。
それが俺の本名だ。
子供の頃はひょろっとしていたし、女みたいな顔立ちだった。それに加えてこの名前だ。周りからは「女みたい」と囃し立てられたり、女扱いされることなんかは日常茶飯事だった。
……ユ……イ……
また、声が響いてくる。
「その名前を呼ぶんじゃねえよ!」
ひときわ大きな声で怒鳴った時、
《唯ちゃん》
……耳元で、はっきりと声がした。
反射的に振り向く。
だが……。
………そこには、誰もいない……。
《キャハハハハハアアアァァ!!》
男とも女とも、大人とも子供ともつかない、たくさんの笑い声……。
この時、俺は、この建物に足を踏み入れてから、初めて背筋に冷たいモノを感じた。
「……なん、なんだよ……」
つぶやいた声が震えている。
俺は、唇を噛み締めた。
『……くそっ、情けねえ……!』
ひとたび自覚してしまった恐怖を振り払うように、俺は歩く速度を速めた。
歩く、というよりは小走りに近い。
手にしたライターの炎が、風に煽られるように何度か消えかけていた。
『……階段か』
建物に入ってからまっすぐに進んできたが、最奥にまできてしまったらしい。
俺は、目の前の階段を駆け上がる。そして、二階の踊り場に出た時に、またも何かが聞こえてきた。
……テ……テ……テ……
か細い、今にも消え入りそうな声だ。
……テ……ス……ケ……
「……ここは……」
ライターの仄かな明かりをかざす。
階段を上ってすぐ、がっしりとした赤茶けた鉄の扉が見えた。
扉には、南京錠を通すような鍵穴が見える。
ここがかつて病院だったとするなら、とても似つかわしくない部屋だ。
「こんなところに入れられるような患者って、どんな奴だよ……」
病室と言うよりは監獄のようだなと思っていると、また声が聞こえた。
……ケ……テ……タ……ス……ケ……
今度は、はっきりと聞こえてきた。
しかも、声は、この扉の向こうから聞こえてくる。
『……間違いねえ』
俺は、固唾を飲んだ。
……タスケテ……。
声が、そう言っている。
これは、罠か? ……それとも……。
『まさか……電車に乗り合わせた連中の誰かが閉じ込められているのか?』
いや、しかし……。
それはないだろうと、すぐに考えを打ち消した。
何せ、この建物に真っ先に足を踏み入れたのは俺なのだから。
俺よりも先にこの部屋に辿り着いているわけがない。
「鍵……開いているな……」
そう、つぶやいた。
俺は、考えるよりも先に行動に移す性分だ。
「……誰か、いるのか?」
ひとつ声をかけると、俺は、そっと、目の前の重い扉を押し開いたのだった――。