トンネルの向こう
「なあ……」
声が上がった。振り向くと、ハルトが力なく項垂れている。
「もう、いい加減、病院に行きたいんだが……」
俺は、はっとした。
「そうですね。菜々も病院に連れて行きたいし」
修も、菜々ちゃんの肩を抱きながら言った。
「そうだな。それが先決だったよな。……悪い」
ジーパンのポケットからスマートフォンを取り出す。緊急病院に電話をしようとしたのだ。そこで、俺は気がついた。
「え……今って、もう五時を過ぎているのか……?」
俺の言葉に、みんなも目を丸くして驚いている。……まだ、夜のつもりでいた。
「電話をするって、どこにだ?」
おじいさんに尋ねられ、俺は考えた。
この状況で普通の病院になんか行ったら、警察沙汰になるんじゃないだろうか……。
いや、俺たちが悪いわけではないのだから、警察に行くのは構わない。けれども、果たして、警察が俺たちの言うことを信じてくれるだろうか。
俺たちにはそれぞれ生活がある。警察沙汰などにして、それを脅かされるのは避けたかった。
すると、おじいさんが、一枚の名刺を差し出してきた。
「そこに行くといい」
名刺には、病院と院長の名前が書いてある。近いようだが、聞いたことのない名前だ。
「そこの院長なら、何も聞かずに診てくれるだろう。この時間だって問題ない。腕もいいから、安心しろ」
「何も聞かずにって……。もぐりの医者か?」
安心しろと言われても、安心などできない。
その医者のこともそうだが、その医者を紹介するおじいさんもまた、かなり怪しいのだ。
「さて、わしはそろそろ行く」
俺の心境を知ってか知らずか、名刺を渡すと、おじいさんは駅の奥に向かって行ってしまった。
「行くって……どこへ……?」
首を傾げる俺の耳に、ぼそぼそと話し声が聞こえてきた。
見ると、すぐそばに待合室がある。
すりガラスのような仕様になっていて、中は見えない。木造の扉はしっかりと閉ざされていた。
「まだ始発の時間にもなっていないのにな……」
「え……なんです?」
俺のつぶやきに、修が首を傾げてこちらを見ている。
その時だった。
「……何をしているんですか?」
突然、声がかけられた。
それは、駅員のようだ。小鳥遊さんと同じ制服を着ている。
「こんな時間にいるなんて……。どうやって、ここに入ったんですか?」
俺と同じぐらいの年頃だろうか。駅員は、足早に階段を下りてきながらまくし立てた。
「いや、俺たちは……」
言いかけたところで、
「うわ……っ」
駅員が声を上げた。その目は、ハルトの足の包帯に釘づけとなっている。
「これは……いったい……」
俺は溜め息をつくと、昨日の夜に俺たちの身に起きたことを彼にも話した。
信じてなどもらえるはずがない……そう思ったのだが、意外にも、彼は蒼褪めた顔をして、
「……よく、ご無事でしたね……」
そう答えたのだった。
「もしかして、あなたも何か知っているんじゃ……」
尋ねると、
「少し前に、私の上司が行方不明になりまして……」
とその駅員が語る。
「その人って……小鳥遊さんって人じゃ……?」
俺の言葉に、駅員はひどく驚いた表情をしていた。
「どうして、それを……?」
「俺たち、小鳥遊さんって車掌さんにここまで運んでもらったんです」
「そんな……」
駅員は、顔を蒼褪めさせながら言う。
「……小鳥遊さんは、七ヶ月前に失踪したきりです」
七ヶ月前……。
あの地下で小鳥遊さんが言っていた。
七ヶ月前にここにきた……と。
「……美月っ」
菜々ちゃんが口を開く。
「あの……小鳥遊、美月って……」
必死な様子の菜々ちゃんに、
「ああ……。小鳥遊さんの娘さんですね。確か、美月ちゃんって名前だったと思いますが。それが、何か?」
それきり、菜々ちゃんは口を閉ざしてしまった。
「……もうすぐ始発の電車がきます。乗りますか?」
尋ねられ、俺たちは全員首を横に振った。
「なら、ホームから出て下さい。本来、この時間にホームに入ることはできないんですよ」
そんな小言を聞きながら、俺たちは階段を上った。
「あ、あの人たちはいいんですか?」
ハルトに肩を貸しながら尋ねる。
駅員は首を傾げた。
「さっき、ホームでおじいさんに会ったんですよ。それに、待合室にも人がいました。話し声もしていましたよね? 聞きませんでしたか?」
そう言ったとたん、駅員の表情が見る間に曇っていく。
「……やめて下さいよ」
彼は、そう言った。
「そんなわけがないでしょう? 始発まで、駅は封鎖されるんです。昨夜に入ってきたあなたたちは別として、この時間にホームに入ることなんかできるはずがないんです。それに、待合室だなんて……それこそ、ありえない」
「……どうして?」
「あの待合室は封鎖されています。中が見えないように内側から布を張っているし、扉には南京錠がかけられている。あの待合室を使うことは、誰にもできないんですよ」
「え……だって……」
じゃあ……俺が聞いた、あの話し声は何だったんだ……?
それに、あのおじいさんは……いったい……?
「さあ、出ましたよ」
まぶしさに思わず目を閉じる。
太陽の光は、人工的な光とは比べようもない。
「とりあえず、連絡先だけここに書いて下さい」
そう言われて渡された手帳に、俺たちはそれぞれ連絡先を書き込んだ。
「終電後に走る電車に乗って生還したのは、たぶんあなた方がはじめてです。私も、仕事として上には報告しなければなりません。何かあったら連絡させて頂きますね」
そう言って、駅員は階段を下り、再び地下へと帰って行く。
「……じゃあ、病院に行くか?」
俺は、傍らのハルトに尋ねた。ハルトは、無言でうなずく。血を失い過ぎて朦朧としているようだ。
「僕たちも行きます」
修が菜々ちゃんの肩を抱いて言う。
「……すみませんが、私は、家に帰ります」
三浦さんが、いつものおどおどとした感じで言った。
実にすまなそうに目を伏せて言うが、誰もそんな三浦さんを責める者はいない。
三浦さんには家庭があるだろうし、当然の選択だ。
三浦さんが去ったあと、俺たちはタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手は訝しんだ顔をしていたが、青い顔のハルトと菜々ちゃんをただの酔っ払いと思わせることに成功した俺たちは、名刺に記された病院を目指す。
得体の知れないおじいさんからもらった名刺だが、他に行くあてのない俺たちは、とりあえずそこに行ってみることにしたのだった。
タクシーに揺られながら、俺は、昨夜体験したことを振り返った。
あれは、果たして……本当に、現実だったのだろうか。
だが、おじいさんの言葉が本当だとするならば、地下のあの施設では、かつて非人道的なことが行われていたということだ。
戦時中の出来事だったということを加味しても、決して許されることではない。
病院とは名ばかりの、残虐非道な処刑場と化していたとは……。
トンネルの向こうには、いまだ報われない思いが漂っているのだろう。
そして、終電後に電車を走らせては、それに乗ってくる者たちをあの病院に導いているのだ。
かつては、新たな怪我人を受け入れるために人を殺していたが、今では取り殺すこと自体が目的となっている。……そんなところだろうか。
『……小鳥遊さん。あの人がいなかったら、生きては帰れなかったな』
探したが、ホームのどこにも彼の姿はなかった。
『それから、あの女の子……』
菜々ちゃんが美月と呼んだ、あの黒髪の女の子。
『小鳥遊美月って、そう言っていたな』
駅員が小鳥遊さんの娘だと言っていた。
だとするなら、俺たちは全員、あの父娘に救われたということだ。
そして……。
あの父娘は、今もきっと、トンネルの向こうにいるんだ。
『トンネルの向こうで……俺たちみたいなのを助けようとしてくれているのかな』
そんなことを思っていると、右肩に衝撃が走った。ハルトの頭が、俺の鎖骨を直撃したのだ。
鈍い痛みに耐えながらハルトの顔をのぞき込む。ハルトは目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。
どうやら眠っているようだ。しかし、その顔色はさっきよりも青い気がする。
「運転手さん、すみません。もう少し急いでください」
そう告げると、運転手は何も聞かずにスピードを上げてくれた。
俺は、少しほっとする。
今は早朝。交通量も少ない。
この調子なら、あと十分もしないうちに目的の病院へと辿り着くことができるだろう。