廃病院の実態
「おい……。おい、しっかりしろ」
しわがれた声に呼び覚まされた。
俺は、ゆっくりと起き上がる。頭を打ったらしい。少し頭痛がした。
「大丈夫か?」
声をかけてきた人物を見る。白髪の、皺の深いおじいさんがそこにいた。
辺りは薄暗いが、さっきまでいたところに比べればまぶしいぐらいだ。
「う……ん……」
「……ここは……」
そばで声がする。見ると、俺だけでなく、あの電車に乗っていた連中が全員、駅のホームに倒れている。
いや、違う。
全員、じゃない。
……一人、いない。
車掌の小鳥遊さんの姿がどこにも見えなかった。
「あの……俺たち以外に、誰か見ませんでしたか?」
俺はおじいさんに尋ねた。
「いや、見てねえなあ」
おじいさんが言う。
「ところで、お前たち。何があった?」
……聞かれて然るべきなんだろう。
ハルトは、足に血の染み込んだ包帯を巻いている上に、スーツの右足側は流れ出た血で赤黒く変色している。
菜々ちゃんは、左鎖骨の下辺りが赤黒い。血は止まっているようだが、周りの肉が少し盛り上がったようになっているのが痛々しい。
ハルトを運んだり、手当てにあたったりした俺や修も、あちらこちらに血がこびりついていた。
三浦さんは血の痕こそないが、その首には、二センチぐらいの幅の内出血の痕がくっきりと残されている。
「……俺たち、終電後の電車に乗ってしまったんです」
何をどう話せばいいのか、見当もつかない。だから、俺は、順を追って正直に話すこととした。
「そうしたら、その電車は、急に脇道にそれました。ポイントが切り替えられたようで……」
「なるほど。それで、あそこに呼ばれたんだな」
おじいさんの口振りに、
「まさか……何か、知っているんですか?」
横から修が尋ねた。すると、おじいさんは、トンネルの向こうを眺めながら昔話をはじめたんだ。
かつて……。
第二次世界大戦の真っただ中。
戦火から怪我人を守るため、政府は地下に病院を築いたらしい。
空襲などで負傷した人たちを、まるで貨物列車に荷物を詰め込むようにして押し込め、電車で病院まで運んでいたという。
乗せられた時からすでにそうだったのか、運ばれる途中でそうなったのか……。
病院に着いた時には、すでに息がないという人もたくさんいたらしい。
その電車で運ばれるのは、死者や負傷者だけではなかった。
いわゆる「非国民」と呼ばれる人たちも、その中にいた。
政府直轄の病院であるそこでは、そう言った人たちへの「再教育」も施されていたという。
「それは、ひどい内容だった……」
おじいさんは、まるで見てきたかのようにそう語った。
「あの病院には、牢獄のような部屋があってな」
「……拷問部屋」
思わずつぶやく。
「拷問部屋か。確かにな……。そう言われて然るべき様相の部屋だ」
おじいさんが目を細めて言った。
「『再教育』と言ってもな、それを行ったのは政府の人間じゃない。あの病院の医者だよ。政府は、院長に、あの病院でのことの一切を任せていたんだ」
その病院の院長は、もともと優秀な医者だったらしい。
腕もよくて人望もあった。
だが、地下の病院に配属され、一歩たりとも地上に出られない生活を送っていた彼は、しだいに変わりはじめてしまった。
毎日毎日、瀕死の怪我人と死体が運ばれてくる。それも、大量に。
まずは、ベッドの数を増やした。でも、間に合わない。
死体は霊安室に入りきらず、病室に入りきらなかった怪我人とともに廊下に置かれた。
院長は政府にそのことを伝えた。これ以上の受け入れは無理だ、と。
すると、政府からの返答は、死体は送り返してくれて構わないというものだった。
地上で処分するから、と……。
だが、それでも、院長は頭を悩ませた。
確かに、死人は毎日出る。しかし、死体をすべて引き取ってもらったからといって、何が変わる?
死人よりも、生きている人間が多いのは当たり前だ。ここは、病院なのだから。
その人間が、たとえ瀕死の状態であったとしても……。
「毎日、瀕死の怪我人や死人に触れていると、精神を病んでいくものかもしれないな」
……どんなに優秀な医者であったとしても。
そう、おじいさんが言った。
ある日、院長は、「再教育」を施すために連れてこられた男を殺してしまった。
駆けつけた看護師たちは、その凄惨さに言葉を失った。
鉄製の椅子に拘束された男は、ノコギリで両手両足を切断された挙句、両目に釘を打ち込まれていたという。
「私の質問に答えないから、つい殺してしまった」と、院長は看護師たちにそう言ったらしい。だが、看護師たちはすぐに気がついた。
死体には、舌がなかったことに……。
それは、鋭利な刃物で切り取られたかのようだった。
「舌がなければ、話すことなどできるはずもないだろうに」
俺は、あまりの気持ち悪さに胸を抑えたが、おじいさんは淡々と語り続けた。
それからというもの、院長は狂ったように殺戮を繰り返したという。
「非国民」に対してだけではない。患者に対しても……。
「怪我人を新たに受け入れるためには、患者に死人になってもらうのが一番だからな」
おじいさんの言葉に、俺はぞっとした。
政府直轄の病院を預かる院長が、政府の意向に背くわけにはいかない。
しかし、物理的に、無理なものは無理なのだ。
ならば、どうすれば……。
考えた末に、院長は、ある恐ろしいことを実行に移したのだ。
運び込まれた患者を、死に最も近い者から、次々に殺しはじめたのだ。
「具合のよくない者たちは手術室に運ばれて行ってな。それで、みな、次々に死体となって病院から運び出されて行ったのよ」
ごくりと、喉が鳴った。ちらりと見ると、全員がその話を聞いて蒼褪めている。菜々ちゃんなどは、恐怖のあまり泣き出しそうだ。
「それじゃあ、あのバケモノは……」
修と菜々ちゃんが、びくりと肩を揺らす。
「バケモノ?」
「手術室で、真っ黒いバケモノに襲われたんです」
「ああ……そうか」
おじいさんは、何かを納得するようにうなずいている。
おじいさんの話が本当なら、あれは、たぶん、院長だったんだろう。
医者を名乗り、殺戮を繰り返していた院長が、死んだとしても成仏などできるはずがない。
きっと、今もなお、あの場所に居座り続けているのだろう。