追ってくる漆黒の闇
「……走れ!」
俺は叫んだ。
手術室にいた漆黒のバケモノが、俺たちを追ってくる。
修が菜々ちゃんの手をつかみ、出口を目指す。俺も、二人の背中を追って走った。
背後から、けたたましい音が聞こえる。
木造の床を鳴らしながら、猛スピードで追ってくる音。
まるで、建物全体が揺れているようだ。
病室の扉の上のすりガラスが、ヤツの通ったあとにことごとく割れて、その破片が俺たちに容赦なく降り注いでくる。
「……きゃっ!」
思わず立ち止まった。目の前で、菜々ちゃんが転んだから。
修は、菜々ちゃんの手を引き、無理矢理にでも立たせようとしている。
俺は、そっと背後を振り返った。
全身に鳥肌が立つ。
冷や汗が、止まらない。
……追いつかれた……。
もう、すぐそこに、ヤツはいた。
ヤツの背後には、何もない。
ヤツが通ってきただろうところには、何も存在していなかった。
まるで、ヤツがすべてを食い尽くしてしまったかのように。
漆黒の闇だけが、どこまでも続いているようだった。
『……まずい……』
ちらりと修たちに目を向ける。すると、修も菜々ちゃんも、こちらを見ていた。俺は、焦りと憤りとを含んだ声で怒鳴る。
「見ている場合か! 早く……走れって!」
自分の声に幻滅した。
声には、まったく覇気がない。
怒鳴っているはずなのに、涙声のように聞こえる。完全に震えていた。
少しでも遠くへ逃げなくては……。
再び走り出そうとしたところで、がくりと膝が折れた。
『……くそ! こんな時に……』
がくがくと震えて、まるで膝に力が入らない。
「……美月」
ふと、微かな声を聞いた。
『……みつき……?』
何のことだと思い、顔を上げる。その俺の横を、長い黒髪の、菜々ちゃんと同じ年頃の女の子が通った。
「え……?」
新たな登場人物に、俺は驚いて彼女を見る。すると、彼女は、漆黒のバケモノの前に一人立ちはだかった。
「彼女が危ない」という思いと、「この隙に逃げなくては」という思いとが俺の中で交錯する。
彼女が、こちらを振り返った。
形のよい小さな唇が、微かに動く。
……ごめんね……。
『何のことだ……?』
俺にはわからない。だが、その女の子は確かにそう言っていた。
「……美月!」
菜々ちゃんから泣き声が上がる。その声が、急速に俺の心を冷やしていく。
「……立て! 修、菜々ちゃん、走るんだ!」
俺の声に、自分を取り戻したらしい修が菜々ちゃんを立たせる。そして、その手をつかむと、二人は全速力で出口に向かい駆け出した。俺も、震える膝をひとつ叩くと、すぐさまそのあとを追う。
その瞬間、傍らの女の子の横顔が見えた。
長い髪に隠されて表情までは見えない。だが、その口元は、微かに笑っているようだった……。
すっと全身が軽くなった。
廃病院の外に出ると、それまで重しのように感じられていた空気がとたんに軽くなる。
修と菜々ちゃんの表情に安堵の色が見えた。また、俺にも……。
どこか、ほっとしている自分がいる。
だが……。
『……まだだ。まだ、気を許しちゃいけない!』
俺は、強くそう言い聞かせた。
あのバケモノが、廃病院の外に追ってこられないとは限らないのだから。
「走れ! 電車に乗るんだ!」
俺は叫び続けた。
電車に乗ったからといって、そこが安全とは限らない。
けれども、たぶん、あのバケモノは光に弱いような気がする。
豆電球のような淡い光では抑えることはできなかったが、電車の蛍光灯の光なら、きっと……。
そこに一縷の望みをかけ、俺たちは電車に飛び乗ったのだった。