手術室のバケモノ
俺が手術室の扉を開けた時、修が何かに向かって突進して行った。
見れば、部屋の奥には薄いカーテンが引かれている。
そのカーテンの隙間からは、白くて華奢な腕が垂れ下がっているのが見えた。
たぶん、誰かが、台の上に寝かされているんだろう。
そして、伸びてきた黒い腕のようなもの……。
その手には、ぎらっと鈍い光を放つモノが握られている。
「……いったあ、あ、あ……!」
悲鳴が上がった。
その声に、俺は息を呑んだ。
『そんな……まさか……』
「菜々!」
修が、力いっぱいにカーテンを開いて叫ぶ。その反動で、もともとぼろぼろだったカーテンが破け、はらりとその裾を床に垂らした。
「……菜々、ちゃ……」
情けない声が出た。
舌が、上顎に引っついてうまく喋れない。
カーテンの向こうには、病室にあったものと同じ簡易ベッドがあった。その上に、彼女は寝かされていた。
彼女の頬は、てかてかと光り、顔は青褪め、苦悶の表情を浮かべている。
その口は大きく開かれ、今もなお呻き声を上げ続けていた。
次の瞬間、修は何かに殴りかかった。
カーテンに隠れていて、そこに何がいるのか俺には見えない。
駆け寄って確認しようとした時、殴りかかったはずの修がもの凄い力に吹き飛ばされた。
「……修!」
俺は、破らんばかりに残りのカーテンを乱暴にめくる。
そして、息を呑んだ。
……ある程度は予想していた。
だが、その状況は、想像の範疇を超えていた。
そこには、簡易ベッドが置かれていた。
それは、この部屋に入った時から見えていたので、そこは問題ない。
部屋の外で聞いた声、それから修の様子を考えるに、ベッドには菜々ちゃんが寝かされているかもしれないとも思った。
それは、予想通りだった。
しかし……。
もの凄い力が、俺を殴り飛ばした。
修同様、壁に激突した挙句、床に全身を打ちつける。一瞬、呼吸が止まった。
ふと顔を上げると、起き上がろうとする修の姿が見える。
目線をずらせば、そこに……黒い、何かがいた。
形は、ない。
黒い、漆黒の闇のような禍々しいオーラ。
手術室のその一角に、漂っているように見える。
『……寒い……』
それを見ていると、どういうわけか芯まで冷え込むような感覚にとらわれた。
「真崎さん、菜々を助けて下さい」
立ち上がった修が、脇腹を押さえながら言う。
俺も立ち上がり、ベッドの上の彼女を見た。
左の鎖骨の下辺りを真っ赤に染めている。何か、鋭利な刃物で切られたかのようだ。
何で切られたのか、すぐにわかった。
メスだ。
ベッドの下に、血に染まったメスが落ちている。
「……何をする気だ?」
修が、一歩、漆黒のモノに向かい踏み出した。
「菜々を、助けて下さい」
その声は、震えている。
俺は、そっと、修の肩に手をそえた。
「……それは、お前の役目だろ」
そう言ったとたん、目の前の漆黒が大きく膨れ上がった。
とっさに修の肩を引く。漆黒から伸びた黒い触手のようなモノが、今まで修が立っていた床を貫いた。床板の破片が舞う。
標的を失った漆黒が、次の手を考えるように蠢いていた。
「修! 早く行け!」
俺が叫ぶ。修は何かを言いたそうにしていたが、言葉を呑み込むと、ベッドに寝かされていた菜々ちゃんを背負って駆け出した。
その瞬間、漆黒の体がまたしても大きく膨れ上がった。
そして……。
――パリィィィンっ……。
真っ暗になった。
思わず目をつぶってしまったのかと思ったが、そうじゃない。
電球が割れたんだ。
俺は、すぐにスマートフォンを取り出す。ライトを点けた。
……漆黒から伸びた触覚のようなものが、修と菜々ちゃんを襲おうとしている……。
俺は、落ちていたメスを拾い上げると、それを触覚に向けて投げた。
運よく、メスは触覚を切り裂き、その瞬間、漆黒が怯んだように見えた。それを機に、修は手術室を出て行く。
漆黒が、力を失くしたように縮こまった。
『……効いたのか……?』
思いながら、俺も扉に向かって駆け出す。
漆黒が、どんどん縮んでいく。
どんどん、どんどん……。
……俺は、これ以上ないほどに、恐怖していた……。
『……まずい……まずい……まずい……』
これは、まずい。
これこそ、得体の知れない……本当の恐怖だ。
この静けさ……。
これから、何が起こるのか……。
……早く、出ないと。
この部屋から……。
いや……この、建物から……。
この、地下から……早く、脱出しなくては……。
――ガタガタガタ……。
揺れている。
小刻みに。断続的に。
――ガタガタガタガタガタ……っ。
どんどん、大きくなっていく。
それに伴い、漆黒が、膨らんでいく。
さっきとは、とても比べようもないほどに、大きく……大きく……。
それは、部屋を埋め尽くすほどに……。
――パリン、パリン、パリィン……っ。
あちらこちらから、ガラスの割れる音が上がる。
俺が手術室の扉に手をかけた時、背後から棚が倒れるような大きな音が聞こえた。
思わず、振り向く。
「……っ!」
声にならなかった。
……振り向いた先には、ヤツがいた。
しかも……距離なんて、ないに等しかった。
膨れ上がって行き場をなくしたヤツの体……。
いつ破裂してもおかしくない。
ライトを点けているのに、そこには闇しかなかった。
光すらも呑み込んでしまうほどの、漆黒の闇が広がっていた……。
「……あ、あ、あ……っ」
わなわなと震える俺の体。
目を見開いたまま、気が遠のきそうになった時、
「真崎さん!」
外から扉が開かれた。
「早く出て!」
修のおかげで我に返った。
俺は、修の案内に従って扉を出る。
そして、我武者羅に階段まで走った。
その時。
――バリ……バリバリ、バリバリバリィィィン……っ。
耳をつんざく音ともに、ガラスの破片が飛んでくる。
扉の上のすりガラスでも割れたのだろう。
「……修!」
階段の踊り場に菜々ちゃんがいた。
「菜々、走れ! ここから出るんだ!」
修のかけ声に応じるように、菜々ちゃんは急いで階段を駆け下りる。その走りっぷりから、胸の傷以外は無事であることがわかった。
……早く、早く、早く……。
俺は、自分に言い聞かせる。
立ち止まってはいけない。
一瞬でも立ち止まれば、ヤツの餌食だ……!
震える膝に力を込める。
……走れ、走れ、走れ……。
とにかく、走れ……!
心の中で、ただひたすらにそう唱えながら、俺はなんとか階段を駆け下りた。
そして、やっとの思いで一階の廊下に足を着いたのだった。