あの闇へふたたび
「真崎さんはこなくてもいいんですよ?」
廃病院の入り口に立った時、修が言った。
その物言いは落ち着いていて、平時と何も変わらないようだった。けれども、その表情は暗い。
俺は、溜め息まじりに、修の背中をばしっと平手打ちした。
「一人で行かせられるわけがないだろ」
そう言うと、痛みに顔を歪めていた修が、驚いたようにこちらを見る。そして、
「……ありがとうございます!」
と言って、にこりと笑った。
「……強いな、お前」
何気なく出た言葉に、修はきょとんとして、
「強いのは、真崎さんでしょ?」
と返してきた。
「怪我をした人のことなんか、ほっとけばいいのに。僕のことだって、ほっといて逃げればよかったのに」
「それは、別に強いからじゃないよ」
修が、ちらりと俺を見る。俺は、バツが悪そうに目を背けた。
「なんていうか……自分のためなんだ」
「自分の……?」
「見捨てたっていう罪悪感から逃れるため……。頑張ればなんとかできるかもしれないのに、自分の命惜しさに見殺しにしたってさ……。生き残っても、たぶん、一生後悔すると思うんだ」
「やっぱり、強いですよ。そんなふうに思えるだなんて。だって、普通……みんな、自分の命が一番に決まっている」
「うん。でも、修は戻るんだよな。菜々ちゃんのために」
「……僕も、後悔を残したくないんですよ」
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
そして、戻る……。
あの、おぞましき闇の中へと――。
廃病院に足を踏み入れると、再び、淀んだ重苦しい空気が全身に圧しかかってきた。
さっきまで、俺たちを追い立てるように激しく揺れていた病室の扉は、嘘のように静まり返っている。
――シン……。
耳を澄ませば、そんな音が聞こえてきそうなほどの静けさだった。
「……不気味だな」
「今さらですよ」
俺は苦笑する。
『確かに、今さらだ……』
と、間もなく、最初にここへきた時に俺と修が別れた場所についた。二階への階段と、一階の廊下とを交互に見比べる。
「また、二手に別れますか?」
修に尋ねられ、
「いや……」
俺は答えた。
「今度は、二人で行動しよう。建物の老朽化や暗がりだけが問題なら別行動でもいい。でも、ここはそうじゃない。他にも何か……得体の知れない、何かがいる」
「……」
「一人になるのは危険だ。また、さっきみたいなことになったら……」
「……そうですね。二人で行きましょう」
俺たちは、手近にある階段を上ることにした。
『一階から行ってもいいんだけど、向こうの階段を上ったら、あの拷問部屋があるしな……』
二階から行っても、その先には拷問部屋がある。
『あ……最初に一階を見て、向こうの階段の手前で戻って、この階段から二階に行けばよかったか……?』
いや、しかし。
一階には一階で、霊安室がある。
あそこにも、もう近づきたくはない。
そうこう思っているうちに、階段を上りきってしまった。
「さて。どっちにいきます?」
修に尋ねられ、
「右……だろうな」
と答えた。
「左には手術室があったけど、鎖で厳重に塞がれていて入れなかった」
だから右だ、と右へ進みかけたところで、
「でも……」
修が声を上げる。その目は見開かれ、じっと手術室の方に向けられていた。
「ここって、電気……通っているんですか?」
修のつぶやきに、俺は振り返る。
そこで……ありえないものを見た。
手術室の扉の上……すりガラスの向こうに、淡いが、確かな明かりが見える。
子供の頃、祖父母の家で見た……小さな傘の下で、剥き出しになった電球が吊り下げられているような、そんな、橙色の明かりが見えた。
「……なんで……?」
思わず口をついて出た。
だって、それはありえない……。
この建物のすべての部屋を見てきたんだ。
どこにも明かりはなかった。
それに、たとえ手術室にだけ電灯があったとして、いったい誰が点けたんだ?
さっきまで、手術室に明かりなんかなかった。
何より、扉の取手は、錆びた鎖でぐるぐるに巻かれていた。
それを外し、中に入り、明かりを灯した者がいる……?
……まさか……菜々、ちゃん……?
自分でも俄には信じられない考えだったが、電車から姿を消した彼女の身に何かが起きていることは確かだ。
もしかしたら……あの、手術室の中で……。
その時だった。
……タ……テ……
声が、聞こえてきた。
俺は、とっさに身構える。
『……またかよ』
俺の脳裏には、拷問部屋でのことが蘇っていた。
……オネガ……タ……ケテ……
そこまで聞こえた時、俺の隣にいた修が駆け出した。
……手術室の方へと。
「あ……その部屋には施錠が……っ」
とっさにそう言ったが、しかし、修は……何の抵抗もないままに、手術室の扉を開けて中に入って行ってしまった。
あとに残された俺は、唖然として揺れる扉を見つめる。
その後、俄に我に返った俺は、すぐに修のあとを追って手術室の扉を開いたのだった。