廃病院からの脱出
「修」
一階に降りた俺は、小声で呼ばわった。
スマートフォンのライトを通路の奥まで伸ばす。だが、動く者の姿をとらえることはできなかった。
「どこかの部屋にでも入っているのか……?」
一歩、廊下を進む。すると、すぐ耳元から苦痛の声が上がった。
ハルトは、俺に支えられながら右足を押さえている。その指の間からは、血が滴り落ちていた。
右足には、まだナイフが突き刺さったままだ。
「……あんたは、ここで待っていてくれ。俺は修を探してくる」
そう言ってハルトを壁に寄りかからせる。
「修を見つけたら必ず戻る」
「そいつ、本当にここにいるのか?」
「ああ……」
「いない可能性は?」
「……」
「……あるのかよ」
ちっという舌打ちが聞こえた。
「あんたを見つけた時、それから一階を探索し終えた時にはこの建物からすぐに出るよう、俺が修に言ったんだ」
「……」
「あんたは二階にいた。なら、一階のすべての部屋を確認した修は、もしかしたら電車に戻っているかもしれない」
「……悪かったな」
思いも寄らない謝罪に、俺はまじまじとハルトを見る。
「俺が一人で行かなければ、あんたらはすぐに電車に戻るつもりだったんだろう? これも……結局のところ自業自得ってわけだ」
ハルトが、傷口を押さえる手に力を込めたのがわかった。
「……弱気になるなよ。必ず、全員でここから脱出するんだ」
「……」
「俺は、とにかく修を探す。あんたを襲った奴がどこにいるかわからないから、大声は出せないけれど……。ひとつずつ病室を見てくるよ。そんなに大きな病院じゃないから、すぐに戻ってこられるはずだ」
「……本当に……思うか?」
「え……?」
よく聞き取れずに、俺はハルトに顔を近づけた。うつむいていたハルトが、顔を上げる。その表情は固い。
「本当に、人間の仕業だと思うか?」
そう尋ねられ、俺は言葉を呑み込んだ。
「さっきの部屋のこともそうだ。俺は、部屋に入ったとたんに襲われた。その時に、何人もの手で椅子に拘束されたんだ。だが、ひとつの足音も聞かなかった。あの部屋の床は鉄製だった。それなのに……。それに、あの声だって……」
「それは……あれだ。スピーカーか何かで、音を増幅して流しているんじゃないか?」
「……俺の、名前も知っていた……」
「……名前? ハルト……?」
「違う。それは、俺のホストとしての名前だ」
「……それじゃあ、もしかして、あんたに恨みを持っている奴の仕業……?」
「もしもそうだったなら、あんたらには悪いことをしたと思う。だが……ただの人間に、こんな大がかりなことができるのか? 終電後に電車を走らせる……? 地下の廃病院に電車を向かわせる……? いったい、どうやって……」
確かにそうだ。
これは、本当に人間のなせる業なのだろうか。
二階の病室を回っている時に感じた……汗の臭い、血の臭い。
拷問部屋で感じた異様な空気。
鉄製の壺から現れた人間の手……。
「人間じゃ、ない……?」
意識したとたんに背筋に悪寒が走った。しかも、次のハルトの言葉がさらに追い打ちをかける。
「……空気、重くないか?」
言われてみれば、周りを取り巻く空気が、入ってきた時よりもずっと重く感じられた。
「……早く、ここを出よう」
俺は、修を探すべく、ハルトを置いて一歩踏み出した。
と、すぐに足を止める。
「……どうした?」
ハルトが訝しんで俺を見ている。
ハルトには、聞こえなかったらしい。
「……聞こえる……」
俺が言うと、ハルトは意識を研ぎ澄ますように押し黙った。
「……何がだ?」
ハルトが首を傾げている。
「……この部屋だ」
俺は、すぐそばの部屋の前に立った。
「おい……そこは……」
ハルトの声に、俺はその部屋の扉をじっくりと見つめる。他の部屋と同じように、表札がかけられていた。ライトに照らされたそこには、掠れた文字で「霊安室」と書かれている。
扉に手をかけながら、俄かに開けるのをためらってしまった。
「は……はは……」
乾いた笑い声を上げる。
「まさか……今も死体があるわけじゃあるまいし……」
そう言って己を鼓舞しようと頑張っている俺に、
「まあ、死体では、ないかもしれないな」
口角を上げながら、ハルトが何かを含んだように言った。
俺は、それについては何も答えることなく、ひとつ大きく息を吐くと扉を開いた。
部屋は、意外にも整然としていた。
壁は戸棚になっているようだ。おそらく、死体を入れておくためのものだろう。
部屋の中央には、寝台のようなものが五台並んでいる。
……一番奥の寝台には、死体袋が置かれていた。
『……あの膨らみ……』
喉がこくりと鳴る。緊張の連続で、いい加減に喉が渇いてしかたがない。
死体袋には、確かな膨らみがあった。
まるで、本当に……誰かが入っているかのような……。
――……ガン……っ!
一瞬、すべての動きを停止する。
呼吸も忘れて、死体袋を凝視した。
もぞもぞと動く死体袋……。
それが、飛び跳ねるような動きに変わり、その勢いで寝かされていた寝台を蹴ったのだ。
俺は、足早に死体袋へと近づいた。
廃病院の霊安室に置かれた死体袋……。
普段なら、絶対に近づかないだろう。
……怖くないと言えば、嘘だ。
めちゃくちゃ怖い。
俺は、もともとホラーが苦手なんだ。
だが、なんだろう……。この時の俺には、何か確信じみたものがあったのかもしれない。
「……修かっ?」
声をかけると、
――……ガン、ガン、ガン……っ。
まるで、俺の呼びかけに答えるかのように寝台が大きく鳴った。
『……間違いない』
そう思った俺は、死体袋のファスナーを下げる。
そこには、猿轡を噛ませられ、両手両足を拘束された状態の修が閉じ込められていた。
修は、恐怖と安堵がないまぜになったような表情で俺を見ている。
「……大丈夫かっ?」
驚きながらも、俺は修の拘束を解いてやった。
足を押さえている縄を外し、両手の縄を外そうと手を伸ばす。そこで、修の様子がおかしくなった。
修が……暴れ出したのだ。
「お、おい。暴れるな。縄が解けないだろ」
それでも、なんとか両手の拘束を外す。すると、抑えるものがなくなった修は、さらにじたばたと暴れ出した。
修の目が、大きく見開かれている。
その瞳の奥に、明らかな恐怖の色が宿っていた。
最後に猿轡を外してやると、
「……真崎さん、うしろぉ……!」
修が叫んだ。
その声に、俺は背後を振り返る。
……この建物に入ってから、何度目だろうか。
俺は、言葉を失った。
もう、驚くものなどないと思っていた。
驚き尽くしたと思っていた。
だが、それは、甘かったのだと……この時、思い知らされた。
壁一面の、死体を収容するための戸棚。
それらが、音もなく、ひとりでに、一斉に、開いてくる……。
そして、中からは、たくさんの、黒い……腕が……。
「……あ……あ……あ……っ」
修が、声にならない声を上げている。
俺は、修の腕を取って無理矢理立たせると、
「……走れ!」
そう一喝した。
そこで、自分を取り戻したのか、修はすぐさま扉に向かって走る。俺も、そのあとを追った。
ふと見ると、戸棚からは腕だけでなく、頭も出ている。顔も見えた。
そのうちの一体と、目が合ってしまった。
憎々しげな、何とも言えない、暗い目が……俺たちを睨んでいる。
俺たちは、霊安室から廊下へと飛び出し、急いで扉を閉めた。
「……何があった?」
廊下へ出ると、ハルトが壁にもたれるように立っていた。俺たちの声は、廊下にまで漏れていたらしい。
「早く……早く、逃げないと!」
修が叫ぶ。俺も、
「修、手を貸せ!」
そう叫び、ハルトのもとへと駆け寄った。
一瞬、修は苦い表情を浮かべたが、すぐに状況を理解してくれたらしい。修もハルトのもとへとくるなり、俺と同じ行動に出る。
俺たちは、二人がかりでハルトを抱えるようにして、廊下を一直線に出口まで走った。
その途中、
――ガンガンガンガンガン……!
病室の扉が、けたたましい音を上げて揺れた。
その音は、まるで逃げる俺たちを追ってくるかのように、俺たちが進む方向の扉を激しく揺らしている。
病室の扉の上部は、手術室にもあったようにすりガラスの仕様となっていた。
そのガラスの向こうに、たくさんの手と、顔の陰が……。
俺は、周りを見ないようにした。
極力、音も聞かないように、ただ逃げきることにだけ神経を集中させる。
それは、きっと、修も同じ思いだっただろう。
俺たちは、逃げた。
逃げきった。
ハルトを抱えながら、廃病院の出口から……。
そして、俺たちは……。
ようやく……普通の地下に戻ってくることができたのだった――。