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第15話 笑う女

作者: halico

「じゃあね、大将、また週末に来るよ」

「ありがとね。気をつけて」


赤ら顔をした上機嫌の常連が扉を閉めて出て行くと、店の中には静寂と洗い物の食器と、店主の甲本だけが残っていた。閉店まであと1時間といったところだ。水曜日だから、そろそろ宇都宮の爺さんが一杯やりに来て、それで今日は終わりだ。


変わらない毎日。退屈と言えばそれまでだが、甲本はこの生活が気に入っている。年々、刺激を必要としなくなっている自分がいる。


常連の皿を台所に放り込むと、甲本はタバコに火をつけようとして、やめた。宇都宮が禁煙中だったのを思い出したのだ。

明日の買い出しのメモを確認しようと厨房へ入ろうとしたとき、入り口のドアがカランと開いた。


「いらっしゃい」

甲本は出迎えることなくそう言って、厨房の冷蔵庫に貼ってあったメモをはがし、カウンターへと戻ってきた。

宇都宮の姿はなかった。入り口に、女性がひとり立っていた。


「あ・・・いらっしゃい」

甲本は慌ててもう一度そう言った。


「ひとりなんですけど、いいですか」

「どうぞ」


その女性はカウンターを見渡し、どこに座るべきか考えあぐねていたようだったので、甲本は一番左側の席へおしぼりと箸を置き、彼女を誘導した。彼女は席に座ると、静かにおしぼりで手を拭きながら、視線だけで店内を観察していた。


「何か飲みますか?」

「あ・・・ウーロン茶をお願いします」

「あいよ。メニューはそこにあるから見てね」


甲本は冷蔵庫から氷とペットボトルを取り出し、茶をグラスに注いだ。カウンターに置くと、彼女は僅かに会釈した。


年齢は30半ばだろうか。いや、もう少し若いのかもしれない。しかし、水分の抜けた髪と肌、化粧っ気のなさ、どことなく陰気な表情が、彼女を悪い意味でぼやかしている。


「夕飯、まだ食べてないの?」

「え?はい・・・」

「そうかい。この時間だとうちとコンビニくらいしか開いてないからね、このあたりは。ほい、突き出し」

甲本はカウンター越しに小鉢を差し出した。今日は水菜とチャーシューの辛子和えだ。

「ありがとうございます。じゃあ・・・ポテトサラダと、鰺の南蛮漬けを、ください」

「それだけでいいのかい?」

「え?」

「そんなんじゃ腹いっぱいにならんでしょ?うちの看板料理も食べてってよ。トロロ餃子」

「あ、じゃあ、それもください」


その時、入り口の扉がまたカランと開いた。今度こそ見知った好好爺がそこに立っていた。

「こんばんは」

「いらっしゃい。待ってたよ」


宇都宮は店に入ると、すぐに女性の存在に気づいた。

「おう、珍しいな、この店に一見さん。それも若い姉ちゃんとは」

彼女は二つ隣の席に座った宇都宮の方をちらりと見て、困った微笑を作りながら会釈した。


甲本はいつものように宇都宮に芋焼酎のロックを差し出す。還暦をこえても現役で農家を営んでいる宇都宮の腕はまだまだ逞しかった。

「姉ちゃんのそれは、ウーロンハイかい?」

「いえ、普通の、ウーロン茶です」

「どうりでしけた面しとるわけやな。酒、飲めへんのか?」

宇都宮は焼酎を舐めながら、ずけずけと彼女のテリトリーに踏み込んでいく。

「そうでも、ないですけど」


「あいよ、ポテトサラダと南蛮漬け」

助け船のつもりで甲本は料理を彼女の前に置いた。が、既に飲んできているのか、宇都宮の調子は変わらなかった。

「こんな辺鄙なところに、何の用事があるんや?その顔見ると、あんまりおもろい用事とちゃうやろ」

「宇都宮さん、あんまり詮索してあげなさんな。困ってるで、彼女」

「ああ、すまんすまん。久しぶりに知らん人と会うたから、テンション上がってしもうたわ」

そう言って宇都宮は無邪気に笑った。


「・・・知り合いの、お墓参りに来たんです」

彼女がぼそりと呟いた。甲本はどきり、としたが、平静を装ってトロロをすった。

「そうなんか。それはご苦労さんやなあ」

さすがの宇都宮もややトーンが落ちたようだ。と思いきや、


「大将、この姉ちゃんにもわしと同じのあげてくれ」

「え?」

甲本と彼女が同時に聞き返した。

「飲めるんやろ。そんなしんみりした顔してたらあかんで。わしのおごりやから。なに、やっすい酒やから気にすることあらへん」

甲本は彼女を一瞥して少し考えた後、グラスに焼酎を注ぎ、彼女の前に置いた。

「大丈夫や、どうせそこのホテルに泊まっとるんやろ?つぶれたら大将がかついで運んでくれるで」

「よしてよ」

甲本は苦笑した。彼女はグラスを前に困った顔を浮かべている。

「ほな、乾杯しよか。そやな、その知り合いの人があの世で達者に暮らしてますように。うちの婆さんも」

乾杯、とひとりで高らかに叫んだ後、宇都宮がグラスに口をつけた。


その時・・・

彼女はグラスをつかむと、焼酎を一気に飲み干した。

これには宇都宮も面食らったようだった。

「おお、姉ちゃん、まさか一気飲みとは!ひょっとしていけるくちか?大将、わしと姉ちゃんにおかわり」

「いいけど、大丈夫です?」

甲本が彼女に尋ねると、彼女は返事代わりに氷だけになったグラスを差し出した。

2人に2杯目を注ぐ。今度は一気には飲み干さなかったが、彼女はグラスを半分ほど空けて、ポテトサラダを口に運んだ。そして「ありがとう、ございます」と言った。


その後は、宇都宮は甲本と今日の大相撲の結果について盛り上がっていた。

彼女は、3杯目の焼酎を飲みながら、黙々とトロロ餃子を食べていた。

甲本は時計を見て店を出ると、店先の提灯の電源を切った。あたりはもうコンビニから漏れる光しかない。暗く、寂しい町だ。

店内に戻ると宇都宮は眠そうな顔をしながら2杯目の焼酎を舐め舐めしている。


「ふふっ、ふふ」

突然、彼女の声がした。甲本と宇都宮が彼女の方に視線を移す。

彼女は頭を垂れていて、表情はよく見えなかった。

「ふふふ、あはははは」

声はどんどん大きくなり、彼女が顔を上げた。彼女は、笑っていた。


「なんや、姉ちゃん、笑い上戸なんか」

宇都宮がからかったが、それ以上何も言わなかった。

それは、彼女が涙を流しながら笑っていたからだろう。


「うっぐっ、ははは・・・あっはっはっはは・・・ふぐっ・・・ふははは」

彼女は、泣きながら、笑い続けた。

甲本は換気扇の下に移動し、タバコに火をつけた。宇都宮はとても穏やかな表情で焼酎を口に運んでいた。


店には彼女の湿った笑い声が響く、静かな時間が流れていた。


その時、甲本はふと、店内にもうひとり誰かいるような気がした。

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