月のわぐまのじいさん
とても悲しい気持ちでいっぱいです。
岩肌を伝う清水の流れが、白弥には涙のように見えました。
風はさわさわと葉を揺らし、赤い紅葉を落としました。
白弥はゆっくりと月のわぐまのじいさんの家へ向かいました。
月のわぐまのじいさんの郵便箱に手紙を入れれば仕事は終わりです。
白弥はもぐらじぃからの手紙を取り出すと、郵便箱へ入れようとしましたが、そこに入れることが出来ません。
急に、あとからあとからと涙があふれて来るのです。
拭いても拭いても、止まりません。
「……、入っていない…よぅ…」
月のわぐまのじいさんの郵便箱には、一通の手紙も入っていなかったのです。
ひょっとすると、直接月のわぐまのじいさんの郵便箱に手紙を入れる仲間がいるかもしれないと、心の中で願っていたのです。
しかし、白弥が望んでいたようなことは、起こりませんでした。
白弥は、月のわぐまのじいさんの家の扉を叩きました。
どうしても、このまま黙って帰りたくなかったのです。
「おやおや、白弥じゃないか。どうしたんだい? 泣いたりして。服も泥だらけだねぇ」
月のわぐまのじいさんは、優しく微笑みました。白弥を家に招き入れ、柔らかいタオルで白弥を包みます。
「何があったんだい? 私に話してごらんよ」
月のわぐまのじいさんは、あたたかいミルクを出しました。
白弥はそれを一口飲み、もぐらじぃからの手紙を手渡したあと、今日の出来事を総て話しました。
月のわぐまのじいさんは、時々頷きながら、黙ってその話を聴きました。
「ぼく、悲しかったのです。でも、どうして悲しいのか、分からなくて……」
白弥が話し終えると、月のわぐまのじいさんはそっと笑みをこぼしました。
「白弥は、本当に手紙が好きなんだね」
その声はとても優しい声でした。白弥は頷きました。
「ぼくは小さい頃、月のわぐまのじいさんから手紙をもらいました。初めての手紙です。そこには、『きみに、白弥という名を贈ろう。清純な心と元気に「光ノ山」を駆け回ってほしいという願いを込めて。お誕生日おめでとう』って、書いてありました」
白弥はミルクを見つめながら、ゆっくりとその時のことを思い出しました。
「すごく嬉しくて、手紙の封を切る時は、胸がドキドキしていました。何度も何度も読み返して、抱きながら眠りました。ひとりきりだったぼくは、たった一通の手紙で救われたのです。涙が出るほど、嬉しかった……」
月のわぐまのじいさんは、静かに頷きました。
ずっと前に送った『おめでとう』の手紙のことを覚えていたのです。
「そんなドキドキをみんなにも分けてあげたくて、知って欲しくて、ぼくは郵便屋さんを始めたんです。一つでも多くの喜んだ顔を見たかったから…。…それなのに……」
白弥は急に口をつぐみました。
それ以上、言葉が出てきません。
そのかわりに涙があふれ、頬を伝いました。
「……今日、たくさんの友達から『おめでとう』の言葉をもらったよ。どれも、本当に嬉しいものだった」
白弥はその言葉に、顔を上げました。
白弥の涙は止まることなく流れます。
大粒の涙は、ポタポタと床に落ちました。
「みんな、私の誕生日を覚えていてくれて、嬉しかった。どんな方法でも、『おめでとう』と伝えてくれた。それだけで私は倖せものだ。でも一番嬉しかったのは、白弥が来てくれたことだ。私のことを思って、心配してくれて、扉を叩いてくれたことが何よりも嬉しかったよ」
白弥は少し照れ臭くて、首を振りました。
「ぼくはただ……、手紙を届けただけです」
「それなら郵便箱に手紙を入れるだけでいい。いつも、そうしていただろ? なのに今日は扉を叩いた。……涙を流しながらね…」
白弥は黙ってミルクを再び飲みました。
「手紙は不思議なものだな。もらったときに、ほっこりとあたたかいものを感じる。ろうそくの炎のように、優しくて、あたたかい。白弥はどうだい?」
「はい、僕もです。……でも、それが何故か分かりません」
月のわぐまのじいさんはニッコリと笑いました。
「でも、悲しかったんだろ?」
「はい……」
「どんな風に?」
訊ねられて、白弥はそっと目を瞑りました。
あらいぐまの宗八は、FAXで送ったあとの手紙を、くしゃりと丸めていました。
リスの良々は、ケータイ電話で『おめでとう』を伝えていました。
きつねの常磐とかばの七緒は、メールは早くて簡単だと言っていました。
白弥は、そっと胸に手を当てます。
「ここが、ぽっかりと穴が開いてしまったように、悲しかったんです。シクシクと痛んだのです」
月のわぐまのじいさんは、大きく頷きました。
「そこにあるのは、心だよ。白弥の心が傷付いていたから、悲しかったんじゃないのかな?」
「こころ…?」
「そうだ。手紙には、たくさんの心がこもっている。それが、文字の一つ一つからにじみ出てくるんだよ。ゆっくり時間をかけて書いているからこそ、その想いが強い」
誰かを思う気持ち。
伝えたい言葉。
時間をかけて書かれた手紙。
それは、とてもあたたかくて、少しだけ倖せな気持ちになれる不思議な力。
「心を伝えるとき、手紙が一番いいときがあるんだ」
「『おめでとう』の気持ちでしょ?」
白弥は涙を拭い、月のわぐまのじいさんを見上げました。
月のわぐまのじいさんは優しく微笑んでいます。
「そうだね。『ありがとう』の気持ちだったり、『ごめんなさい』の言葉も、そうじゃないかな。便利な機械に頼ってしまって『気持ちを伝える』ということがどういうことか、『言葉を贈る』ということがどれくらい大切か、まだみんな分からないのかもしれない。でも、これだけは覚えておいて欲しい」
月のわぐまのじいさんは、白弥の頭をくしゃりと撫でました。
「便利な機械が増えたって、手紙はなくなりはしない。もぐらじぃの金蔵や私には、郵便屋さんの白弥が必要なんだ。これからも、光ノ山の仲間たちに手紙を届けてくれるかい?」
白弥は嬉しくなって、大きく頷きました。
「気を付けて帰るんだよ」
月のわぐまのじいさんは穏やかに笑って、白弥を見送りました。
橙色に輝く空を見上げながら、白弥は大きく深呼吸しました。
山は空と同じ色に染まっています。
それはとても、優しい色でした。
天にキラリと光る星を見つけました。
「明日も、晴れたらいいなっ」
白弥は急ぎ足で家路を駆けて行きました。
影が長く長く伸びてゆき、それはやがて暗闇に溶けてしまいました。
次の日もまた次の日も、白弥は光ノ山を駆け回り続けました。




