黒い糸
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩は心配事があっても、夜の眠りに影響を及ぼさない人ですか?
いや、私この頃、自分が狙われているんじゃないかと思い始めたんです。最近、怖い話を聞いたら、何でもかんでも自分が出会うんじゃないかと心配になり始めてしまって……。
ほら、有名どころでは、偽の警官とかが家を訪ねてくるものなんかですよ。自分が知らず知らずのうちに得てしまった情報を、誰かが血眼になって探している……考えたら鳥肌が立ってきませんか?
もしも特定されて、夜に部屋へ忍び込んで来られたりしたら……なんて思っていると、その日の夢の中に出てくることもあって。
――え? 枕元に刃物を置いておくと、お守りになる?
はあ、それで侵入してきた犯人を、ブスッとやれということですか? 確かに安心は得られるかもですが、逆にその刃物を取られて、ブスッとやられておしまいじゃないですか?
いやいや、分かっていて言っていますよ。枕元に刃物を置くと、魔除けになるという言い伝えですよね? でも、私の地元じゃあ、ちょっと違う形で伝わっていまして。
聞きたいですか? 先輩だったらそういうと思っていましたよ。
ずっと昔。私の地元にあった小村に住んでいる男性のひとりが、突然、変調を訴えました。
自分の視野を縦に両断する、黒い糸が走っているというのです。それを聞いた周りの人が、彼の目の前で手をひらひらさせたりしても、取り払われる様子はありません。医者が彼の目を見開かせてのぞいてみても、まつげについたほこりや、眼球の傷などといった異状は見受けられなかったとか。
彼の症状は時間を追うごとにひどくなっていき、三日経つと横の筋が、もう三日経つと右肩上がりの斜線が、前二つの交点に重なるように走る。そして更に三日経つと、今度は左肩上がりで……。
入ってくる線の一本一本は、糸のような細さ。完全に視界を塞がれてしまう訳ではないようですが、完全に潰されるよりも、どっちつかずの中途半端でいることの方が、ずっと気分が悪く、苦しくなる。そう私は思うんですが、先輩はいかがです?
彼自身も、視界をじわじわと消してくる黒い糸の辛さに耐えられず、「治る見込みがないのなら、いっそ自分の目に刃を突き立てる」とわめき出してしまったようです。
その彼が住む村に、旅の修行僧のひとりが立ち寄りました。僧が一晩の宿を求めると、村はそれを喜んで受け、村長の家に僧を泊めることにしたそうです。
このような歓待には、裏があるもの、というのは創作だとお約束ですよね?
甘い顔をするのは、後でそいつを食い物にするためだとか。私の恐怖対象、人間不信の原因のひとつですよ、これは。
でも、実際のところ遠来の客というのは、よほど排他的な場所でない限りは受け入れる方針だったとか。
現代みたいに、家で寝っ転がってテレビなりネットなりを漁れば、一歩も外に出ることなくニュースを得られるわけじゃないですからね。外からの客というのは、情報ツールの一環だったのだとか。いわば、生きた新聞代を払うようなもの、でしょうか?
村に知恵がなくとも、外の知恵ならば策があるかもしれない。そう考えた彼は、日が沈んでから村長宅で庵を囲みながら行われる、僧の話の場に出席。
一通りの情報交換が終わり、ぽつぽつと集まった村人たちが去って行く中、村長に頼んで空いた部屋を借り、僧に助言を求めたそうです。
ことの起こりから今に至るまで、細かに話した男性。僧は聞き終わった後で「以前にも同じような症状に見舞われた者がいる」と語り、対策も教えてくれたそうです。
それが例の、枕元に刃物を置くというものだったとか。
「真綿で首を絞めるよう、という言葉がございましょう? 細くて柔らかい見た目ながら、とても強い真綿は、縄で絞めるのに比べると、すぐには苦しさを感じることはない。されど、じわじわと締まることは確かで、苦しみが長く続いてしまう、まさに今のあなた様のような状態。
それを絶つにはやはり刃物でございます。しかし、他の者に見えない、あなた様のそばの糸を相手取るのならば、刃物もまた他の者に見えない、あなた様のそばに置かなくてはなりませぬ。
身の回りにある刃物。あなた様の寝る場所の近くへ置きなされ。それも、人から見えない場所へと隠し込んで」
僧は翌早朝には出立してしまう予定らしく、成果を聞けないのが残念だと語っていたそうです。
効果があるか分かりませんが、すでに男性の視界は幾筋もの黒い糸のために、半分以上が埋まっていました。
光なき世界へ溺れ行く前に、つかんでみるべきわら。それが男性にとっての僧の言葉だったのです。
彼は家に帰ると、早速、実行に移すことにしました。
一人で暮らしている彼の家にある刃物となると、草刈り用の鎌や薪割り用のナタでしたが、それらを使う気にはなれなかったそうです。普段から使い込んでいるものだと、どこかしらで「ガタ」が来ていて、通用しないのでは、と男性は思ったとか。
そこで彼は、護身用に用意をしておきながら、いまだ一回も使う機会を得ていない脇差を選び、自分が枕代わりに使う、たたんだゴザの中に入れ込んで眠ることにしたのだそうです。
次の日。結論からいうと、彼の視力は一部回復しました。
昨日と比べると、可視できる範囲が広がっています。七割方見えなくなっていたのが、五割ほどの状態になっていたのだとか。
彼は礼を言うべく村長宅を訪れたのですが、昨夜の言葉通りに僧はここを発っており、会うことはできませんでした。それでも彼は、僧に言われた通り、毎晩、脇差をゴザの中に隠して、眠ることを続けたのです。
しかし、この視界の回復はすんなりと進んだわけではありません。回数を重ねるたびに回復の幅がどんどん小さくなってきていることに、彼は気がついたそうです。
更に、昼間につい片眼だけをつむる機会があった時、眼の左右で状態が違うことも発見しました。どうやら回復しているのは、もっぱら右眼ばかりのようなのです。左眼だけでは、もはや空間の明暗程度しか分からないほどだったとか。
そして日によっては、前日よりも右眼の黒い糸の領域が増えていると、感じることもあったといいます。
――右眼の回復と、黒い糸の張りが、せめぎ合っている。
彼はそう感じたとか。ならばなおさら、やめるわけにはいきません。これを怠っていたら、今頃自分は、すっかり盲目になっていたに違いないだろうから。
そしてその晩も、脇差入りのゴザを枕に床に入る彼。
今日はいつもにも増して野良仕事に精を出し、疲れも溜まっているのを感じていました。けれど、まぶたを閉じてから大分経っても、眠気は一向にやってきません。彼はもはや何度目になるか分からない寝返りを打ちかけます。
その横を向きかけた彼の顔を、「がっ」と両側から包み込むように抑えるものがありました。はっと眼を開きましたが、寝る前に明かりをすべて消していた室内。ただでさえ潰されかけている視界も手伝って、まともにものが見えません。
続いて手足。重りでも乗せられたかのごとく、自由がきかなくなっています。力を込めようとすると、それにこたえて重みが増し、痛みと一緒に己の肉の中で「じゅるり」と水音が立ちます。
――おとなしくしないと、肉も骨も潰される。
そう感じた彼が抵抗をやめたところ、力任せに顔ごと身体を、仰向けにさせられました。
「――なぜだ、片眼しかないぞ」
聞いたことのない、濁った声音が頭上からぶつけられます。やはり、その姿は見えません。
「だが、あるものならば、いただくのが道理。もらうぞ」
男性の答えを待たず、右眼が鉄棒を差し込まれたように、深く深く痛みます。でも、悲鳴を上げることすら許されないほど、両頬に加えて、のどに新しく圧が加わりました。
ぬくもりも、冷たさもありません。純粋なる負荷が、身体の節々に座り込んでいました。
痛んだのはほんの数秒。先ほどよりも、なお暗さを増したように感じる家の中。それを悟った時には、自分を抑えていたものの力は、いっぺんに消え失せていたそうです。
明るくなってから、視界を確かめると、昨日までは視野に余裕が残っていた右眼が、完全に見えなくなっていました。明暗すら感じられない、空隙があるだけ。
それに対し、ほとんど見えなくなっていたはずの左眼は、これまでの苦しみが嘘だったかのように回復。黒く視界を塗りつぶす糸は、みじんも残らなかったそうです。
右眼を失った彼は、あの黒い糸はきっと、あの晩にやってきた何かから、自分の眼を隠すために、時間をかけて身体が生み出したものだったのだろう、と語ったそうです。
もしかしたらあの僧のやり方は誤っていて、彼自身、結果を見届ける前に去ってしまうから、その後のことを知らずにいるのだろう、とも。