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Long for 焦がれる  作者: 太田龍子
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焦がれる Long for 第四章 執着と喪失

第四章 執着と喪失


ある夏の夕暮れのこと、、今出川通りで用事を済ませたコノメはしきりと人々が北へ向かうのに気が付いた。

「そういえば間もなく土用の丑か…」

丑の日の前後には下賀茂神社で恒例の御手洗祭(みたらしまつり)が行われる。足つけ神事ともいわれに足を浸して汚れをはらい無病息災を祈る人々で下賀茂神社の御手洗池があふれるようになることもあった。そうした参詣者を見込んで境内には縁起物や食べ物を売る屋台も並ぶ。人波に惹かれるようにしてコノメは家とは反対の下賀神社へと向かっていた。辺りは薄暗くなり始めて、池の周りにつるされたぼんぼりに入れられた灯が池に映る。御手洗池には裾を端折って膝まで足を浸す人々で立錐の余地もなく、池の手前には順番を待つ多くの人が詰めかけていた。あまりの人出に並ぼうか、あきらめて帰ろうかと思案を始めたコノメの視界の隅を通り抜けた者があった。

迦葉丸(かしょうまる)?」

コノメは思わず男の行くほうへと足を踏み出した。傘で顔は隠れているし、着物にも見覚えはないが、腰に()いた太刀の拵えには見覚えがある。なによりその身のこなしは迦葉丸に似過ぎていた。しかし迦葉丸は商いで美濃に出かけていて、ひと月は戻らないはずだ。人込みを避けて物陰を拾うように境内を抜けていく男の跡をコノメは追った。男は境内の北東、川のほうへと歩いていく。神域のはずれ近くには神職の住まいか、いくつかの館が並んでいた。その一軒の冠木門をくぐるとき、揺らいだ笠から覗いたあごは迦葉丸に違いないとコノメは思った。辺りはすでに暗い。男が門内へ姿を消すと、ひと呼吸おいてコノメも塀のうちへと滑り込んだ。中は意外に広く、水を引き込んだ泉水をあしらった庭の向こうに小さいながら高欄で囲まれた回廊付きの建物は、窶した様な門構えとは似合わない貴族の別邸のようだった。コノメは吸い寄せられるように庭を通って建物へと近づいた。夏だというのに蔀がきっちりと閉められている。已日は落ちて、蔀の隙間から細い筋となって幽かな灯りが漏れているが中の様子はわからない。コノメは高欄の際の茂みの中にしゃがみこんだ。

月が上った。

そのままどれほどたったろうか。


コノメの真正面、折れ曲がった高欄の突き当りの杉戸が、するりと一尺ほど開いた。音もなく滑り出てきたのは見間違いようもない迦葉丸だった。夜目にも絖々(ぬめぬめ)と艶やかな絹の小袖を肩先にひっかけただけの迦葉丸は(かわや)へでも行くのか、回廊をこちらへと歩いてくる。コノメは思わず立ち上がった。廊下は三尺ほども高さがありさらに高欄があるがコノメの肩よりは低い。確かに見えているはずなのに迦葉丸の表情は変わらない。自分はどんな顔をしているだろうとコノメは思った。

迦葉丸は高欄に顎を乗せるようにしているコノメの前に立ち、見下ろしている。その時

「おい」

と底さびた声が響いた。開いた杉戸の際に立膝をつき、半裸でこちらをねめつけているのは

頴心(えしん)だった。ちらりとそちらを見やり、うっすらと片頬だけで笑った迦葉丸は、膝をついてコノメに顔を寄せると親指でコノメの下唇をゆっくりと撫でた。耳のふちをやわやわと撫でたその手がコノメの後ろ首へと回った瞬間、コノメの唇は身を乗りだした迦葉丸の唇にふさがれていた。防ぎようもなく開いた歯の隙間から迦葉丸の長い舌が侵入し、コノメの歯の裏を攻め登って前歯の付け根と上顎の境目を愛撫する。高欄に手をついて本能的にのけぞってのがれようとするコノメの後頭部を迦葉丸の手が、琵琶の弦を抑えるようにためらいのない力で抑え込んだ。

 この男は坊主の愛人なのか私の主人なのか、誰に何を見せつけたくてこんな真似をするのか。誤魔化(ごまか)されてたまるものかと思いながら、コノメの口は迦葉丸の恥知らずな舌の動きに蹂躙され、融かされていく。絡みつく甘い舌に責められてコノメの思考は停止しかかった。腰が砕け、膝の力が抜けそうになった瞬間、コノメの首筋にじわりと痛みが走った。迦葉丸の細い指の先が頭蓋を割りそうな力で首筋から後頭部に食い込み、琵琶のために磨きこまれた爪が皮膚に突き刺さる。迦葉丸の長い舌はコノメの口腔を嬲ることをやめない。コノメが我知らずぐらりとよろめいた瞬間、足元の草叢(くさむら)から生暖かい生き物が跳び出し、コノメの脛をかすめて闇の中へと走り去った。おおかた縁の下に潜んでいた猫か(いたち)だろう。その瞬間ふっと鼻先をかすめた獣臭いにおいがコノメの意識を引き戻した。執拗に絡みつく男の舌に歯を立てようとした瞬間、するりと迦葉丸の唇が離れていった。高欄につかまってようやく態勢を立て直したコノメの視界の遥か上方に、伎楽面のように表情の読み取り難い男の顔が浮かんでいた。血の混じった唾液がついた下唇を指で拭いながら、迦葉丸は白い顔をもう一度近々とコノメによせ、

「帰って」

と告げるとくるりと背を向けた。杉戸の敷居際には(ほう)けた面をさらした頴心がべったりと座り込んでこちらを見てる。迦葉丸は頴心の崩れた襟元を掴み、引きずり込むようにして部屋の中へと姿を消した。



迦葉丸はコノメの首筋の傷が癒えるよりも早く、「商いの旅」から予定通り戻った。コノメはも何もなかったかのように出迎えた。迦葉丸の爪がつけた傷は髪に隠れて見えない場所だ。あの夜のことは胸にわだかまっているが、コノメはそれを形にする言葉を見つけられなかった。頴心と迦葉丸の間にある有無を言わせぬ何かを見らせつけられたコノメに、今できることはない。傷はじりじりと痛んだが、迦葉丸が帰ったこと、コノメとのかかわりを変えるつもりがないらしいことをよしとするしかないのだ。


夕餉(ゆうげ)の指図をして居間に戻ると、迦葉丸は板敷の上に幾通りもの書状や図面を広げて書き物をしていた。

「コノメよ、聞いてくれ」

 迦葉丸は切り出した。

「俺は(みん)へゆく」

「みん、とはあの海の向こうの国だすかいな」

「そうや。ようやくめどが立った。相国寺の仕切りで夏までには船団が出る。そこに俺の船も混じれることになった。これで商いも盛り返せる」

 当時、室町幕府による勘合貿易(かんごうぼうえき)のほかに、大名や大寺なども独自に大陸との取引を行っている。いつの時代も、人は珍しいもの、希少なもの、遥かな土地からもたらされる進んだ文明の香りがする文物に()かれるものだ。室町将軍から大名、大寺の僧侶や商人、名うての遊女や白拍子まで、大陸からもたらされる陶磁器、絹織物などに夢中になった。貿易は危険も伴ったが利益は桁外れだ。往きは硫黄や銅、刀剣など運ぶ。帰りに羅や紗などの絹織物や綿、書物、陶器などを持ち帰れば莫大な利益になる。当時貨幣の鋳造技術が低かった日本では、宋銭、明銭などの中国で造られた貨幣が主力通貨として流通していた。これらの渡来銭が鎌倉時代以降大量に輸入され、貨幣経済を支えていた。周辺のアジア諸国での共通通貨でもあった宋銭・明銭は、それ自体が最も需要があり、相場が安定した輸入品だった。一度の船団往復で寺院の造営が成るほどの大商いになることも珍しくはない。新興の禅寺建仁寺が急激に力を得たのも、大陸とのつながりが強く貿易に長けていたことが大きい。しかし、当然ながら莫大な利益と地位をもたらす大陸との貿易は将軍や大名、大寺院などの財力、権力があるものが独占する。海賊の横行する海を往来するのだから軍事力のある後ろ盾がなければ不可能だ。

「大勝負やおへんか。よくそんなお偉いさんばかりの中に入れましたな」

 寝物語に「明を見たい、大陸との取引をしたい」と迦葉丸が話すのを聞いたような気もしたが、「大名になりたい」というのと同じような夢の話と深く考えたこともなかった。当時はその後の時代に比べてはるかに海外との往来は盛んであった。人夫や船を操る船乗り、水主(かこ)として海を渡ったことがある者はコノメのまわりにもいた。しかし、船を一隻を仕立てて船団に混じるとなればだれにでもできることではない。

「この三年、つてをたより、(ぜに)も使い、あらゆる手立てを講じたさ。ようやく興福寺の別当から次の船団の商いを仕切る西忍(さいにん)殿へと話がつながった。最初は銭を用立てるところから交渉を始めたが、西忍殿は明国の役人に献上する胡椒や香木がお要りようでな。香木はうちの蔵にもあるが、来月琉球から入る船で胡椒や硫黄が着く。それで俺も船を仕立てて船団に加われることになった」

 荘園などへの融資だけでなく、荷の着く港まで足を運んで熱心に貿易への投資を行ってきたことが実を結んだようだ。大名、大寺の船団に交じり、大船一隻をしたてて迦葉丸自らが乗り込むという。投資だけでも大きな利益になるが、自ら乗り込んで日本からの品を寧波や北京で商い、さらにその銭で明国の品物を仕入れて日本に運べば天文学的な利益になった。絹織物などは、日本に持ち帰れば明で仕入れた二十倍以上の価格で売ることができるという。無事に取引が成立すれば敵対勢力の打ちこわしで傾いた商いを盛り返すどころか、大身代を築き上げる千載一遇の機会だ。迦葉丸が夢中になるのも当然だった。

「絹や紅おしろいをたんと買うてきてやろう。楽しみにしておれよ。のんびりしてはおられん。蔵の財を棚卸して買い付けを始めないと間に合わん」

 その顔つきは新しい玩具に夢中になっている子供のようだ。寧波までの海路にはは倭寇(わこう)がひしめき、船団を無事に往来させるのは並大抵ではない。

 航海と取引には時間がかかる。不在は数カ月が一年以上にも及ぶだろう。難破や海賊の襲撃によって船も命も失うかもしれない。先夜の仕打ちは許し難いがこの男を失うのは惜しい。しかし止めたところで、思いとどまるはずもない。ならば不吉な言霊は口に出さない方が良い。それに、航海に出ている間は頴心も呼び出すことはできない。

「坊主め、いい気味だ」

 そう考えたコノメの心を読んだように迦葉丸はコノメににじり寄ると、するりと腰に手をまわしてあっという間に膝の上に抱きこんだ。

「先夜はすまなかった」

 唇が耳たぶに触れるほどの近さでささやかれてコノメは全身が総毛だった。あの夜、軒先にコノメを置き去りにし、頴心を引きずるように杉戸の向うへ消えた迦葉丸の姿が蘇る。何のためらいも未練もないいっそ清々しいほどの薄情な後ろ姿は何度生まれ変わっても忘れられないに違いない。舐められたままではたまらない。

振り払って逃れようした刹那、迦葉丸の手がコノメの首筋の傷を撫でた。自らが爪を立てて付けた傷を確かめるようにコノメの首筋から後頭部の髪の中のまさぐる指の動き。傷に触れられた痛みと手肌のしなやかで淫靡な動きがコノメの思考を停止させた。

「ひどいお人や。女房を冷たい夜空に締め出して、あんな外道にいつまで媚びるのや」

気づけばコノメは迦葉丸の首に取りすがって泣いていた。

「許してくれ。俺にはまだ頴心殿の後ろ盾がいるのだ。それにあのお方も寂しいお気の毒な方だ。傲慢にも見えるだろうけれどそれだけのお人ではない。コノメが可愛いからと言って長年の恩愛を無下にはできない。いずれは付き合い方も変わる。

今は許してくれ、頼む」

背を丸めて下からコノメの顔を覗き込むように言葉を重ねる迦葉丸の顔は必死の形相だ。あの夜の酷薄な顔とは別人のように人間臭く見える。

「たいした役者やわ」

 と思う一方で、身も心もなびいてしまうのはとどめようがなかった。

薄縁(うすべり)の上に引き倒したコノメの襟元を寛げて顔を突っ込んだ迦葉丸は思い切り息を吸い込んでいる。

「いい匂いだ」

とろける様な笑顔をしてみせる。ここで冷たい顔ができる女はこの世にいるまいとコノメは思う。

「まだ明かるおす。店のもんが来るえ」

「久しぶりに亭主が帰ったのだ。皆気を利かすだろう」

 ためらう気配もない迦葉丸にコノメは抗いがたい。

[媚びているのはわてのほうや]

コノメは思った。

口が上手く、手練れで、腹の見透かせない男。奈落の底を覗き込んだように背筋がぞわりと粟立った。しかし、幻惑されることの痺れるような快感には逆らえない。

ふと、先夜、高欄越しに狎れ合うコノメと迦葉丸を呆けたように見つめていた頴心の顔が浮かんだ。

「あいつも同じや。手玉に取られながら、捨てられるのが怖くてよう逆わんのやな」

 二人とも迦葉丸に支配されていつの間にか彼の野望実験をむきになって手伝っている。この男だけは何があっても手放したくない。

「絶対に勝ってやる」

 コノメは思った。あんな授かりものの権力や金力だけの坊主に自分が負けるはずがない。手練手管や優し気なふるまいで情人を引き寄せるのはだれでもするだろう。迦葉丸のように引く手あまたの男を絡め獲るにはそんな並みの技だけでは間に合わない。

「人は欲で動くもんや。欲といえば色恋と銭や」

 コノメはおのれに言い聞かせた。迦葉丸の商いは端緒についたばかりだ。「黙っていれば摂家の姫にも劣らない」と迦葉丸が気に入っているこの顔がしなびないうちに、自分の才覚が彼の野望実現に欠かせないことを認めさせるのだ。



 長門国美祢郡周辺で銅を買い付け、博多に回ってジャワからの荷をもたらす琉球船を迎えるため、迦葉丸は明への船出よりも三月も早く出発していった。呑牛和尚は堺や京で他の荷を整え、出発地の博多へと送り出すために東奔西走している。

当初は呑牛和尚(どんぎゅうおしょう)も迦葉丸とともに大陸へ渡る手はずであった。昔の渡航経験も役に立つに違いない。しかし、肥りすぎの気のある呑牛は荷集めに奔走するうちに、足腰に故障が出始め、コノメとともに留守を守ることになった。

心なしか呑牛は気落ちしたように見える。

「和尚、なんや寂しそうやな。明に行かれんで残念か。その年で狭い船で難儀な船旅なぞするよりはここでのうのうとしとるほうが楽やろ。それとも向こうにいいかわした女子でも待たせているんか」

コノメはからかった。

呑牛和尚は衣の袖でつるりと顔を撫でた。何を思い出したのか顔が紅い。

「違いまんがな。そら知り人や景色やいろいろ懐かしいこともあるよって、楽しみにしとったことはあったがの」

「なんや、あやしいな。

そういえばあちらの女子は(ねや)が違うとか聞いたぞ。日本の男が腑抜けになってまうほどたいそうな技があるそうやな。船乗りは皆とりこになるそやないか。和尚も忘れられん女子があちらにおるのやろ」

驚いたことに呑牛和尚は鍋の中の(たこ)のように真っ赤になった。

「いいとこの御寮人さまはそないなこと口にしまへんで。まいてわてのような年寄りの坊主をつかまえてからに」

泡を吹かんばかりの口調だ。

コノメは図星を指してしまったらしい。

志に燃えた若い学僧だったころ、呑牛和尚も恋に悩んだことがあったかと思うと、そのうろたえぶりはおかしくもあり、いじらしくも思われた。



 迦葉丸の船は季節風にのって無事に博多を出帆した。

そこここの市では端午の節句に使う薬玉や菖蒲、蓬が盛んに商いされている。

土倉と日銭屋の商いで、迦葉丸の航海の心配をする間もないほどコノメは忙しい。

明るいうちに帳簿を見てしまおうと墨をすり始めたところへ、店の者が妙な顔つきでやってきた。

「あの…、御寮人はん、変な女が来まして、どうしても御寮人はんに会わせろゆうて聞きまへんのやけどどないしましょ。

だいぶん前に貸し倒れになったお公家のお内儀やゆうてますわ。御寮人はんの知りあいやとか」

公家にも客は多い。が、当節あまり上客とはいえない。ろくな質草を持たないし、領地をかたにとっても、貸し倒れた時の処分が面倒で、訴訟沙汰も多い。もめているうちに食い詰めた小作の農民が逃散して、農地が荒れ果ててしまうこともままあった。

そうしたもめ事には店の者も慣れていて、この頃ではコノメまでいちいち持ち込まずに片づけている。

「なんちゅう家や」

左衛門大尉(さえもんのだいに)はんやそうで」

コノメは覚えがない。店の者は以前の帳簿を開いて見せた。

三年以上前に越前のわずかばかりの領地をかたに米を十石貸している。二年に分けて返すことになっているが一切返済されていない。利息は四文子で妥当なものだ。期限はとうに過ぎているが転売した記録はない。おそらくなにか面倒がある土地か、売れないような痩せ地かもしれない。

「なんや目ぇ吊り上げて、ものすごい形相ですわ。」

近頃の商人(あきんど)は貧乏公家など尊重しない。店先で騒いだところで腕っぷしの強い男衆がたちまち放り出してしまう。しかし、女となると持て余したのだろう。

「しゃあないな」

コノメは立ち上がった。

土倉は表通りに面し、コノメの日銭屋は小路を入ったところに土間を作って店にしている。

女は土倉のほうではなく日銭屋の土間で待たされていた。

見覚えのない女である。

垢じみた小袖に かつぎも笠もなく、やつれた顔をさらした女の(たもと)には、五歳ほどの幼児がしがみついていた。

「あんたがコノメはんか」

緊張しているのか、声が震えている。

「あてを知ってるんやないのんか」

「じかには存じ上げぬ。わが主人(あるじ)があんたはんの知るべやそうな。三河介殿(みかわのすけどの)から婿に来たお人や。昔の知り合いとちがうか」

「みかわのすけとは西の京のか。」

「そうや」

なんと女はコノメを捨て去った三河介の五男が婿入りした先の家付き娘であった。

「恥を忍んでお頼みするのや。

荘園を取られたらうちの家はおしまいや。どうか取り上げんで欲しい。父、左衛門大尉が亡うなってこの三年、主人には役もつかず、禄も増えず、切り売りの毎日や。屋敷もとうに手放した。最後の土地を取られたらもうこの子に残してやるものがなんにもない。

どうか勘弁してほしい」

 女はうわごとのようにかき口説いた。

あまりに思いがけなくてコノメは言葉が出ない。

この数年、三河介の五男のことなど思い出しもしなかった。首までくくろうというほど思いつめた相手がいたことすら忘れはてていたのだ。

左衛門大尉の娘はいきなり、式台の上に立つコノメの足にすがりついた。

「のう、荘園以外なら何でもやろう。

わが主人をくれてもいい。聞けばご亭主は商いの旅で不在とか。今宵からでも差しむけるよって好きにしていい。

だから証文を返してくれ、頼む」

 コノメは鳥肌が立った。

女を突き飛ばしたい衝動が突き上げたが、傍らのおびえきった子供の顔を見てかろうじて抑えた。この子供はの三河介の五男の種だろうか。左衛門大尉の娘には、父なし子がいるという話を思い出した。(こぶ)つきの出戻りでも物持ちの家からの縁談に三河介一家は大喜びで飛びついたのだ。ところがすっかり零落(れいらく)してしまったらしい。甲斐性もなければ子の父親でもない三河介の五男は愛想が尽かされたのだろうか。それとも領地さえ子供に残せれば男はどうでもいいということか。

けれど、この様子ではわずかな痩せ地を取り戻せたとしても、そこで米を育てるための種もみも(あがな)えないのではないかと思えた。

「大尉はんの領地をかたにとったんはわての預かり知らんことや。亭主殿の商いやさかいな。そやけどとっくに期限切れのかた代がそのままになってんのは、なんやややこしいいきさつのある土地やないのんか。

うちが証文巻いたかて田畑を耕す者が逃散していてはどうにもならんやろ」

 コノメは思わず言った。

所有してさえいれば必ず米が上納されてくるほど荘園経営は甘くはない。荒廃した農地は一朝一夕には実りを生まないのだ。

左衛門大尉の姫にはそんなことも分からない。

ただただ

「土地を返せ」

 と言いつのる。騒ぎを聞きつけた通行人や小路の乞食が物見高く首を伸ばして店をのぞき見込んでいる。

根負けしたコノメはとうとう証文に少しばかりの銭までつけてくれてやってしまった。

「二度と顔を見せんでおくれ。主人殿(あるじどの)もいらんからしっかり掴まえておきや」

 左衛門大尉の娘は証文と銭を手にするや、ろくに礼も言わずに出て行った。

コノメの気が変わっては大変だとでも思ったのだろう。


おかしなことは続くものである。

その日はもう一人珍客が重なった。

先触れもなく、わずかな供周りで訪れたのは頴心門跡(えしんもんぜき)であった。あの婚礼の夜以来、初めてのことである。

迦葉丸もいないのに不思議なことだ。

ともあれ挨拶はしなくてはならない。

釣殿(つりどの)に御席を造ってお通ししいや」

 釣殿は池にせり出すように建てられ、天気の良い日には柱や天井に水面の動きがちらちらと映る。銘木を惜しげもなく使った、風流好みの有徳人(うとくじん)にも評判の造作は、そもそもこの屋敷を造らせた頴心の好みだろう。

頴心は上座につかず、高欄に寄りかかって池を見ていた。(くるわ)を回ってきたコノメをちらりと見たが、すぐに池へと目を落とした。

婚礼の夜には雲をつく大入道と思えたが、今、明るい庭で見ると痩せた繊弱そうな僧侶である。

「良い庭だ」

 頴心はコノメのほうを見るともなく言った。ちょうど端境期(はざかいき)で花はない。

茶菓を運んできた女中は息を詰めるようにして頴心の膝元に茶碗を置いた。

「奉公人もよく躾けられているようだな」

「恐れ入ります」

 話の接ぎ穂がない。

頴心はいったい何をしに来たのだろうか。

蓮の葉の上を水玉が転がる音が聞こえるような気がする。

コノメは足がしびれてきた。

茶のお代わりを言いつけようと立ち上がりかけた時その時、

「なにか申せ」

 頴心は叩きつけるような口調で言った。読経で鍛えられているのだろう。大きくはないが力のある声だ。しかし、幾分うろたえているように響いた。

「何を言えちゅうのや」

 コノメは気色ばんだ。

この五年で外向きの口のききようは身についたが、叩かれれば叩き返す気性は変わらない。

「迦葉丸のことだ。消息はないか」

 頴心のほうが口調を改めた。

頴心は肩をそびやかしているが、眼は落ち着かない。

迦葉丸は博多を出帆するときにコノメに消息を書いてよこしている。手紙は瀬戸内から淀川を上って船で運ばれるから、思いのほか速くつく。

頴心は風の便りに聞くだけなのだろう。迦葉丸の安否が気になって、矢も楯もたまらなくなったということか。

「これほど迦葉丸にとらわれておいやすとは」

 コノメは内心驚いた。他に聞くあてもなく、恥も外聞も忘れてコノメのところに出掛けてきたと思われる。さすがに哀れに感じられて、

「迦葉丸は先の月の大潮に船出しはったはずどす。その後は便りがあらしませんよって海の上かと存じます」

 天候が良さそうだということ。荷はほぼ予定通りに集まったこと。海路を縄張りとする倭寇とうまく話がついたこと。知っているだけのことは話してやった。

頴心は膝に置いた中啓(ちゅうけい)に視線を落として聴いている。

「----歳ィとらはったなぁ」

コノメは思った。

頴心の頬には縦に深いしわが刻まれている。五年の歳月は頴心の外見を傲岸な大入道から初老の枯れかけた大徳(だいとく)へと変えていた。

が、その胸の内には枯れ切れないものがあるのだろう。

「帰ってくるかの」

頴心はつぶやいた。

「縁起でもないこと」

 言いかけてコノメは口を閉ざした。

頴心は船旅の事故なぞを心配しているのではない。

大商いに成功して意気揚々と帰ってくる迦葉丸が、もはや自分の元へは戻らないことを予想しているのだ。

迦葉丸が大陸との商いを企てたのは、頴心の執着からから逃れることが一つの目的であっただろう。この航海が生む莫大な利益で、土倉や屋敷、これまでに受けた恩恵の負債を一挙に返済しようというのだ。六歳から寺にやられた迦葉丸にとって頴心は師であり、家族でもあった。けれど、今や叡山も門跡寺院も頴心も、迦葉丸にとって重すぎる絆なのだ。

しかし、若さゆえの残酷さを責めるのは無理なことだ。


馳走(ちそう)になった」

 頴心は中啓を(ふところ)に入れ、立ちあがった。

「迦葉丸が戻ったら伝えて欲しい」

 西に傾いた陽が頴心を後ろから照らしていている。

「帰朝の祝いに青山(せいざん)(つか)わすから取りにくるように、とな」

 青山は古くから宮中に伝わる琵琶(びわ)で、今上から琵琶の名手頴心に貸し出された名器である。頴心がその寵愛のしるしとして迦葉丸に持たせていたものだ。

婚礼の夜に頴心が取り返していったことをコノメは覚えている。

「そのようなことは…」

 手紙を書くか、使者でもたてればよいとコノメは逆らった。

頴心がだれであろうとも、自分は迦葉丸の妻である。情人の呼び出しの言伝を夫に伝えるなどおかしな話だ。

「あえて頼むのだ」

 頴心は言いはった。

生まれついての貴人というものは手に負えない。物事の筋道にも、他人の気持ちにも頓着しないらしい。

「わしが言うても、迦葉丸は来まい。コノメが言えばきくだろう」

 ----子供ではあるまいし。

コノメは思った。

(えさ)をつけ、影響のありそうな者に口をきかせて情人を引き戻そうとは幼稚ではないか。

それも頼むに事欠いて、妻に言わせようというのだ。

「代わりにコノメの後生を朝晩祈ってやろう」

 頴心の口調は重々しい。いかにも特別の恩恵を施してやるという調子だ。

コノメは力が抜けた。

天台座主にもなろうという門跡に後生を祈ってもらうとなれば、さだめし感涙にむせぶ者もいることだろう。

「伝えはするが、そのあとのことは請け合えぬ」

 とにかくとっとと帰ってほしい、その一念でコノメはなかば約束してしまった。

今日は何という日だろうかとコノメは思った。


ようやく頴心を送り出したコノメは、高欄に顎をのせ釣殿の縁に腰掛けて足をぶらぶらさせた。

池を渡る風か裾を翻してゆく。

細い雨が降りはじめた。

 左衛門大尉の姫といい、頴心といい、よくも勝手なことばかり言いに来るものだ。

だが、コノメがあきれたのは、自分が命もいらぬというほど思いつめた恋を忘れ果てていたことであった。自分ながら不思議な気がした。元をただせば三河介の五男を見返してやるために迦葉丸と一緒になることを決めたはずだった。

何のためらいもなく船出した迦葉丸の冷たさを不満に思ったコノメだが、死んでもいいほど恋焦がれた男を思い出しもしない自分の薄情さもなかなかのものかもしれない。


遠雷が鳴っているようだ。ぶらぶらと動かすコノメの足を虫とでも間違えたか、浮いてきた鯉がぷかぁっと口をあけた。


「こちらにおいやしたんか」

衣の袖を頭にかぶるようにして呑牛和尚が廓を渡って来た。

「降ってますがな。そろそろ夕餉でっせ」

納銭方(のうせんかた)から戻ったところらしい。一番古い、垢じみた衣を着ている。徴税を司る納銭方に出向く時、呑牛和尚はいつも、わざわざみすぼらしいなりをして行くのだった。さほど儲かっていないという芝居をするための演出である。

-------相変わらず芸の細かいこっちゃ。

コノメは思った。

「今日は何や大変やったそうでんな」

「そうや、左衛門大尉に貸したんは和尚か」

「そうやったかもしらん。最初はわからんでしたことや。返済が滞って調べさすうちに気づいたがな。焦げついてしまってすまんことや。そやけど、いい値がつくような土地でなし、流して御寮人はんが恨まれてもと思うて塩漬けにしたままほっといたのや。

で、どないしはった。」

「胸くそ悪いよって追い銭つけて証文巻いたったわ」

「そりゃええ。上出来や。とうとう三河介のあほぼんと女敵(めがたき)を見返したやないか。すっきりしはったやろ」

 見返したことになるのだろうか。

「三河介のことなんかすっかり忘れとったさかい。なんや阿呆らしいだけや。

おまけに頴心門跡まで来はったわ。迦葉丸が帰ったら寺によこしてくれやと。ぬけぬけと頼まはった」

「情の深いお方やからな。」

「業も深そうや。あんまりひつこいよって、ついうかうかと約束してしもた。なんちゅう日や」

「御寮人はんの人物が大きゅうなったゆうことや。甘えさしてやんなはれ」

「門跡はんはええご身分やな、やっぱり。朝晩上の空でお経でも読みながら色恋の心配だけしとればええんやから。あてなんか迦葉丸をつなぎとめるための銭儲けに忙しゅうて、死ぬほど恋い焦がれた最初の男のことも忘れとった。なんや損しとるような気ぃがするわ」

「欲張りなさんな。

『一寸の相思一寸の灰』や」

「なんやそれ」

「唐の歌詠みの歌やな。 

『春心花と共に()くを争うこと莫れ』

色恋にむきになるのは阿保らしい、ゆうてまんのや。五百年前の賢いお人の言葉だっせ。御寮人はんかて商いの面白さは色恋とええ勝負やとわかっておいやすやろ。好きでのうては、饅頭屋から始めてこないにうまいこと商いを大きゅうできるはずがない。色恋も銭儲けもむきにならんのがコツやな。銭は握りこまずにまわしてやればお仲間を連れてまた戻ってきまっしゃろ。男も抑え込まずに泳がしておけば気分よう帰ってきて、そのたびに御寮人はんに惚れ直すちゅうわけや。御寮人はんはせっせと銭儲けして楽しくすごさはったらよろしいがな。そのうち室町の御所から公方(くぼう)はんが銭借りに来まっせ。

さあさあ、夕餉にしまひょ。つまらんこと考えるのは腹が減った証拠や」

コノメはせかされて雨のかかる釣り殿の縁から立ち上がった。呑牛が袖を広げて濡れたコノメの足を拭いた。知らぬ間に冷え切っていたコノメの足に破れ衣のぬくもりがじんわりと沁みた。

呑牛和尚は朗々と漢詩を吟じながら廓をわたってゆく。


颯颯たる東風 細雨来たり

芙蓉塘外 軽雷有り

金蟾 鎖を齧み 香を焼いて入り

玉虎 糸を牽き 井を汲んで回る

賈氏 簾を窺って 韓掾は(わか)

宓妃 枕を留めて 魏王は才あり

春心 花と共に()くを争うこと莫れ

一寸の相思 一寸の灰


そもそも、閻魔堂(えんまどう)で呑牛の口車に乗せられたことからすべてが始まったのだった。

乗り掛かった船、ならぬ乗り掛かった口車である。もう少しこのまま乗っていってみることにしようとコノメは思った。


颯颯東風細雨來

芙蓉塘外有軽雷

金蟾齧鎖燒香入

玉虎牽絲汲井回

賈氏窺簾韓掾少

宓妃留枕魏王才

春心莫共花争發

一寸相思一寸灰

「無題」李商隠

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