焦がれる Long for 第三章 覚醒と幻覚
第三章 覚醒と幻覚
ともあれ、コノメは迦葉丸と夫婦となった。
迦葉丸の土倉は綾小路にあった。鎌倉幕府の頃に爆発的に増えた土倉は比叡山に属するものが多い。僧侶の内妻、縁者が主人となっていたが、有体は僧侶が寺院の財産を元手に経営したものだ。有力土倉は幕府の財政を代行するほど実力と権勢を持った。徴税も流通も要は金融を握る土倉に握られている。大小の土倉は京の都だけでも数百はあるといわれるが、取引は全国に及ぶ。競争は激しいが幕府も地方豪族も商人も、土倉の世話にならなくては立ち行かない社会で圧倒的に優位な商売だ。
迦葉丸の土倉は北側に倉があり、砦のように造作されていて、厚い扉の中には預かりものの財物や書類、銭が詰まっている。土倉としては中の下でも庶民から見ればお大尽で、貧乏公家などとは比べものにならない生業であった。商売を広げたい野心を持つ迦葉丸はかたに取った地所や荘園を検分に行ったり、山門奉行や納銭方に呼ばれたりと日々忙しい。
代わりに倉の鍵を預かるのはコノメの役目である。それだけではない。屋敷の奉公人の面倒も見なければならない。財物を守るためには腕利きの男たちが必要である。取り立ては比叡山の僧兵や神人が行うが、強面の用心棒は欠かせない。留守がちの迦葉丸に代わり、そうした男たちの差配もしなくてはならない。
住み込みの番頭のように居ついた呑牛和尚は荒くれ男たちをうまく捌いてコノメを助けた。
「女主人らしゅう、ちぃっとすました顔して座っとりゃあええ。しゃべらんでもよし。
細かいことは拙僧が言うよって」
という呑牛和尚の言で、少し年嵩に見えるように化粧をしたコノメは上客の応接にも出ることになった。
呑牛和尚は貸金業の実務にも明るい。坊主だから文字が書けるのは当たり前だが、利子の計算なぞも魔術のように素早くこなす上、客の応接も堂に入ったものだ。
コノメも呑牛の書いた台本通りに挨拶をする。
客の前で呑牛はコノメを家付きの御寮人様のように奉った。
奉られて女主人役をしていると次第にそれらしい心持になってくるものだ。お仕着せの台詞も繰り返すうちには板に付いてくる。コノメはいつしか、これまで正面から顔を見ることさえなかったような階層のお客とも堂々と口がきけるようになっていた。
土倉の客は様々である。地獄辻子あたりの怪しい商いの元締めも来れば、守護大名の重臣も訪れる。呑牛は巧みな話術で銭の使い道や返済の見込みを聞き出してゆく。屋敷には目端のきく手下が幾人も飼われていて、常に客の話の裏を調べ歩いている。なぜか顔の広い呑牛は政治の風向きから、大名、有徳人たちの動静、帝の健康状態までこまごまと情報を集めては、つなぎあわせるたいそうな技を持っていた。。
「一条の大臣はん、暮らし向きは派手やが、近江の荘園で水が出て今年どころか来年の収穫も見込めん。
かた代には荘園より屋敷をとったほうがええ。利息も八文子はつけなあかん」
「錦小路の麹屋ぁはケチやけど、別宅に妾がおるそうや。
それが公家の出やいうて自慢しよるが、その実、加世辻子の辻君やったらしわ。大枚もろうた貧乏公家が替玉をやとうたんやて。
存外抜けた仁やな。商いもそろそろあかんで。他からも借りとるし。貸さん方がええな」
呑牛は集めた情報を夜な夜な迦葉丸に報告し、額を寄せ合って貸し付けをどうするかを決めていた。
聞いているコノメにも次第に世の中の仕組みが見えてくる。
倉の財は次第に増えていった。倉の財物には書画、道具類、香木などもあった。手がすくとコノメは倉に入ってそれらを眺め、通帳の貸高と比べて見るようになった。ねじくれた木の切れ端のようにしか見えない香木にたいそうな金高が付けられていたりする。それをまた三倍もの価格で買い取る客があったりもする。
そんなコノメを呑牛は
「ええことや。ものの値を知るちゅうことは世の中を知ることといっしょや。たのもしいわ。ええ御寮人はんや。わての目は確かやった」
とおだてた。呑牛和尚は口がうまい。奉公人たちもうまく乗せられてよくまとまり、店を盛り立てるようになっている。舌先三寸も幻術のうちかもしれない。
コノメは次第に商いが面白くなってきた。貧乏公家の土間を這いまわるような生活では到底見えなかった世の中の動きというものが見えるからだ。
世間に色々な商売があり、世の中は沸き立つように動いているらしい。
屋敷の勝手口には様々なもの売りもやってくる。青菜や豆、魚、などの食材から鍋釜、薪、小袖、櫛など裕福な屋敷の要り用をあてにしてくる行商人には女も多い。行商人は連雀という背負子に巧みに商品を積み込んでくるので連雀商人とも呼ばれていた。
櫛や小袖を選んで買うなどコノメには初めてのことだ。そもそも貧乏公家の裏口にはもの売りも寄り付かなかったから、何を売りに来る商人でもコノメには珍しかった。
買物の楽しみを知ったコノメは市にも出かけるようになった。東寺などには大勢の連雀商人が集まり品物を並べている。町小路や錦小路にも店は多いが、東寺の市は見渡す限りに様々な商品が並べられて、いかにも活気があり、眺めて歩くだけで楽しかった。
一服一銭ほどのわずかな銭で茶を売る屋台もある。熟鮓なども売られている。
コノメは年増の女商人から饅頭を買ってみた。当時の饅頭は甘い餡ではなく、野菜や肉などを調理して入れた。持ちはこべるし、弁当代わりにもなる便利な食べ物だ。
目新しさもある。大陸から渡来した食文化のひとつであった。
女の売る饅頭は味噌と胡麻油で味が付けられている。
「美味いな。お前様が作るのかえ」
コノメは聞いてみた。
「そうじゃ。死んだ亭主に習うた。」
亭主は東寺の雑掌だったという。寺の庫裏で見よう見まねに覚えた饅頭の作り方を女房に教えたらしい。
亭主を亡くして暮らしが厳しいのだろう。女はすねが出るような短い小袖を着ている。
「わいの家は綾小路じゃ。口の多い、忙しい商いをしとるよって売りに来ればいつでも買うてやる。」
「ありがたいが…」
と女は首をすくめた。
「たんとはつくれぬ。畑もあるし、寝ついた年寄りもおるよってな」
亭主に死なれたあと、在に戻ってわずかばかりの田畑に青菜や豆を植えて暮らしているという。
死にかけた親の面倒を見ながらひとりで畑も作る。だから、饅頭をこしらえて売りにこられるのは月に三度ほど。得た銭は年寄りの薬代にする。米粉なども仕入れなくては作れないから、たくさんはできないということを女は意外にはきはきと説明した。
銭の流通は広がっているが、京を少し離れた農村になると経済は古代と変わらない。
大きな館に畳を置くような豪農も生まれ始めているが、ほとんどの農民は物々交換に頼り、町場で商売をするような元手は作りようがない。それに流通の仕組みには複雑な権益が絡んでいて誰が何を商ってもいいというわけにはいかない。
コノメにはそうしたことがわかり始めていた。
「小店で商いをして見る気はないか。
親を看ながら町場で暮らせるかもしれん」
コノメは女に言った。
見物しているばかりでは芸がない。
自分も世の中にちょっかいを出してみたくなってきた。
コノメは女に、迦葉丸の商いとしては問題にならないほどのわずかな銭を元手として融通してやった。店の場所は呑牛和尚に頼み、新興の町が拡がる今出川通りの北側、妙蓮寺の門前に近いあたりに決めてやり、その辺りの食い物商売を仕切る座にも口をきいてやった。
女の田畑は近在の者に任せて、毎日野菜や鶏、卵を周辺から集めて運ぶように話もつけさせた。
女は間口の狭い店の奥に年寄りを寝かせて、せっせと饅頭を作って売り始めた。
これが当たった。鶏肉や青菜の入った饅頭は評判となり、近在の住人だけでなく青侍や籠輿丁、地獄辻子あたりの辻君やその客、寺院の参拝者などに飛ぶように売れてゆく。歩きながらでも食べられるし、箸もいらず手も汚れないから忙しい職人や商人にはうってつけの食べ物だ。作るのが間に合わないほどの売れ行きに、女は店を広げ、人を雇うまでになった。元手はもちろん返してきたが、そのあたりの座に口をきいてやったコノメには節季ごとに付け届けをしてくる。
気をよくしたコノメは、迦葉丸を手伝うかたわら、自分でも見どころのありそうな職人や行商人に小口で元手や日銭を貸してやる商売を始めた。
有徳人や寺から遊んでいる金を集めて貿易や守護大名の戦費に投資する迦葉丸の商いとはケタが違うが、息のかかった店が繁盛し、商売が成功するのを見るのは楽しい。
「ご寮人はん、いい腕や。商人のカンが身についてきやはったな」
呑牛は喜んで褒めたが、留守がちな迦葉丸は気にもとめていないようだった。屋敷にいるときは琵琶を弾いたり、香を聞いたりと優雅に時を過ごしている。香は迦葉丸のもう一つの道楽らしく様々な香りを合わせて香炉にくべ、伏籠をかぶせた上に自分の装束を置いて香りを焚きしめている。香の合わせ方、焚き方にこだわりがあるようでコノメにも奥を手伝う女たちにも任せることはしない。しかし、ほとんどの日々は商いを軌道に乗せようと相変わらずかけずり回っている。陸路、海路を股にかけて行動範囲は広く、琉球からの交易船との取引のために博多まで出かけることもある。琉球からは香木や硫黄などシャム・マラッカ・ジャワなどから文物がもたらされていた。中には胡椒など国内では需要のない品の取引もある。それらへの投資は明など第三国との取引で大きな利益を生み出すのだ。国内でも言葉の訛りも違うような遠国で、渡来物を扱うような商人たちと取引をするせいか、たまに帰ってくると、迦葉丸は言葉つきや立ち居、顔の表情まで出かけた時とは違って、時には別人のように険しく見えることがある。そんなときの迦葉丸からは香どころか獣のような匂いさえした。夜になれば新床のときのようにコノメを賞玩したが、疲れているのか、ことが終わればたちまち死んだように眠ってしまう。
「なんたら云う坊主は業深く執着するたちのようやったがな」
とコノメは新床に踏み込んできた頴心門跡をふと思い出した。その後も手紙やら使いやらが頴心から来ているようだった。迦葉丸の遠出、外泊が本当に商いのためだけなのかどうか、コノメには知る由もない。迦葉丸のように美しく、誰からも好かれるような男はもしかしたら情が薄いのかもしれない。男とは手練手管で手に入れた女房にもすぐ飽きてしまう生き物なのか。
迦葉丸は悪い男ではないが、苦もなく人の好意を得られる魅力や才覚を備えた者ならでは冷酷さも併せ持って要るようだった。
日々の暮らしに困らないということは大変なことだ。祝言から一年も過ぎる頃にはコノメはわれながら驚くほど態度物腰に余裕がついてきていた。同時に土倉の商いがきれいごとでない事も見えてきた。大商いでの焦げ付きや返済の遅れは只ではすまされない。放置すれば商売がまわらなくなり、信用を失う。そんな時に取り立てなどの実力行使を行うのは比叡山の山門に連なる寺の堂衆、行人などと呼ばれる身分の低い山僧達だ。寺の経営や秩序に深く関わる者から僧とは形ばかりのごろつきのような者までおり、時には寺の最上流階級で学問や宗教を追求する学侶と敵対する事もあったが、人数が多く大きな勢力を持つ。天皇や幕府を脅かす山門の戦闘力の中枢を担っていた。その武力は武士と変わらず、名誉や戦いに対する意識も武士顔負けであった。一二八三年正月には朝廷が贔屓する四天王寺との勢力争いで、日吉神輿を担いで内裏に乱入し、四脚門を破壊して常の御所を打ち壊し、紫宸殿の御簾を引き落とす大暴れをした事もある。警護の武士は恐れをなして抵抗せず逃げ散ったという。荒っぽい取り立てや警告、そして見せしめでもある打ち壊しは彼らが担当する。その容赦ない苛烈さへの怖れが土倉の商いを支えているのだ。こうした山僧達は比叡山ではなく京の町中に住んでいた。頴心のような高僧からから経典が読めるかどうかも怪しい僧兵まで、多くの僧は比延の山上でなく洛中で暮らす。山上での不便な暮らしを疎んじた事もあろうが、朝廷や幕府ににらみを利かし、勢力争いに備え、京での経済活動に従事するためでもあった。彼らとのつながりがあってこそ土倉は立ち行くのだ。取り立てを甘くすれば他の借り手にもなめられて焦げ付きが膨らみ、比叡山傘下の土倉としての地位も危うくなり、金融業としての権益も奪われかねない。大きな貸し付けほど苛烈に取り立てることが必要だった。比叡山傘下の土倉が栄えてきたのはこの僧兵の戦闘力と宗教的権威を背景にした山門の力による。だから比叡山中枢との結びつきの強さが土倉の営業力にそのまま反映するのだった。
「なんやろ、もう朝かいな」
コノメはふと目が覚めた。迦葉丸は北陸の取引先に出かけて今日もいない。いくら夏でも夜半過ぎのはずである。格子戸の隙間から赤い光がちらちらし、妙にざわついている。だけではない、油のこげるような臭いまでする。
「火事かっ」
とび起きたと同時に、店の大戸をたたき割る大槌の音が鳴り響いた。あっという間に男達のわめき声が店になだれこみ、壁や什器やカワラケが打ち壊されるけたたましい音が響いた。大勢の乱れた足音が奥へと向かってくる。明かりをつける間もなく、コノメは松明や鉈や、こん棒などをもった男達に取り囲まれた。夜盗には見えない。ほとんどがみすぼらしい乞食坊主か河原の乞食と見まごうようななりをしている。先頭の男だけが胴巻きの上に袈裟を掛け、長刀を持っていた。
「主はどこだっ」
わめいた男の言葉には近畿圏ではない、聞き苦しいなまりがある。店からは物が打ち壊される音だけでなく女奉公人の悲鳴も聞こえてきた。コノメはカッと頭に血が上った。
「主はわいや、何の用か」
男の声に負けじと怒鳴り返して、コノメは立ち上がった
「迦葉丸はどこだと聞いている。幕府よりの下し文だ」
男は奉書に包まれた文書を振りかざした。
「迦葉丸は留守や。留守の間はあてが店を預こうてますよって、あてに言いや」
コノメは男に詰め寄った。
「女ごときがなにをぬかす」
男は権威の象徴である奉書を振り回した。その手がコノメの口に当たった。はじかれてコノメは尻餅をついた。唇が切れたのだろう、血の味がする。さらに男は長刀を振りかぶり、コノメめがけて振り下ろそうとした。幕府の使者などと名乗っていても、要は座の利権を守るために大寺の縁の下で飼われている野良犬のようなものだ。
「やられる」
コノメは思わず首を縮めた。
中空を切り裂いた長刀の重い刃が頭蓋の食い込むのを覚悟した。
そのとき、突然、空気の色が変わった。
赤黄色い松明の薄暗い灯を粉砕するような銀色のまばゆい光に目を射られ、コノメの視界は真っ白に消し飛んだ。
どこかから野太い響きの念仏が聞こえる。
死んだかと思った数秒の後、コノメがようやく目を開けると男は敷居まで下がって無様に土下座していた。
被り物がとれ、髪が五分ほどに汚らしく伸びた頭を抱えてがたがたと震えているのがわかった。手下どもも鉈や棒切れを取り落として震えながら突っ伏している。
コノメは手で自分の顔を触ってみた。頭はまだ胴に付いていた。
地の底から響くがごとき念仏のようなつぶやきは次第に大きくなる。びぃんと腹に響くような厳しい響きに、行灯の枠が共鳴するようにビリビリと震え出した。
コノメは思わず立ち上がった。
そのとたん念仏ははっきりとした言葉となり響き渡った。
「我は薬師瑠璃光如来なり。比叡山は一乗止観院より来たりたる。山門ゆかりのこの家に土足で踏み込むものは無間地獄へ落ちるがよい」
恐ろしい大音声に、男達は飛び上がり、互いに押しのけあい、踏みつけあい、転がるようにして我先に逃げだした。
押し込まれた時もあっという間だったが逃げ足はさらに速かった。
気づけばコノメは土足で踏み荒らされた寝間に呆然と立っていた。夜具はには泥足の跡が付き、軒から裂けた御簾が下がっている。店はもっとひどいだろう。縁先や踏み荒らされた前庭には、男たちがかすめ取るつもりで店から持ち出した銭や道具類や衣類が散らばっていた。
「やれやれ、荒っぽいこと」
いつの間にか、コノメの足元に座り込んでいた呑牛和尚がため息をついている。
「しかし、御寮人はん、よう追い払わはったな。さすがや、お手柄や。御寮人はんがとめなさらんかったら蔵まで破られて取り返しがつかんところやった」
蔵には貸した金のかたに預かった貴重品や証文がある。そこまで荒らされたら商いは立ち直れないほどの打撃を受けたに違いない。
「あてはなにもしとらん。やくしなんたら、とか名乗ったやつに驚いて逃げくさったのやろうが。あれはなんや」
コノメは呑牛を見下ろした。
「和尚が何かしたのだろうが。魔物でも呼び出したか」
「なんともったいないことをおいいやな。あれは薬師瑠璃光如来様や。比叡山延暦寺のご本尊様やおへんか。われらの日ごろの精進と御寮人はんの勇気に感じて苦境を救おうとお出ましあったに違いあらしまへん」
「幻術、目くらましのたぐいかえ。地主権現の使いとか言った唐輪の同類やろが。
和尚は幻術使いか」
「そんな罰当たりなもんかいな。お助けあれと仏様に念仏を唱えておったんは確かやけど、おこたえくださったのは薬師如来様のお考えや。まっとうな商いで比叡山にもきちんと割り前を上納しとる山門気風の土倉が禅宗の息がかかった納銭方の手下どもにいびられるのは哀れやと薬師如来様もおぼしめしたに相違ない。それでお出ましになられたのだ」
「まさか、それにいくら大音声でも、やつら、驚きすぎだろうが」
「いやいや、連中にはちゃぁんとお薬師様のお姿も見えとったはずや。いい具合に御寮人はんが立ち上がらはったからな、へへっ」
呑牛は思い出し笑いをしている。やはり何か小細工したに違たないとコノメは思った。
薄暗い中、後ろからの明かりでコノメの立ち姿を照らせば如来に見せかけられるだろうか。
いつの間にか自分も呑牛の幻術の種にされているらしい。しかし、今はほかに考えるべきことがあった。
「禅宗の息がかかったやつら、といったな。連中の正体はなんや」
「あの貧乏くさい面には憶えがあるわい。おおかた建仁寺あたりにごろ巻いているやつにらに間違いおへんな」
建仁寺とは禅宗の寺である。国家鎮護を担う密教から見れば新興のゲテモノであり、長く京都には受け入れられなかった。しかし、鎌倉幕府のころから政権の庇護を受けて関東で飛躍的に勢力を伸ばし、今や侮れない勢力となっているのだ。
かつて延暦寺は天台密教の総本山として都に新興宗教である禅宗の寺を作ることをいっさい認めなかった。建仁寺でさえ、当初は延暦寺の塔頭という体裁でようやく創建を認められたという。その建仁寺が公然と臨済宗建仁寺派の大本山を名乗り、嵐山に壮麗な天龍寺が造営されるに及んで、禅宗の台頭は目覚ましい。後醍醐帝の菩提を弔う名目で建てる大寺を禅寺とした足利将軍の腹には、比叡山の勢力を削ぐ目的があっただろう。
将軍家の後ろ盾を得た禅宗寺院の活躍は目覚ましく、大陸からの新奇な文物は禅宗寺院を通してもたらされるようになりつつあった。その新興勢力が目を付けたのが土倉の利益である。土倉のは大部分は比叡山延暦寺の縁に連なる者たちが経営し、利益の一部を延暦寺に納める。山門気風の土倉と呼ばれるこれらの土倉はその見返りとして取り立てに僧兵の武力を利用したり幕府やそのほかの勢力から保護されてきた。比叡山の勢力を憚ってかあるいは金融に対する認識の甘さからか、鎌倉幕府は土倉の膨大な利益を徴税の対象とはしてこなかった。また、当時は各種の商いはそれぞれ寺社などの支配下にあって、そこから徴税するのは国家ではなく寺社勢力であるのが普通のことだった。足利将軍の世となり、商業利益の大きさに目覚めた幕府は寺社が独占してきた権益にも税をかけるようになった。中でも土倉の利益は最大の魅力である。当然、既得権益を守ろうとする比叡山始め各勢力との間に軋轢が生じている。そこに割り込んで幕府寄りの勢力として暗躍を始めたのが禅宗であった。幕府にとって、禅宗の持つ勢力と僧兵の戦闘力は対延暦寺戦略との切り札になりつつあった。幕府からの納税命令に従わない土倉にたいして実力行使をする実働部隊の多くは禅宗系の僧兵の配下たちだった。
後白河上皇に
「意のままにならぬのは鴨川の水とサイコロの目と叡山の山法師」
と言わしめた延暦寺も、足利政権と結びついた禅宗の台頭は無視できない。
かつては山門気風の土倉として幕府の思惑など顧みず、比叡山にだけしたがっていた土倉の商いもやりにくくなり始めている。かつては比叡山に上納金を納めていればよかったものが、幕府から徴税される土倉がじりじりと増えているのだ。しかし、土倉からの上納金は叡山の勢力の源でもあった。比叡山は既得権を主張し、勢力を増している幕府も譲らない。
結局双方に二重に上前をはねられている。そんな世の動きの中で、迦葉丸の商いも幕府方から目をつけられたに違いない。
「迦葉丸はんと頴心門跡様が疎遠になったとかぎつけた連中が、この機に乗じてきたわけやな」
と呑牛は眉根にしわを寄せた。迦葉丸に対する延暦寺の庇護が薄くなったと考えて、幕府につながる禅宗系の土倉などの寄り合いが、圧力をかけてきたというところだろう。当時幕府は財務や徴税の機関を持たず、息のかかった土倉に納銭方を請け負わせていた。山門気風の土倉に敵対するそうした勢力が、圧力をかけるいい機会と考えたということらしい。
「怪我がなくてよかった」
知らせを受けて急遽戻ってきた迦葉丸は呑牛とコノメをねぎらった。しかし顔色はさえない。破られた大戸や狼藉の跡は応急の修理を施してあったが、奉公人の半分以上が逃げて、店は火が消えたようである。迦葉丸の店が幕府から目を付けられ、またいつ襲われるかしれないという噂が街に流れている。蔵は無傷で商売の元手を奪われたわけではなく、比叡山の庇護がなくなったわけでもないのだが、評判とは恐ろしいものだ。落ち目だという噂が出れば新しい客はもちろん、以前からの取引先からの返済まで滞り始める。迦葉丸はこれまで以上に熱心に取引先や山門につらなる寺々をめぐり、店の被害はさほどでなく、比叡山との関係にも変わりがないことを説いて回った。しかし、早晩、幕府への上納金は納めねばならないだろう。
商いが大きいだけに利益を隠すこともしにくい。迦葉丸の商売が持ち直すには大分かかりそうだ。迦葉丸は外出から帰るとむっつりと、しかし目をぎらつかせながら考え事をしていることが多くなった。
その点コノメの商いは目に立たない。
小銭ではあっても銭は銭を呼ぶものだ。コノメのもとにはさまざまな儲け話が集まるようになっていた。
たまった小銭を元手にコノメは新開地である今出川通りの北辺りの地所の権利を買っていた。室町幕府が安定を見せ始めたこの頃、都市生活は豊かになり始めていた。
市が開かれることが頻繁になり、錦小路のように常設の店舗も軒を連ねるようになっている。ことに室町に花の御所ができて後は、今出川通りの北にも桶だの塗り物だの紙だの女の化粧道具だのを商う店がずいぶんとが増え、コノメの地所は借り手がひきも切らない。コノメの手元には座っていても上納金や地代が入ってくるようになった。しかし、コノメは店子の店をよく見に行った。見たこともないような道具や商品がならび、客が念入りに見聞して買っていく。商人は品物が良いことを達者な口調で言い立てる。それらを見ているのは面白い。
桶などは職人が店の奥で作っていたりするが、塩や海藻、紙などは違う。それらは別の場所で作られたり収穫されて京まで運ばれてくる。
「どこからどうやってくるのやろ」
魚や海藻をとる生業があることは知っていたが、それらの産物や農作物を運ぶことを専門にする商売があることをコノメは初めて知った。近頃は農業技術も進んだらしく、米や農産物の輸送は増えている。輸送を受け持つ問丸も年貢米などを運ぶだけでなく、独自に輸送を請け負って商いをするようになっていた。中でも瀬田川から淀川沿いの輸送はみいりがいい。魚や農作物などを都へ運べば、運んだだけ売れてゆく。
「面白いもんやな」
コノメは感心した。海辺ではいくらもしないという和布が、干されて船に乗り、淀川を登ってくると何倍にも値打ちが上がるというのだ。
ものを動かすだけで利がふくれるとは面白すぎる。比叡山延暦寺の庇護を受け、経費がかさまずい利子の大きな貸付をする土倉の商いに比べれば細かい商売だが、日々の駆け引きや銭の動きを追うのがコノメにはたまらなく楽しい。なかなか持ち直さない商いに焦れているらしい迦葉丸のことは気になったが、噂が鎮まるまで自分の銭儲けで助ければよいという気もあってコノメは商売に打ち込んだ。辻で拾った女房の才覚がどれほどのものか、そのうち迦葉丸も気づくだろう。
今出川通りの地所から上がった利益でコノメは淀川の水運に関わる問丸の権利を買った。コノメの船が運んだ荷は、コノメが地所を貸している店で商われ、銭が銭を生み始めた。
「銭ちゅうもんはさびしがり屋やそうな。目立つように寄せておけば、あとは勝手に集まるもんや」
呑牛和尚もコノメの金儲けをせっせと奨励した。
三年も経った頃には、コノメ自身の商いはなかなかのものになっていた。