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Long for 焦がれる  作者: 太田龍子
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焦がれる Long for 第二章 馴れ合いと開き直り

第二章 馴れ合いと開き直り


夜は白々と明けてゆく。

一昨夜は御曹司(おんぞうし)に祟ろうとしてしくじった。

その前の日には御曹司が馬場へと向かう道筋で待っていた。しかし、御曹司はまるで誰もいないかのようにとっととコノメのまえを通り過ぎていったものだ。その横顔を見て、コノメの恋心は恨みへと変わったはずだった。

本当は御曹司の心を取り戻して屋敷の納戸で狎れ合っていたころに戻りたいのか。

戻れたとしても、自分には目もくれず、駒を打たせて行った御曹司の冷酷な顔を忘れることはできまいと思う。

「坊主めがちゃちゃを入れるからや」

 コノメは思った。

本当のところ自分は何を願っていたのか、呑牛和尚(どんぎゅうおしょう)の口車に乗せられるうちにわからなくなった。呑牛和尚が口にした瓦屋根の屋敷や金銀の詰まった倉なぞというものはそれこそ夢物語としか思えない。しかし、何をどう望めばこの焼けるような悔しさや、心細さが静まるというのか。

枇杷(びわ)を目印に来るものが望みのもの、ということやろ」

 コノメが投げやりに考えたころ、キレの良い蹄の音が響き、肥えた馬が速歩で坂を下って来た。馬上の姿は若い男のように見える。地主(じしゅ)の神は三日前の願いを本願として聞き届けたもうたかとコノメはどきりとした。

 しかし、馬が立派すぎる。見上げるように背の高い、見るからに東国産の月毛。三河介(みかわのすけ)の駄馬なぞとは比べ物にならない。まっすぐに向かって来た月毛は岐れ道でぴたりと停まった。

辻に立ち尽くすコノメの真正面。馬の鼻息がかかるほどに近い。

意外にも馬上の男は前髪立ちで目を見張るように多彩な糸を織り込んだ錦の直垂を着ている。拵えは少年のようだが体は出来上がった男のものだ。そして、額が白く、唇が紅い。

何よりも男を際立たせているのはその目だった。昇る朝日にも遜色ないほどキラキラと光る、いかにもその奥の頭脳が休みなくめぐっていることを思わせるような眸がコノメをまっすぐに捕えていた。

馬の方も馴れ馴れしくコノメの枇杷に鼻を寄せてくる。

「コノメよ」

 男は手綱を引いた。

馬は首を巡らせたかと思うとコノメのまわりに円を描くようにまわり始めた。

脅すように、また見せびらかすように、コノメの袂に(あぶみ)が触れそうで、決して触れないほどの絶妙な間合いである。見事な手綱捌きに呼応して月毛の琵琶股が鳴るように動く。坂東武者にも匹敵するほどの乗馬の腕前は三河介の御曹司など及びもつかない。

 コノメは転ぶまいと本能的に膝をゆるめて爪先だった。

 その瞬間、男はすいっと腕を伸ばしてコノメの胴を抱きとった。

鞍壷(くらつぼ)の前にうつぶせに抑え込まれた時には月毛は五条の橋上を疾走していた。

「騒ぐな。舌を噛むぞ」

 男はコノメの帯をつかんでいるらしい。

「腐れ坊主め」

 コノメは何度目かの罵り声をあげたかったが舌打ちすらできない。惜しくもない命でも墜ちて蹴られるのはいやだ。

コノメは観念した。

よほど手入れが良いのだろう。月毛の毛並みは新しい毛氈のようになめらかだった。男の着衣からは嗅いだこともないような良い香りがする。

盗人、女衒、人買いの輩ではなさそうだ。

どれほど走ったか。まだ洛中は抜けまいというあたりで月毛は足を緩め、大きな門をくぐった。ぱらぱらと人が駆け寄り。コノメは馬から下ろされた。血が下がっていたのだろう。目の前が白くなって膝に力が入らない。

「存外しおらしいではないか」

 男に俵のように担がれて運ばれたが、逆らおうにも力が出なかった。

気がついた時には板敷に転がされ、お湯をかけられていた。

湯殿の中には蒸気と新しい木の匂いが立ち込めている。

「気づいたか」

 間近に前髪の男の顔があった。

「磨きがいがあったぞ」

 糠袋(ぬかぶくろ)でコノメを丹念に洗っていたらしい。

高い位置に切られた蔀戸が開け放たれ、朝日が素裸のコノメに降り注いでいた。

「なにをしよる」

 コノメは気色ばんだ声を出そうとしたが、どうも力が入らない。

朝日は明るすぎ、男の顔はあっけらかんとしている。いかがわしいまねをされたと主張するのはいかにもそぐわないように思えた。

なにより丸裸で啖呵は切りにくい。

「洗ろうててやったのや。あちこち泥がついていたからな」

 男は悪びれない調子で言った。

「私は迦葉丸(かしょうまる)地主権現(じしゅごんげん)の定めたお前の亭主だ」

「似合わん名乗りやな」

 とコノメは思った。

目の前の男は前髪の若衆姿も、稚児のような幼名もそろそろ不つり合いな歳に見える。

しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。

牛に乗った地主権現の使いは確かに

「枇杷を目印に迎えに来るおのこに従え」

 と言った。しかし、新しい男との縁なぞ願掛けした覚えはない。コノメはなんとか板敷の上に座りなおした。

「亭主なんぞ欲しいと頼んではおらん」

 とりあえず逆らってはみたものの、裸では腹に力が入らない。第一、男が綺麗すぎる。

「ほう、しかし地主は縁結びの神ぞ。コノメは何を望んで参籠したのだ」

 迦葉丸は落ち着き払っている。

「それは…」

 どうもわれながらはっきりしない。

そもそも、会ったばかりの綺麗な若衆に、男に捨てられた話なぞはしたくない。

「コノメよ。教えてつかわす」

 迦葉丸は板敷の上で居住いをただした。背筋を伸ばし、顎を引くといかにも姿がよい。

自分でもそれを知っているに違いない。

「お前の望んだのは安楽な暮らしとお前を辱めた男を見返すことだ。

迦葉丸の女房としてこの家の女主人(おんなあるじ)となればその願いはかなう。

地主の祭神は古代からの縁結びの神にあらせられる。結び賜うた縁は神聖なものぞ」

 前髪立ちの若造とはいえ、錦の直垂(ひたたれ)に威儀を正した者を相手に、一糸まとわぬ素裸では分が悪い。

迦葉丸は答えに詰まったコノメの尻を押すようにして湯殿の低いくぐり戸をくぐらせた。

湯殿の外には白髪の媼がいて、コノメのからだを拭きにかかった。

刻限(こくげん)までに支度を頼むぞ」

 言いおいて迦葉丸は用ありげに出て行った。

帷子(かたびら)を着せられたコノメは一間廊下を延々と歩かされた。

いくつも建物が廊下や橋掛りで結ばれ、広壮な庭には築山や池があり、樹木や小川が面白くあしらわれて奥行きのある景色を造っている。昨夜の牛と唐輪(からわ)の出現以来、何かに化かされているのでないかとコノメは思った。とても(うつつ)の出来事とは思われない。

東の対の一室に座らされたコノメは白髪の(おうな)に差配された女たちによってさらに髪を洗い直され、眉を抜かれ、これまでに見たこともない道具や紅で化粧を施された。途中、朝餉(あさげ)が出されたが、これまた三河介の屋敷では主人の食事にも出ない白い炊き立ての飯や川魚、蜂蜜のついた菓子まで並ぶ贅沢な膳である。食事の間も媼が傍らで給仕をし、女たちがコノメの髪をまっすぐに乾かすために梳き続けていて落ち着かないことおびただしい。

「この家の主は誰だ。」

 コノメは媼に聞いてみた。

明王院(みょうおういん)迦葉丸(かしょうまる)様でございます。」

 媼は少し驚いたように答えた。そんなことも知らないのかという顔つきだ。

「刻限とはいつ、何の刻限だ。」

盃事(さかづきごと)の始まる夕刻でございます。」

 要領を得ないやり取りを繰り返した末にわかったのは、この屋敷の主はコノメを引っさらった迦葉丸であり、今夕、コノメと祝言を挙げるということである。コノメの知らぬところで事はどんどん進んでいるらしい。地主権現の「神意」はいったい那辺にあるやらわからない。 

しかし、迦葉丸とやらが仮に自分を人買いに売るつもりであればこんな手の込んだことはすまい。

「夢ならそのうち覚めるやろ。覚めなんだら儲けもんや」

 コノメは考えた。

「安楽な暮らしと男を見返すこと」ができると迦葉丸は言った。

 確かにそれが自分の望みだったはずと思えた。ここに留まってそれを手に入れてやろう。騙されたところで失うものはない。捨て鉢な居直りだけではなかった。

コノメの瞼には少年とも男とも断じきれない迦葉丸の姿が鮮やかに残っている。

「あれは生身の男やろか」

 艶麗、典雅などという言葉はコノメの語彙にはない。しかし、たくましい腕と敏速で無駄のない身のこなし、張りつめた弦を弾いたような言葉つき、前髪の下の黒々と深い眼の動きはコノメの中の「男」の定義を書き換えるほどめざましく新鮮であった。

迦葉丸が何をどうするつもりなのか、それを知らないではすまされない気持ちがコノメの中で生まれ始めていた。

 

 その夜、寝殿の奥の間で、コノメは前髪を落とした迦葉丸と向いあった。婚礼は二人だけの儀式である。待女房が盃事を取り仕切った後、二人を床に入れて布団をかけて去った。

最初の夜の迦葉丸は慎重だった。念入りに確かめながら事を進める様子は慣れているようでありながらどこかぎこちなく、進むべき道を手探りで探しているようでもあった。

自分の上で迦葉丸の体が次第に熱くなっていくのを感じながら、コノメ自身も我にもあらず蕩かされていた。爪の先から体の芯までことごとく支配され、形を無くし、人ですらなくなったかと思うほどの悦楽に揺さぶりつくされた。

首尾よくことを終えた迦葉丸は、そのままの形で

「よかったか」

 とコノメにささやいた。

「この道には相性とか上手、下手があるそうな。どう思う。おれは見込みがあるか」

待ちきれないように顔を近づけて返事を待っている。

「おれはとてもよかったぞ。女子とは良いと聞いていたが本当だ。コノメは男女のことでは一日の長があるはずだ。思う処を聴きたい」

 地主の神は自分の身の上をすべて迦葉丸に教えたのかとコノメはあきれた。しかし、迦葉丸が自分を蔑んではいないことをコノメの体は感じ取っていた。ひきかえて自分は迦葉丸のことを知らな過ぎる。

「コノメのことをどこまでご存じか。なぜあの辻でわれを攫うた。

いったい御前様は何者か」

 コノメの問いかけに迦葉丸は

「初床で無粋なことを聞くでない。」

 と取り合わない。

「無粋でも大切なことだ。」

偕老同穴(かいろうどうけち)の契りをの初めに、これより大切なことがあるものか」

 迦葉丸はコノメの首筋から胸へと息を吹きかけた。それだけでコノメの全身は反りかえるほどに熱くしびれていく。

薄闇の中でコノメは夢と現の境がわからなくなってきた。目の前の男が長年恋い慕いつづけた想い人のようにも見えてきた。

考えるのは後にしようとコノメは思った。


婚礼は三夜を区切りとし、三日目の朝の露顕(ところあらわし)を経て正式なものとなる。

二日目は朝から帳台の中でじゃれあって過ごした。言わずとも運ばれて来る贅沢な食膳を前に、何一つ働く必要もなく、日がな遊び暮らすだけである。碁の打ち方をコノメに教えたり、絵を描いて見せたりと、迦葉丸は多芸であった。ことに琵琶(びわ)の音には、音曲に心得のないコノメの心も揺さぶられる響きがあった。近頃はやりの平家琵琶よりひと回り大きい、華麗な装飾の施された楽器から紡ぎ出されるのは聞いたこともない不思議な調べであった。

音色は夢の中で聞く女の声のように、尾を引いて籠るかと思えば竹林を吹く風の用に縹渺(ひょうびょう)と響く。

コノメには自分が死んで極楽にでも来ているのか、さもなくば長い夢に迷い込んだように思われてきた。夢なら覚めるのは惜しい。


じゃれつくした迦葉丸とコノメが折り重なってまどろんでいる三日目の夜半、異変は起きた。

門口でざわめきが聞こえたかと思うと、数人の激しい足音が迫り、帳台の(とばり)がむしり取られた。

跳ね起きたコノメたちを緋の衣が見下ろしている。

作法によって、寝所の灯りは婚礼の三日の間、絶やさず守られている。その揺れる燈明に照らされて、大入道が仁王立ちに立っていた。

錦を綴り合わせた袈裟(けさ)を掛け、絹の襪子(べっす)を履いているからにはただの僧侶ではない。

年の頃は四十がらみと見える緋衣は、僧侶らしからぬ激しいまなざしでコノメを見据えていた。

夜具をはぎ取られた迦葉丸とコノメの素肌が薄灯りに白く浮き上がる。

「これがお前の妙賢(みょうけん)か」

 と言うや、緋衣は唐牛の毛が下がる払子を伸ばし、コノメのぴんとたっている乳首を弾いた。

「何さらすねんっ」

 迦葉丸が抑えるより速く、コノメは払子を払いのけた。

「あいたぁっ」

 頓狂な声をあげて大仰に頭を抱えたのはいつの間にか緋衣の裾に取りすがっていた呑牛和尚である。硬い紫檀の払子の柄で眉間(みけん)を直撃されて目を回したようだ。

主上(かみ)露顕(ところあらわし)の宴は夜が明けてからだ」

 迦葉丸が素っ裸でコノメの前に立ち上がり、緋衣の視線を遮った。

「そのようなものに出る暇はない故、夜行のついでに見にまいったのだ。お前が本当に女子といたせるものか見届けにな。」

 緋衣は牡蠣の()き身のような目でどろりと呑牛和尚をねめつけた。

「たいそうな妻をあつらえたものよ。おおかた呑牛の見立てでもあろうが」

 言いながら、払子を拾い上げるついでに呑牛の横面を思い切り張り飛ばした。

還俗(げんぞく)も元服も認めて遣わす。したが」

 と傍らの琵琶を取り上げ

青山(せいざん)は返してもらおう。この琵琶は秘曲を弾ずる国の宝ゆえ、寺を出たものに触れさせることは出来ぬ。」

 迦葉丸の顔に未練の表情が浮かぶのを確かめて緋衣はさらに言葉を重ねた。

「よもや、『楊真操』など女に聞かせてはいまいな。秘曲を洩らせばただではすまぬ。弾いた者も、聞いた者もな。唐、天竺にはよき琵琶がいくらもあろう。名器が欲しければ、望むとおり渡海(とかい)して探すがよいわ」

 怪鳥のように袖を翻して緋衣が去ると、迦葉丸は力が抜けたように座り込んだ。


「あれは誰や。なんであんなに威張りよる。」

 と詰め寄るコノメに

「お世話になったお方や。」

 と迦葉丸に代わって返事をしたのは呑牛和尚であった。払子に痛めつけられて大げさに騒いだ割にはケロリとしている。

「やれやれ、どうやらお怒りは然程(さほど)でもないようや。まずはよし」

 呑牛は立ち上がるや、まめまめしく夜具や帳を直し始めた。

「みょうけんとは誰のことや。他にも妻があるのかや」

 コノメには訳がわからない。

「それとも男か。なんぼ、辻で拾った嫁でもあんまりやおへんか。女子は初めてのようなことを言ってひとをこましといて。だいたい、あの坊主はなんですのん。どっから見ても情人(いろ)やないか。」

 衆道(しゅうどう)はそれ自体、別に道に外れたこととはされていない。しかし妻からみれば不貞であろう。

「まあまあ。そないにいきり立たんと、迦葉丸はんの言い分を聞いたらんかいな。

誰かていろいろややこしいいきさつは有るもんや」

 呑牛和尚は夜具の間に丸まっていたコノメの白い夜着を探り出して手渡した。

コノメとて叩けば埃の出る身ではある。

「だいたいなんで御坊(ごぼう)がここに居るのや」

 コノメは夜着をはおって胸元を掻き合わせた。

「わては迦葉丸はんの主上であらせられる頴心門跡(えしんもんぜき)様の侍者(じしゃ)、つまりお供の端くれやな」

緋衣は頴心門跡(えしんもんぜき)というらしい。呑牛和尚は宗門の弟子というわけだ。

「門跡さまゆうたら、帝の御子か。寝込みを襲うとはさすがに品のええことや」

「そう言いないな。あれでなかなか太っ腹なお方やで。世間知らずの御門跡様としてはなぁ。

お稚児の迦葉丸はんに諸芸、学問、武芸、馬術みな仕込みはったんや。商いをしてみたいといえば土倉を一つ任さはるちゅう按配でな。それをまた迦葉丸はんがあんじょう切りまわしてたちまち大儲けや。御門跡様にすれば可愛い賢い『掌中の珠』ゆうもんや。でも迦葉丸はんももう二十や。お稚児ちゅうにはトゥがたってきはった。で、可愛い迦葉丸はんにせがまれてようよう還俗もゆるさはって、一本立ちの心配までしてくれはったわけや。住む所に商売までつけてな。けど見てみいな、こないに綺麗な若衆やもの、トゥがたったからゆうてそうそう思いきれまへんがな。ふぅ」

 呑牛は息をついで、枕もとの瓶子を物欲しげに見やった。迦葉丸は呑牛に一杯ついでやり、話を引き取った。

「おれは、叡山の領地、近江富永庄の出だ。親は荘園目代の使い走りだった。口減らしのためにやられた寺で頴心様に目をかけてもろうた。とるに足らん身がこれほどにしてもらったのはありがたいことや思うが、坊主にはなりたくない。

本の学問はもう充分や。土倉の商いは儲けは良いが、叡山の後ろ盾があれば当たり前のことや。堺や博多の商人は明まで行って進んだ文物や、珍しい動物やを直に見てくる。呑牛和尚も若い時には大陸に渡っている。おれも海を越えて明国と商いをしてみたいんや。寺を出たのは世間を見たかったからだ。いつまでも前髪でいるのも飽いたしな」

「お許しなすったものの、主上には未練があおりや。他にかあいらしい御小姓(おこしょう)はんが幾たりもおんなはるのに三日に明けずお召があるよってな。これでは渡海などお許しある訳もないがな」

と呑牛和尚。

「で、妻を(めと)ることにしたのだ。胆のすわった、頴心門跡様など知らない、怖れない女子が欲しかった。」

 頴心は洛中で知られた比叡山系の大寺院の門跡である。比叡山の力は帝も遠慮するほど強大であった。傘下の寺は連携し、宗教的権威にを振りかざして政治に介入するだけでなく、洛中だけでも三百件近い土倉、すなわち金融業を営んでいる。その他、酒の製造販売や、輸送業に関わる馬借など、経済の根幹となる産業の権益を抑えていた。

ごろつきのような僧兵がおびただしく飼われていて、その権益を侵すものには容赦なく報復する。比叡山に睨まれたら貴族、武士も貧乏人も安心して暮らせないというほど勢力があった。

なかでも頴心は代々皇族や摂関(せっかん)家の子息が長吏(ちょうり)となる大刹の門跡である。迦葉丸がしかるべき仲人を立てて婚儀を申し入れたとしても、事情を知る家ならば頴心の嫉妬が恐ろしくて尻込みしたことだろう。

コノメにもおぼろげに状況が見えてきた。

「うざいぼんさんから逃れとうて、盾になるような嫁をでっち上げたゆうことか」

 夢の中で雲に乗って天上に遊んでいたものがいきなり突き落されたようなものだ。地主権現のお告げは幻術、目眩ましの類か。

「違う、婚儀はまことだ。よき妻が欲しくて地主権現に願をかけ、参籠する娘たちを見くらべていた。少しばかり策は弄したが、それはコノメが気に入ったからだ」

縁結びで名高い地主権現に詣でる者には良縁祈願が多い。参詣者同士で見染めあうことも珍しくはない。親に伴われた年頃の娘、息子の相手探し、顔見せの場となっている面もある。

「ひと月の余も参籠し、何百人も娘を見たが、気に入ったのはコノメだ。

その強い目がよい。おれはやわな姫は好きでない。」

「ほたら、あのぼんさんの言うてはった『みょうけん』とは誰のことや。わいをあて馬にしくさって、どこぞに隠し妻がおるのやないやろな」

「もう少しましな言葉をつかってくれ。黙っておれば摂家の姫でも通るものを。床の中ではかわいい声を出していたではないか」

 さすがの迦葉丸も辟易したらしく眉間にしわを寄せたが、それでも辛抱強く説明した。

「『妙賢(みょうけん)』とはお釈迦様の弟子、迦葉の妻だった天竺の姫御前、跋陀羅迦毘羅耶(バドラーカピラーニー)のことだ。おれの名が迦葉丸だから、その妻は妙賢というわけだ。」

「上ツ方は焼餅の焼き方までややっこしいことや」

 とコノメは思ったが、かろうじて言葉を飲み込んだ。同時に頴心門跡の尊大さが少し哀れにも思われてきた。どれほど高い位置に登っても、ままならぬことはあるものらしい。


「さあもう夜が明けるわえ。」

 呑牛和尚は手を叩いて女達を呼び、宴の支度に取りかかった。

露顕は頴心の寺の別当と、コノメが地主権現で面倒をみた東塩小路高倉町の油屋の隠居刀自(とじ)が立会ってすんなりと進行した。油屋の刀自は呑牛和尚に言いくるめられ、参籠で縁の出来たコノメを娘分とすることを前世から宿縁と信じて疑いもしないようであった。

油の商いは山城国(やましろのくに)大山崎八幡(おおやまざきはちまん)が生産販売を掌握している。油屋の多くは大山崎の支配に属し印券(認可状)を受けて商いをする。

油屋に限らず、商いの世界は宗教勢力と結び、座などの組織を作って利益を守っていた。なかでも油商人の財力と組織力は大きい。

呑牛和尚はそのあたりも考えて手回ししたのかもしれない。おかげでコノメには結構な実家ができたことになる。迦葉丸の土倉にも役立つことだろう。

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