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第九章・達也の異変

 達也が山仲医院に入院してすぐに、警察に達也が見つかったことを話したが、どういう状態で見つかったかは話さなかった。本当は許されない行為ではあるが、山仲医師の好意で警察に状況をごまかして報告した。そこが山仲医師の良いところであり危ういところだと達也は思った。多分全員同じ感想だっただろう。


 達也の入院している山仲医院は、少し古くなったコンクリート造りの二階建ての建物で、一階が診療所となっていた。数年前現院長の山仲医師一家がこの建物を購入し、多少リフォームしながらも、昔からの姿を残したままで使用していた。建物外観入口に設置された木製の引き戸を開けて中に入ってすぐ右に、三人掛けの長いすが三つある待合室があった。待合室の反対側、入り口から見て左側に小さな受付があった。受付と待合室の間をさらに奥に進んだ、廊下の右側に入院患者用の小さな病室が二部屋あり、左側に診察室があった。そこから更に進むと、レントゲン室となぜか手術室が両側にあり、さらに奥に進むと扉があって、ふだんは当然開けられないが、その奥には小さいけれど花壇が整然と飾られた庭があり、片隅には昔飼っていたという犬小屋があった。診察室の片隅にある、扉の先にある階段をのぼった二階が、山仲一家の住み家となっていて、ちょっとしたバルコニーがあった。

 達也が入院時に使う病室は、奥にある部屋を使用することとなり、面会完全遮断となり、山仲医師がいろいろと調べたり知り合いから聞いた方法などで、薬物中毒の後遺症を少しでも消すためのトレーニングが始まった。達也にとって苦難の日々が始まった。

 初めのうちは食べることも飲むことさえもできず、激しいひきつけが続いていた。自分の意志とは無関係に震えだす体。油断していると、自分で自分の首を締めあげようとしたり、爪で体中をかきむしろうとすることもあった。

 それがおさまったら、今度は鬱病のようになり、何もかもしなくなる。鬱病の原因は薬物以外にもあることを、達也は何となく感じていた。しかし、山仲医師には決して言わなかった。その気持ちを察したのか、山仲医師はとにかく達也が突然暴れだしたり自殺しようとしないよう治療に専念してくれた。

 鬱病になりだしてから、達也がおかしな行動や発言をするようになった。急に何かにおびえだしたかと思うと、ずっと謝り続けたり、そうかと思えば誰かを拒絶するように「やめろ、やめてくれっ」と叫びだし、そして時には部屋から逃げだそうとする。「逃がしてくれっ!」とわめき散らすこともあった。その状況を思わしくないと思ったのか、山仲医師が寝ずの番をしていつも達也の見える場所にいてくれた。診察時間中でも、一人の診察が終わるたびに見に来た。医院自体が狭いので、誰かが隔離されているという事実だけは、すぐにうわさとして近所に広まったそうだが、山仲夫婦の意向を知り、誰もそのことにはふれないし、他言しないでくれたらしい。そのため、本当に病気かけがの人だけが来るようになり、いつものような忙しさはなくなっていたようだった。時には内科に関しては、山仲医師の奥さんが見るようになり、達也のそばにいる時間が長くなっていた。山仲医師の妻は、看護婦長でもあり、医師としての知識もあるので、内科に関しては任せられたようだ。


 ある日達也の様子がおかしくなる直前に、達也が独り言を言っていることに気づいた山仲医師が、達也が独り言をつぶやきだしたときに、達也に話しかけた。

「どうしたんですか、達也君?」

 いつものように優しく話しかけた。すると達也が振り返り、突然叫んだ。

「うるせぇっ」

 それはいつもの達也とは思えないほど、野太い感じの声だった。表情もとても同一人物とは思えないほど、彼の顔はゆがんでいた。歯をむき出し、目を極限までつり上げ、鬼のような形相でにらみ付けられた山仲医師は立ちつくし、言葉を失ってしまった。それを見た、達也のはずのその人物が、更に声を荒らげて大声でわめきだした。

「うるせぇ、うるせぇ、どいつもこいつも俺を否定しやがって、ぜってぇーゆるさねぇ、この恨み絶対はらしてやるっ!」

 叫びの内容が少し支離滅裂でわかりにくいが、誰かに対して何かを訴えているようなのは山仲医師に伝わった。山仲医師がそれを聞こうと口を開きかけたとき、途端に彼の体が震えてその場で倒れた。そして意識を失った。

 達也が意識を取り戻した時、山仲医師に抱きかかえられていた。今の達也の表情は、いつもと変わらない感じだった。悲しげな表情だったが、先ほどのような激しい感情が表に出たような表情ではなかった。

「すいません先生」

 弱々しく達也がつぶやいた。山仲医師は安心したように胸をなでおろし、達也をベットに座らせて話しかけた。

「いえ、いいんですよ。それより、どうしたんですか」

「先生、このこと、誰にも言わないでくれますか」

「しかし」

「お願いします」

 達也の真剣な熱意を受けてしばらく考え込んでいたが、断って何か悪いことでも起きてはいけないとでも思ったのか、山仲医師はとりあえず承諾した。

「先生、俺時々記憶が飛ぶんです」

「飛ぶ?」

「気がついたら泣いていたり、震えていたり、この部屋から逃げようとしたり。いや原因も理由もわかるんですけど、時々いつの間にか自分の意志とは違うことをしてるんです。これってなんなんですか?」

「達也君」

 そう言ってから山仲医師は絶句してしまった。達也は山仲医師に説明した手前、自分の今の状況が統合失調症、かつて分裂症と呼ばれた病気の症状に似ている事を知っていた。ずいぶん前から自分ではない自分が存在していることを感じていた。時々身に覚えのないことを友人とか知人から言われることもあった。そういう時は決まって記憶が飛んでいて何も覚えていない時に起こった事だった。和也や両親に相談することもできず、独学で調べて自分の症状を知った。そして症状の出た原因も知った。それでも山仲医師に聞いたのは、ちゃんとした確信がほしかった。信じられなかったからというのもあったが、ちゃんと知りたかったのだ。

「達也君、今、理由も原因もわかってると言ってましたが、どういうことですか」

 山仲医師が、ゆっくりと問いかけると、達也はうつむいて黙り込んだ。しばらくの沈黙ののち、山仲医師が小さくため息を吐いてから達也に話しかけた。

「とにかくそんな状況では、ますますほっとけないですね。おそらく記憶が飛ぶのは、記憶障害の一種でしょうし」

「はい、すいません」

 達也は力なくうつむいた。山仲医師でもわからなかったのだろうかと、達也はそっと山仲医師を見た。すると山仲医師は手を顎のあたりに持っていき、考え込むようにうつむいていた。

――もしかすると山仲医師は俺を試したのかもしれない。わざと的外れなことを言って反応を確かめたのかもしれない。もしかして山仲先生は気づいたのかもしれない、俺の事を。

 再びうつむいた達也に、山仲医師は、

「とにかく、自分を強く持つのです。決して諦めてはいけませんよ」

 と言って病室を後にした。その後、広田の案で平日休日関係なく、共通の友人たちが毎日かわるがわる泊まりに来た。泊まり込みで仲間たちが来ている間、達也がおかしな行動をすることも、達也が達也でなくなることもなくなった。達也のそばに常に誰かがいる事で緊張して落ち着いているのだと達也は思った。

 しかし、ある日山仲医師が、達也にそっと、

「最近は、落ち着いてるようですね」

 と聞いてきたら、

「いいえ、本当は落ち着いてなど、いませんよ」

 と抑揚のない声でつぶやいた。その口調は達也のそれではなかった。山仲医師が驚いて話しかけようとしたが、達也のはずのその人物は、そのまま横になって眠った。

 その後も仲間たちが来ていたが、和也は一度も来なかった。それが達也を苦しめていたが、反面ほっとしていた。和也が今来れば、どんな顔をして会えばいいかわからなかったし、和也から何を言われるのか怖かった。だから、和也が来なくて良かったと達也は思った。

 両親は、達也が来るのを拒んだ。今は両親に会いたくなかった。会えば自分はとんでもないことをしてしまう気がした。だから、会いに来てほしくなかった。一度だけ、こっそり母が見に来ていた事があった。そのことに気付いて、達也は大暴れした。そんな夢を見た。しかし、山仲医師が、

「先ほどお母さん帰りましたよ。心配してましたけど、さっきのことは気にしなくていいと言ってました。それよりも早くよくなってほしいと言ってましたよ」

 と言ってきた。それで夢ではなかったと気づいた。

「そう、ですか」

 力なくつぶやいてから、両親に来ないよう改めて念おしした。それからは一度も両親は来なかった。

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