第二章/chapter2 目覚め:負の連鎖
進次を助けた少年、神山焔が進次の手を引き、避難民に割り振られる個室に入る。
部屋の作りは実に簡素で、入り口から右の壁に二段ベッドと、向かいの左の壁に書き物をする程度の机と椅子、電灯が置かれているだけ。
しかし一ヵ所の体育館に身を寄せあう状況よりは、場所取りの物理的にも、赤の他人との仕切りがあるという精神的にも、遥かに恵まれた環境だろう。
「あのさ、さっきの女の人の声のだけどさ」
職員に兄弟と勘違いされ、同じ部屋を割り当てられた焔が、進次にぽつり、話しかける。
「…………」
進次が目を伏せて、焦燥を胸に沸かす。
「誰か‼その子を‼進次だけでも‼お願い‼」
あんな風に、思い切りに張り上げた母の声は初めて聞いた。
どうして、お母さんはあんな状況で僕の心配をできたんだろう。きっと、お母さんだって怖かったはずだ。きっと、あのまま逃げ出したかったはずだ。なのに、どうして---。
「おい、おれの話聞いてる?」
はっ、と目を、顔を上げる。そこには不機嫌そうな焔の顔があった。進次が慌てたようにどぎまぎと、ぶつ切りに言葉を探しながら、目を泳がせる。
「ごめん、なさ。なに、ですか」
「あー、いいよタメ口で。あの女の人はお母さんだったのかって聞いたんだよ」
進次が怯えた表情を見せ、焔が気まずそうに再び訊ねる。進次はこくんと、控えめに首を縦に振り、焔の言葉を肯定した。焔が困ったように眉を潜めながら、そっと、励ますように進次の頭を撫でた。
「そっか……。はぐれちゃったな……」
焔の言葉に、進次が左手を見つめ、力無く握り締める。
もし、あのときこの手を離さずお母さんと一緒に逃げられたら。あんなに、悲しそうな叫びをさせずに済んだのではないか。やるせなさに握る拳に力を込め、焦燥は更に胸を走る。
「…なんにしても、疲れてないか?ずっとあの地下道歩いてたんだろ?おれは疲れた。ちょっと寝たい」
焔のあっけらかんとした態度に、進次はきつねに摘ままれたように問いかける。
「ホムラくんの家族は?一緒じゃなかったの?心配じゃないの?」
進次に問われ、焔が眉間にしわを寄せながら宙に目を泳がせる。
考えまいとしていたこと。きっと、大丈夫だとそっと蓋をしたもの。それを触られたら、誰だって不安に心を揺さぶられるというものだろう。
しかし、問われたからには応えなければ。誰よりも誇らしい、彼らの背中を。
「おれの親さ、塔機関の研究者なんだ」
焔の言葉に、進次が首をかしげる。焔がダメだこりゃ、と肩をすくめる。どうやら進次は塔機関の、虚獣との戦いにおける重要性を理解できていないらしい。
「……はしょって言えば、おれの父さんも母さんも、虚獣と戦ってる…ってことだよ」
その言葉を聞き、進次の瞳が一瞬、輝きを取り戻す。
「ホント?ぼくのお父さんもミトスなんだよ!しかもすごく強いの!なんてったって、班長もしてるくらいなんだから!」
進次の語りは止まらない。焔は薮蛇だった、と後悔しながらも、先程までの落ち込みようが嘘だったかのように、懸命に父を慕う進次の笑顔を、止めることができなかった。
---悪夢は連鎖する。無慈悲に、無垢なる心を、冷酷に嗤うように---
「きゃあああああああ!痛い、痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいっ…ああああぁぁああぁ‼」
それは、進次の知らない虚実。先程まで避難に使っていた、地下道のはるか先に、その殺戮は起きていた。
蛍の躯を裂き、腸を貪る虚獣。
(やめろ)
四肢を咬み、これは自分のものだと主張しあうように引き裂き刑を行う虚獣。
(やめろ!)
距離にして、百メートル。こんな距離では聞こえるはずもない、骨が砕ける音、筋肉の断線する音、そして次第にむき出しになっていく、関節の軋む音。
(やめろ!!)
あれこそが酒池肉林。逃げ遅れた人間が、放たれた獣に弄ばれ、蹂躙され、そして喰われる残酷な嘲笑にまみれた、唾棄すべき娯楽。
「お母さん‼」
走る。恐怖を上回る、生まれて初めての激情に、震える足で母のもとへ走る。
そんな脳髄の恐慌/興奮状態に、口はすっかりからからに渇ききり、えもいわれぬ絶叫を放ちそうな胸は、痛いくらいに鼓動を加速させる。
あの、すでに肉塊と化している女性にどれほどの自意識が、魂が壊れずに残っているかは定かではない。だが、それでも、
「-----じっ」
その目は虚ろの虜になりつつある。こんな距離で聞こえるはずのない、殆ど機能していない肺が空気を送り出す音が聞こえる。
そんな、満身創痍の彼女の、どこにそんな力が残されていたのか。 そんな、死に体の彼女が最期に張り上げた叫びは、
「----進次!!逃げてええぇぇぇぇ!!」
「---じ。しんじ!」
呼び掛ける声、頬を叩く感覚、揺さぶられる体で、進次は意識を急浮上させる。
「あ……あ……!ゆ、め?」
目を開くと、そこはいつもの白い天井と明かりの消えたライト、そして緋色の髪を乱した、見慣れた焔がこの世の終わりのような顔で進次の顔を覗き込んでいた。
「………大丈夫か?」
進次の目覚めが、それほどまでに安堵に値したかのように、焔が深々と息を吐き、額の汗を拭う。その様子を見て、進次の身体も、ぐっしょりと汗に濡れていたことを認識する。張り付くTシャツの感触と、生暖かく鼻をつくその匂いの不快感に苛まれながら、まずは目の前の友にかけさせた心配を謝罪する。
「ごめん、なんか大変だったみたいで」
「ホントだぜ、俺が飛び起きるくらいの大声でうなされてたんだ…相当嫌な夢だったみたいだな」
焔が進次から目を伏せながら、タオルを差し出す。進次が見た悪夢の内容の、おおよそ予想がついていたからだ。
それは、10年前の追憶だ。[澤館虚獣大災害]。
あの日、進次は焔と出逢い、母親が虚獣に引き裂かれる悪夢を見て、そして-----。
「……………」
「……………」
進次が身体をタオルで拭う衣擦れ音だけが部屋に響く。進次自身、この夢を見るのは久方ぶりだったこともあり、脳裏に焼き付いた、目の当たりにすらしていない虚構の悪夢に背筋を凍らせる。
我ながら、悪夢の中でまで悪夢を見るなどとは、しかもそれを思い出すとは、稀有な記憶能力だと自嘲する。
そうでもしなければ、今は平静を保つことが難しそうだった。
世の中とは不可思議なもので、悪いことというものは連鎖的に襲いかかる。進次が焔に曖昧な言葉すら告げられず、日課のクリウスの剣術訓練に出掛け、[心の森]のいつもの花の犬走を歩いていた頃。
「なんだと!取り消せよ!」
それは幾汰の怒鳴り声だった。続いて、美音の割って入る声。
何事かと走り、角を曲がる。その先には、円形石畳の中庭に、今にも直久に飛び掛かりそうな幾汰を抑える美音と、その様子を小馬鹿にしたように失笑する直久、おろおろと看過する彰人が見えた。
「取り消さないよ。だって幾汰は、ボクより弱っちいんだから」
直久の容赦のない言葉の刃が、幾汰を襲う。幾汰が美音の腕の中で暴れ、美音が振り切られないよう必死に抑え込む。
見渡すと、どうやらクリウスはその場にいない様子。そんな僅かな気の緩みから、あの喧嘩は勃発したらしい。
こんな空気が、進次は苦手だった。
きっと、聞き流すことのできたはずの小さな齟齬。いつも同じ方向を向いて歩いていたはずの人々が、向かい合い、互いの僅かな違いを認められずに背を叛け合う、そんなありきたりな対立が。
「二人とも、そこまでだよ」
それでも。だからこそ。この少年たちの中でも、進次は年長なのだ。確かに義兄なのだ。見過ごすわけには、ましてや見ないふりをするわけにはいかなかった。
「え、進次くん!?なんで!?」
幾汰が進次の登場に驚きながら抗議を続ける。
「あーあ、ホント、弱い上に顔真っ赤にしてわめき散らすなんて、はずかしいなぁ」
「直久くん、それ以上は、いけないよ」
進次の黒曜の瞳が静かに直久を捉え、直久が気圧される。進次はいたって冷静に怒っていた。だが、問答を交わさねばこの問題が解決しないことも解った上で、こうして威圧してしまうのが正しいのか、進次は未だ答えを得られずにいたのも、また事実であり。
「あー…その。どんな理由があっても、相手を馬鹿にするのはよくない。わかるね?」
直久の目に怯えを見た進次が、取り繕うように直久に語りかける。直久は落ち込んだように、ふて腐れたように進次から目をそらしながら、竹刀の先で石畳を小突く。
「いやーお待たせ。さあ、続き…を…。何かあったのか?」
クリウスがクーラーボックスを肩に掛け、中庭に戻る。美音がまずい、と幾汰を放し、彰人がどぎまぎとぶつ切りの言葉で状況を説明しようとする。
そんな様子に嫌気が差したかのように幾汰の怒りが冷め、直久を睨み付ける。
「直久、おまえ、許さないからな」
そう吐き捨て、犬走に走り出す。もはや通じ合えぬと、もはや共にあることはできぬと、分かり合うことを拒絶しながら、怒りを込めるように犬走に激しい靴の音が響く。
「幾汰くん!」
その背を逃さぬよう、クリウスの低い呼び声が幾汰の足を引き留め、嫌々ながら振り向かせる。
「あとで、お茶でも飲みにおいで。待ってるから」
それは、クリウスが子ども達の話を聞くときの常套手段。子どもに選択肢を与え、待ち、歩み寄り話し合える時まで堪え忍ぶ、一種の我慢比べだ。
幾汰は考え込むように路傍の花に目を落とし、頷くことも返事をすることもなく、ふたたび走り出す。
---今はこれでいいのだと、確かめるようにクリウスが目を閉じ、深呼吸。目を開き、進次と教え子達の中庭に振り返る。
「じゃあ、続きを始めようか。直久くんも、気が向いたらあとでお茶を飲みにおいで」
「……はい」
どんよりと、淀んだ空気を払うようにクリウスが微笑む。あのように、人々の沈みきった心をすくい上げる人間になるには、不幸の種を払い除ける人間になるには、どんな人間関係を、人生を歩めばなれるのか。
それは進次の、自分を取り巻く人々の幸せを守るために至らなければならない、永遠の宿題であり目標でもあった。